「恥ずべきものに引き渡される神」
人を創造し、愛し、救い、赦される、あわれみ深い神は、なぜ人を恥ずべきものに引き渡され、悪を行うことを許されるのでしょうか。
その原因は人間が神に怒りを起こさせたからです。人は神を神としてあがめず、愚かになり、神が本来受けるべき栄光を他のものへと替えました。そして神の真理までも偽りのものとし、神を知ることさえも価値を認めませんでした。
ユダヤ人たちは律法を大切に守ってきていたはずです。しかし、そこには律法を順守することで優位に立つこと、自分自身の判断を律法化してしまう現実がありました。
自分自身の思いを優先させたことによって、神との正しい関係、すなわち義は失われ、神にささげるべきものを他のものへと移してしまったのです。その結果、神の怒りを起こしました。それは、どんな行いがいけないのかという具体的行為の善し悪しよりも、自分を律法化する姿勢の積み重ねによって引き起こされたものでした。
神は怒りによってこのような人間を汚れに、情欲に、無価値な思いに引き渡されました。神を選ばなかった者は別のものに引き渡されることになるのです。そこにあるのは悪です。
悪に引き渡されることによって聖なる宮として創造された体は辱められ、キリストと一体となるべき関係は崩され、救いの道は閉ざされ、死へと導かれてしまします。
神が人間を悪へと招き、引き渡したのではありません。人間が神を認めず拒んだ結果、悪の力に引き渡されることになったのです。自らの罪を神の責任だと転嫁させる姿勢がまさに愚かなことなのです。