1月24日
1年以上ぶりにDVDで映画を見ました。昨年度話題になった韓国映画で、社会下層で生きる家族が、友人の紹介をきっかけに上層家庭の中へ徐々に入っていき、裕福な生活を得ようとする様子が鮮明に描かれていました。しかし、ある出来事をきっかけに彼らの格差が露呈してしまい、大きな事件へと発展してしまう状況に、なんとも言えない気持ちとなり、胸が痛くなりました。
映画を見終わってから、映画の中で起こった状況が実際にあり得ることなのかと疑問に思い、妻に質問しました。また、日本語の字幕だけでは理解できなかった会話の内容や省略されていた言葉、さらには韓国語の言葉遣いによって受けるニュアンスの違いを尋ねました。欠けていた情報によってどれほど印象が変わるのかも気になるところでした。妻がその都度丁寧に答えてくれたことで、虫食いだった展開がつなぎ合わされていきました。
発信される文化で育っていなかったり、触れていなかったりすれば、言葉がもつ意味だけでなく、その時の感情や関係が理解できないまま話が進んでしまうことがあります。その穴を埋める存在が仲介者です。仲介者がいるかいないかで、読み手の理解力は格段に変化します。
語り手の意志を読み手にはっきりと示すために、言語や文化をつなぐ架け橋となる仲介者はとても特殊で高等な技術を有する大切な働き人です。妻の解説を聞きながら、私も日本の文化を伝えるだけでなく、御言葉を伝える仲介者でありたいと改めて感じたのでした。
すると、その人は、「導く人がなければ、どうしてわかりましょう。」と言った。
使徒の働き8:31