2月2日
プランターの学びの中で、「接ぎ木された枝とはどんな枝ですか?」という問いについて出席者の方々と意見を出し合いながら一緒に考えていたときの話です。
聖書についての学びだからこそ、クリスチャンであることという意見や永遠のいのちを受けることという答えもありました。また、接ぎ木ということに注目して、イエスさまと密接につながっていることや枝そのものが新しく生まれ変わるという答えもありました。
これらに加えて園芸を楽しんでいる方ならではの意見が出ました。接ぎ木された枝だけでは咲かないこと、枝自体には力がないこと、そして接ぎ木された枝からは幹の実ではなく、その枝の実がなるということでした。
園芸は身近に感じていながら詳しいことがわからなかった私にとって、園芸を通して見る聖書の言葉はとても新鮮です。これまで、イエスを信じている人は結局同じ実がなるのだと漠然と考えていた私に対して、「あなたの枝の実がなるんだよ」という言葉は同じ種類の実がなるとは限らない、むしろ全然別の実がなることが当然だったのです。
ただ、どんな枝でも同じ木に接ぎ木されているのなら、全部同じ木からなった実であるとも確かです。
キリストが私たちの「いろいろな実」を「同じ木の実」として力を与えて収穫してくださるのなら、周りの枝の実と同じ味ではなく、その木らしい味わいを醸し出す生き方をしたいと思いました。
御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、
善意、誠実、柔和、自制です。
ガラテヤ5:22~23