「神に義と認められる幸い」
神に義と認められることは一体どれほどうれしいことなのでしょうか。聖書で報酬は働く者に当然与えられるものと記されている一方で、神の義には働かない人にも認められると書かれています。
律法を守ってきたことを誇りとするユダヤ人たちにとって、神の義はその働きに応じて与えられる報酬のように受け取ろうとします。しかし、それでは義と認められる喜びは失われ、救いの恵みに感謝することもなくなってしまうでしょう。その反面、働かずして神の義を受け取ることのできる者は無条件で与えられる神の懐の広さ、恵みによって満たされていくでしょう。
この幸いの中心は、神の御心に従わずに背いてきた私に対して、責任を追及することなく、その負債を放棄されるという約束です。神は私の負い目を晒すことのないように覆われ、追及する者の視界に入れないように守ってくださるのです。
裁き主である神は信仰者の罪を探して数えようとはせず、キリストの十字架によって責任の追及を行われたとして赦してくださいます。責められることも負い目を感じることもなく、神とともにいることのできる平安こそ、私たちにとって最も大きな幸いです。
この幸いは民族や歴史によって決まるものではありません。ただ、神に対する信仰の有無によって定められるものです。神が義と認められる幸いを味わうためには、キリストを信じて神の御前に出ようとしなければなりません。神の御前に立って信仰を告白し、義と認められ、赦しを宣言されたとき、律法を守ることや働きの結果与えられる報酬では得られることのできない喜びと平安で満たされることでしょう。