「キリストのからだ」
キリスト・イエスを受け入れた者たちの共同体である教会はキリストのからだと聖書に記されています。「教会は」と語られる時、この言葉はもちろん、共同体という群れに向けている場合もありますが、同時にそこに所属する個人にも向けられた言葉でもあります。
パウロはキリストを受け入れたものはキリストにあって歩みなさいと語ります。受け入れという言葉を教会で聞くと、個人的に信じてその教えを大切にして人生を歩みなさいという印象を持ちます。ただ、この言葉には技術的に受け継いで伝えるという意味も含んでいます。
時間をかけて、根を張る環境を整え、根差していく歩み、完成図に向けて積み上げていく歩み、教えられたことを身に着け、教える者へと成長する歩みには単なる精神活動で終わらない具体的な受け入れ態勢・環境を整えることが信仰生活であるのです。
その一方で、この歩みをキリストから引き離そうとするものがあります。それが目的のない空しい哲学です。愛や信仰は本来対象との関係が不可欠にも関わらず、理性や合理性をそれらから分離し、精神活動へと閉じ込めてしまいます。
聖書の真理を追究しようとしても、真理そのものであるキリストとの関わりを引き離して考えるならば、真理に至ることはありません。
キリストの主権はすべての領域に及び、キリストでなければ満たされることはありません。キリストのからだである私たちは、キリストのみに絶対的価値を持ち、キリストのみが絶対的な基準としなければなりません。そうでなければ、個人も教会もからだのかしらを失い、存在意義を見失うことになってしまうでしょう。