5月10日
高校時代の友人とインターネットを通して久しぶりに話をしました。親も同級生で子どもも同い年で生まれた日も10日しか違わないこともあり、互いの顔を見ながら、子育てや子どもの成長についていろいろと話ができました。
コロナ禍(か)の影響もあり外になかなか出られずに育児をすることや、子どもや親自身が病気のときの気持ちを共有することは、同じ状況の人となかなか分かち合うことができないこともあり、とてもホッとする時間となりました。
その日の夜、今度は教団の活動についてのミーティングがネット会議で行われました。今年度から加わった活動のため、いろいろと教えてもらいながら今後何ができるかを話し合うことができました。
牧会の状況や先生方の私生活も含めて会話ができていたこともあり、家庭と牧会のバランスや礼拝に来ることのできない方々への援助の様子を聞きながら、同じ状況に立ち向かう先輩方の姿に励まされました。
そして、今週の礼拝を受信するためのアプリを導入しようと来られた信徒に向けて設定し、テスト配信していたときに別の信徒が配信に加わり、みんなで話ができました。そのとき、顔を見ながら会話する全員に笑顔がこぼれました。
神と交わり、仕えるために力が与えられ、人と人とが励ましあいながらその力を用いたり借りたりすることは、人間として造られた大切な目的を果たすものだと感じました。
ですから、だれでもこれら(不義)のことから離れて
自分自身をきよめるなら、
その人は尊いことに用いられる器となります。
すなわち、聖なるものとされ、主人にとって役に立つもの、
あらゆるよい働きに備えられたものとなるのです。
2テモテ 2:21