4月12日
生後100日を過ぎた子どもを連れて記念写真を撮りに行きました。このために私たちの両親から赤ちゃん用の着物とチマチョゴリを用意していただいたこともあり、親孝行を兼ねたものとなりました。
韓国で生後50日を撮影していたり、離れていたときにビデオチャットで話していたこともあったため、カメラ目線は得意だろうと思っていましたが、実際は簡単にはいきません。日常とはまったく違う雰囲気に戸惑ったり、興味を示したり、泣いたりして、なかなかカメラに目線を送ることができません。
そんな時、カメラマンの方はカメラのレンズの前に立ち、タンバリンなどの鳴り物で気を引いて、顔と目線が向いた一瞬に身をよけてシャッターを切ります。サポートで入っているスタッフもその一瞬に至る直前まで、体を支え、撫でたり、首の向きを変えたり、機嫌を取ろうと働きます。そして出来上がった写真には笑顔の娘が写っています。
たった一人の一瞬を切り出すために多くの人々が支え働く姿は、写真には写っていませんが、私の目の中には確かに映っています。
聖書の中には大きな出来事が描かれています。歩みや働きが目立つ人々が幾人も記されています。しかし、そこに至るまでに、周りの人々が支え、文字で表しきれない働きもまた数え切れないほどあったことでしょう。聖書記者たちの目には、スタジオのカメラマンやスタッフのように仕える弟子たちの姿が映っていたことでしょう。
表立たず仕える人々の尊さは誰にも何にも劣ることがありません。
人の子も、仕えられるためではなく仕えるために、
また多くの人のための贖いの代価として、
自分のいのちを与えるためにきたのです。
マルコ10:45