3月29日
予定していたキリスト教の超教派イベントが中止となったこともあり、手続きのために担当の牧師に会いに行ってきました。手続きはサインと印鑑だけ。たったそれだけの内容でありながらも、少しばかり話を始めました。
「コロナの影響は先生の教会はいかがですか?」
このような質問が、最近は誰かと会うたびに挨拶代わりの言葉になっていると感じました。
そして「いや~うちの教会も・・・」と。
他者の影響を受けて苦労しているという世間話はどの時代でも多く話されてきたものでしょう。しかし、いつの間にか自分も同じように被害者アピールをし、大変さを見せてしまっているなと気づきました。
家に帰り、「疲れた~」と一息吐くと、嘆き叫ぶ声で妻が、
「疲れたなんて言われたら、私は何もお願いできないじゃない。
私だって疲れてるのは同じなの!」
私にとっては単なる言葉だとしても、それが相手にとってみれば思っても見ない影響を与えているのだと気づかされた瞬間でした。妻に謝り、改めて自分で気づいていなかった弱さについて考えました。
キリストは、信仰についてははっきりと伝え、人の弱さや病などには寄り添いました。どんなに不条理であっても、相手を責め、弱音を吐くことはありませんでした。
私も弱音や不安を吐く前に、目の前にいる人に寄り添う者でありたいと反省しています。
誘惑に陥らないように、目を覚まして祈っていなさい。
霊は燃えていても肉は弱いのです。
マタイ26:41