1月17日
信仰の友の存在が本当に大切だと感じたことがありました。先日久しぶりに神学生時代の友人であり、牧会の先輩でもある友人夫妻にビデオ通話をかけました。何か月ぶりに友人の顔を見ると、ほっとしたことを覚えています。
全く知り合いのいない場所に赴任をすると、その地で出会う方々に同世代がいなければ、新しい友人と出会うということは難しいと感じることがあります。牧会者の友達は牧会者ということはよくあります。
例に漏れず、ビデオ通話をした友人夫妻も牧会者ですが、説教のことや学びや交わりのことなど、場所は違えど考えていることや悩みやすい点も気軽に共有できるのは確かに同業者ならではです。
夫婦同士も仲が良く、共通点も多いことから、話も弾み、久しぶりに何も気兼ねなく、他愛もない会話を数時間も続けていました。
会話を終えようとしたとき、友人がこのように私に語りました。
「ぼくは自分からは電話かけたりしないんだけど、
今日みたいにかけてくれると、とっても嬉しいよ。ありがとう。」
その言葉は私にとってとても大きな励ましと慰めになりました。数時間も取ってしまったという申し訳なさと、自分だけが満足していたら悪いなという遠慮の中で、友として私を受け入れてもらえているのだということが一瞬で伝わってきたからです。喜びと感謝を伝え、通話を終えたとき、心の底から嬉しさがこみ上げてきたのでした。
わたしの喜びがあなたがたのうちにあり、
あなたがたが喜びで満ちあふれるようになるために、
わたしはこれらのことをあなたがたに話しました。
ヨハネ12:11