10月20日
プランターで学びをしているとき、あるテーマについて、「わたしにはその価値が分からない」という意見が出ました。すると、周りの参加者が、こういうこと、ああいうことと説明をしていきました。しかし、腑に落ちなかったのか、その方の表情がう~んといった様子のままだったこともあり、次から次へと、説明が始まってしまいました。そこまで来るともはや説明というよりも説得になってしまい、相手が「参りました」もとい「わかりました」と言うまで打ち合うことになりそうだったので、「説得させてはいけません、納得に値するその大切なものを『自分で』掴めるように、待ちましょう」とその場を制すことになりました。
これほど強めに言ってよかったものかと心残りもあった翌日、礼拝からしばらく遠ざかっていた方と久しぶりに食事をしに行きました。何気ない会話の後、信仰生活が心配で、できればまた一緒に礼拝したいと願っていることを伝えました。そして次回の食事の日程を決めようとしたとき、その方が「先生、できれば私のことを心配してくださるのはありがたいのですが、保護者のような目線で食事するのは心苦しいです。お友達のように気軽に食事したいです。」と言いました。
その時、前日に自分で言った言葉が思い返されました。『説得しようとするな』と自分で発した言葉でさえも、それを形にすることが何と難しいのかと反省し、主が働かれることを祈りました。
私たちは自分自身を宣べ伝えているのではなく
主なるイエス・キリストを宣べ伝えています。
私たち自身は、イエスのために
あなたがたに仕えるしもべなのです。
2コリント4:5