光テラス No.113

6月14日
 プランターのお休みした部分を学びたいという声を受けて、復習していたときに、「神と出会う」ということがわからないという意見があがりました。この意見は私たちを「出会う」ということはどんなものかを考えるきっかけとなりました。

 出会いとはお互いを認知して、関係を持ち始めることです。片方だけが「あっ!」と気づいても、そこで素通りしてしまえば、出会ったことにはなりません。会社の入り口で「おはようございます」と毎日のように声をかけても、特定の相手を意識していなければ、会って関係はもっていても、認知しているとはいえません。

 神はいると思っていて、神が何かしら働きかけたり、導いたりしているような気がすると言われ、続けて「でも神と出会ったのはわからない、いつ出会うのか」と尋ねられた私は、「もう出会っていませんか。いや、出会っているのを認めたくないのかもしれません。」と答えました。

 神を認知して、神の働きかけを感じているということは、すでに関係を持っていて、もう出会っているのです。でも神だからこそ、ドラマチックな出会いをしたいと思うんです。「私は神とこのように出会ったんです!」と堂々とみんなの前で言いたいという願いがあります。

 でも実際は違います。神は初めから私たちのそばにともにいてくださっていたのですから、出会いがドラマチックなのではありません。そこにあるのは劇的な気づきです。神はいなかったのでも、会っていなかったのでもありません。でもその気づきことが私たちに委ねられたからこそ、私たちは神との出会いが感動的なものになるでしょう。

あなたはわたしを見たから信じたのですか。
見ないで信じる人たちは幸いです。   
                 ヨハネ20:29