2コリント 12:10
ですから私は、キリストのゆえに、
弱さ、侮辱、苦悩、迫害、困難を喜んでいます。
というのは、私が弱いときにこそ、私は強いからです。
北海道で宣教をされ、地元で病に倒れ、療養中であった宣教師が天に召されたとの一報が入りました。私たち家族は出会った時はすでに療養中であったため、直接言葉を交わす機会は与えられませんでしたが、地元へ帰る度に挨拶に行き、前回は礼拝奉仕の機会も与えられ、宣教師夫人とは親しく交流していました。
移住した地で先生の弱さが用いられ、多くの人が先生を支えるために教会を訪れ、夫人が感謝と祈りを通して福音を伝えていらっしゃる姿に父もその信仰に大きな刺激を受けていました。
しかし、この弱さは長い間続いていたわけではありません。倒れる前まで、熱心に御言葉を語り、教会を開拓し、多くの信徒を励まし、教育してこられました。
その宣教に対する熱心さを、主は地上での終わりの時まで用いられていたのでしょう。これまで先生の愛とことばによって集められ来た人々が、この地元では病と弱さによって集められて来た人々が確かに存在するからです。
牧会者であり宣教者として立てられた私は、どのような歩みになっても、終わりまで主に用いられたいと改めて願いました。
主に用いられるからこそ強く
自らの力は主の前では常に弱い