9月22日
岡山に赴任する前に所属していた教会から友人が私たちを訪ねて来てくれました。8月の教団の集会で、少しだけ話すことはできましたが、お互いに奉仕があり、話す時間がほとんどとれなかったため、久しぶりにゆったりと分かちあう時間を持つことができました。
過去の教会での過ごし方、今現在の働き、そして将来への展望など、互いに教会に仕え、働くものとしての気持ちや考えていることを話しながら、祈ることができました。
せっかくなので、教会の活動であるプランターで、証をお願いしました。テーマは「私の罪と救い」としました。自分の弱さや負債についても主が働かれることについて語ってくれたらいいな、と思っていました。しかし、そこで友人が語ったことは、親に対して赦せない、和解できない自分の素直な姿でした。
神を信じてイエスキリストにあって、自分は神と和解ができましたが、この地において自分は和解しなければならない相手を赦せないでいる。御言葉に生きようとするがゆえの彼女の葛藤が証から溢れていました。彼女の苦難と忍耐は、神と向き合わざるを得ない証という機会を通して光に照らされることとなりました。
主を信じているからこそ、通らなければならない道が示されることがあります。しかし、その道を避けずに通るなら、そこに働かれる神への確信と希望が与えられることでしょう。
苦難が忍耐を生み出し、忍耐が練られた品性(確信)を生み出し、
練られた品性(確信)が希望を生み出すと、私たちは知っているからです。
ローマ 5:3~4