「福音信仰宣言」
「福音を恥としません」と宣言したパウロにとって福音とはどのようなものだったのでしょうか。恥じる感覚の対極にあるものは誇る感覚と考えることができます。恥じる感覚と誇る感覚の根底にあるものの違いを知れば私たちの福音に対する態度も変わるかもしれません。
パウロは、福音は神の力であり、人間はそこに貢献することができないと捉えています。一方的に罪人に与えられた恵みであり、この福音を受け入れなければ信仰として始まらないと考えていました。
この福音の内に啓示されているものが神の義です。義とは正しさとも訳されますがユダヤ人たちの間では律法に照らし合わせて間違いのないことが義と考えられ、これを守ることが信仰とされてきました。
しかしパウロは義とは獲得するものではなく、信仰によって与えられるものだと主張しています。信仰は律法に沿った行為ではなく、神との関わりの証であると語ります。
パウロは福音が単なる歴史的事象で無機質なものではなく、福音を成し遂げた相手が存在し、自分のために与えられた関係があることを受け入れていました。その上で信仰は、自分のいのちが失われ、そこから救われた状態にあり、救ってくださった方と関わりを持ち、その救いの道程を歩むことであると、自らの経験を含めて示しています。
信仰は神との信頼関係、忠誠を意味する言葉であることから、信仰は神に対する忠誠を、歩みをもって証しするものであると語ります。神との二人の関係に留めておいてはいけません。それを他者に伝えて初めて証となるからです。福音を受け入れるだけでなく、福音を受け入れ神との関わりを示す者となりましょう。