4月5日
携帯電話のSNSにしばらくぶりに連絡が届きました。その内容は会いませんかというもので、私は快く引き受けました。しばらくぶりで嬉しさのあまり、こちらからの話がこぼれてしまうので、その場を妻に委ね、私は晩御飯の準備をして心を落ち着かせることにしました。
食事もひと段落し、楽しい話もしながらではありましたが、なぜ連絡を取ったのかという「本題」に触れていなかったので、聞いてみました。すると、このような答えが返ってきたんです。
「洗礼を受けようと決めたんです。」
私は思わず立ち上がりたくなるほどの喜びが湧き上がってきていました。福音の訪れを感じないわけにいきませんでした。洗礼に導くのは牧師(牧会者)の務めとも言われるかもしれませんが、この一言について私は何も関与していないのです。ただただ、遠くからその時が訪れるのを祈りながら待つしかありませんでした。
前日の学びで学んだ箇所が頭をよぎります。
『キリストが私を用いて成し遂げてくださったこと』
その言葉には私の成果ではなく、私がキリストの働かれる現場で目撃者となり、証しする事柄を与えてくださっているということが表されているのだと理解しました。福音の救いの訪れ、神の国の到来の目撃者になれることは、至極の喜びであり幸福です。
キリストが私を用いて成し遂げてくださったこと以外に、
何かをあえて話そうとは思いません。
キリストは、ことばと行いにより、
また、しるしと不思議を行う力と、神の御霊の力によって、
それらを成し遂げてくださいました。
ローマ15:18-19