「心の割礼」
クリスチャンとしての喜びとクリスチャンとしての誇りは同じものでしょうか。クリスチャンとして誇りは救いを受けられることを優位と捉えていたとしても、洗礼を受けた者や教会に従順に仕えている者が誰かの上に立てるわけではないことを聖書を通して学んでいます。
ローマの教会に集っていたユダヤ人たちはローマ人たちや他の異邦人に対して、律法が与えられ、救いの契約者となり、そのしるしとして割礼を受けていたことを誇っていました。
ユダヤという名前には神を賛美するという意味も込められ、ユダヤ人をして歩むことは神を賛美して生きることを求められていました。
しかし、それはユダヤ人が優れていることを表しているのではなく、神の救いの契約の先駆けとして仕える者となっていることを意味していました。これは同時に、洗礼を受けた者が優れているのではなく、救われる契約の先駆けとなっていることを意味しています。
律法を誇っていたユダヤ人たちでしたが、実際には律法を守らず、神殿への寄付を流用するという事件を起こし、ローマから追放される出来事も起こりました。
割礼の習慣のないローマの信仰者たちが熱心に律法を守ろうとする一方で、からだの割礼を誇るユダヤ人たちが律法に従わず、律法を汚してしまう大きな過ちに、パウロは警鐘を鳴らします。
神からの称賛、すなわち祝福は心の割礼によるものです。クリスチャンは神の教えを守ることで神を賛美することができます。神の教えを完全に守り切ることができない中で、心に割礼のある者と呼ばれる歩みをしましょう。