6月7日
韓国語聖書クラス(KBS)が曜日を変えて再開されました。赤ちゃん二人を休ませつつ、お母さん同士の交わりもありつつ、楽しいひと時となりました。私自身は宣教師という立場で、韓国の教会の日本語礼拝部で1年間奉仕しましたが、教会で韓国語を学ぶ機会はなく、市営の語学センターや大学の公開講座で少し学ぶだけでした。
それが教会で一から学べる、しかも日本語で説明をしてくれるという恵まれた環境が与えられているのです。
そうは言うものの、講師は妻なので、今までいくらでも学べたともいえますが、身内のため、特に夫婦で言語を教えあうのはとても恥ずかしいものがあります。正しい表現や言葉遣いをという思いから間違いを指摘すると夫婦喧嘩の火種に発展しかねません。そのリスクを背負うよりは、話せる言葉で話したほうが平和は近いでしょう。
しかし、第三者に教えるなら話は別です。当日は私のほかに3人の方々が学びに来て、私も子守ついでに話を聞きながら、文字や発音を習うことができました。習ったことがあっても、大切なことを再度知ることや学びの場があることに喜びがあったのです。
聖書の学びも同じです。知っている聖書箇所であるはずなのに、新鮮に感じることや、初めて聞く箇所なのに親しみを感じるものもあります。なにより、学びを通して、みことばを信頼する思いだけでなく、信仰を話し合う仲間が与えられている喜びがあるのです。
学びの尊さは内容に加え、ともに学ぶ交わりにもあるのです。
するとその人は、
「導いてくれる人がいなければ、どうして分かるでしょうか。」
と答えた。そして馬車に乗って一緒に座るよう、ピリポに頼んだ。
使徒 8:31