6月10日
家庭訪問に行ってきました。私にとっての初めてのお宅訪問はドキドキでした。何を聞けばよいのだろうか、どのような話をすれば良いのだろうか、失礼なことはないだろうかと、考えても何もわからないただ、車を走らせる前に「神様、どうか導いてください」と祈り、教会を出発しました。家庭事情もわからない中、教会の教師としてどんなことを聞かれるのか、質問に答えてくださるのかという不安はありました。私は何ができるだろうかと心配がぬぐい切れていませんでした。
家族のこれまでの歩みや信仰の歩みを伺っている時、私の心の中にだんだんと深く突き刺さってくる問いが起こりました。「あなたは牧師として信徒のために何ができるのですか。」「牧師とは信徒にとってどんな存在ですか。」2つの問いのようでそれは1つの質問でした。
家庭訪問の団欒の中で、私が口に出した、この問いに対する答えは、「自分と向き合い、神様と向き合う中で、人に言えない過去の罪や思い煩い、闇の部分を告白し、光のものとなるための相手になりたい。闇が光に照らされて光のものとされるための助け手となりたい。」というものでした。私自身が語ったこの言葉に思いもよらなかった導きがありました。何ができるのかと思い煩っていた私に、「私が光を照らすのだ。あなたは照らす場所にいればいい」と語ってくださる神様が家庭訪問のテーブルに共に座っておられたことに胸が熱くなりました。
実を結ばない暗闇のわざに加わらず、むしろ、それを明るみに出しなさい。すべてのものは光によって明るみに引き出され、明らかにされます。明らかにされるものはみな光だからです。
エペソ人への手紙5:11、13~14