光テラス No.132

11月1日
 和気町出身の精神科医師の歩みを記録した映画「精神0」を観てきました。もともと「精神」という映画のその後を追った続編映画ということでした。映画製作の上で脚本や打ち合わせはなく、ありのままを描いた映画ため、予定調和や流れというものはなく、映画の展開もぶつ切れではありました。
 映画の上映が終わると主人公の精神科医ご夫妻が舞台に登壇し、挨拶されました。その中で特に印象に残った言葉が「この映画は見ている皆さんの自由に解釈できるわけです」というものでした。

 確かに、聴衆に直接働きかけることのない観察映画にはわかりやすい感動は起こりにくく、映画を良く見る人でも消化不良に終わることがあります。しかしながらこの映画は間違いなく監督の意図をもって編集され、事実の中から選び出された場面がつなぎ合わされています。そのゆえに自由な中に生まれる共通項としての感想が現れてきます。視聴者の感想を尋ねたなら、きっと誰の口からも夫婦愛を感じたという言葉は聞かれるはずです。

 聖書は映画監督以上に確かな意図をもってつむぎ合わされた神の言葉です。そこには聖書記者を通して編集された、神の計画があり、神の働きの事実が積み重ねられています。何も知らされずに読んだ読者は多種多様な解釈ができてしまいますが、神が私たちを愛するがゆえにイエス・キリストを通してお救いになられたことは、確かに読者に届けられるでしょう。

    聖書はあなたに知恵を与えて、
    キリスト・イエスに対する信仰による救いを
    受けさせることができます。
                 2テモテ3:15