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みことばはみがき No.149

   イザヤ 53:5
   しかし、彼は私たちの背きのために刺され、
   私たちの咎のために砕かれたのだ。
   彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、
   その打ち傷のゆえに、私たちは癒やされた。

 受難週祈祷会を礼拝後に行いました。名前だけ聞くと、とても難しそうで、祈っているのに苦しむのではないかと感じてしまうような活動です。
 これまでも何度か行ってきましたが、その時の感想の中で、
「わかりやすい祈祷会だといいのですが」という声も上がったことを毎回思い出しながら準備をしています。

 確かに受難と祈祷という組み合わせは最も苦しそうですが、よくよく考えてみると、人の罪のために十字架の死という受難に遭われたのはイエス・キリストたったお一人でした。
 だからこそ、私たちはキリストが贖ってくださることになった罪を自覚することと、その十字架を通して私たちとどのような関係をキリストは望んでおられたのかに目を向けました。

 すると、悪者であった私たちが悪者で終わらず、神にとっては良い者として生きる「その先」があり、むしろ良い者として生かされていく歩みこそ、私たちの生きる道だったのです。
 私はキリストと同じ苦しみはできません。しかしその苦しみを、感謝をもって喜んで受け入れたいと思います。


    受難は主のみが受けた苦しみ
    私たちは主を苦しめた加害者

みことばはみがき No.148

   ローマ 14:18
   あなたは務めにふさわしいと認められる人として、
   すなわち、真理のみことばをまっすぐに説き明かす、
   恥じることのない働き人として、
   自分を神に献げるように最善を尽くしなさい。

 2024年度教団総会が行われました。教会でも2日間に渡り、オンラインで視聴しました。コロナ禍から様々な集会や活動が再開されたことが報告されました。その中で最も大きな喜びが、これまで減少が続いていた洗礼者数が増えたということでした。
 宣教の教団として目指すものは主に救われる民が起こされることです。私がこの地に遣わされたのも、一人でも多くの人が神と出会い、神を信じ、希望をもって神とともに生きるためでした。
 しかしながら、育児や心がけの課題によって外に向けた働きができなかったことは大きな反省点であり、宣教者としての負い目と感じている部分となっています。

 その上で、今年の説教箇所である第2テモテを読んでいると、私自身が主に語りかけられているような励ましや使命への働きかけを感じることが多くあります。
 あぁ、これがみことばを通して主が働かれるということか。目には見えない神を感覚で捉えることは日常的には難しいですが、みことばと働きを通した神との交わりを求めるなら、確かに神は応えてくださっているのだと改めて知りました。


    主の働きがなければ私は立つことはなく
    主の慰めがなければ私は支えられない

みことばはみがき No.147

   ローマ 14:18
   このようにキリストに仕える人は、
   神に喜ばれ、人々にも認められるのです。

 4年にわたり奉仕してきた全国の青年部の働きを、3月をもって退くことになりました。親教会から独立する前に、前任者が転任するために働きを引き継いだ役割でしたが、コロナ禍の初めであり、そのほとんどはリモートでの働きから始まりました。
 少しでも青年たちの交わりと励ましの場となるため、オンラインで証しやメッセージを分かち合うことを企画運営しました。その中で、青年たちとともに過ごすことができたことは貴重な経験となりました。

 2022年に再開された青年キャンプでは幼い娘を連れて、初めて関西宣教区の青年たちとともに過ごし、2023年には松原湖バイブルキャンプに行き、関東の青年たちや、神学生時代までともに過ごした教会の青年たちとともに奉仕をすることができ、懐かしくもありました。そして今夏に行われるフロンティア青年宣教大会の実行委員の役割が2023年に与えられ、大会終了まで全うする予定です。

 時代の影響を受けながらも、主に仕える形が少しずつ変えられ、用いられ、教会を超えて、牧会者・伝道者として主が養ってくださっていることに感謝しています。


    どんな役割が与えられたとしても
    主の働きに仕えていることに変わりはない

みことばはみがき No.146

   ローマ 10:17
   ですから、信仰は聞くことから始まります。
   聞くことは、キリストについてのことばを通して実現するのです。

 東京基督教大学の支援会の会議があり、今年度の集会に向けて話し合いが持たれました。
 すでに講師や講演内容は依頼してありましたが、第二部で行うパネルディスカッションの内容を検討する必要がありました。

 全体テーマに沿って登壇者に質問を投げかけ、その答えを参加者が自分の場合を考える材料にできるようにするために、どのような質問を投げかければよいかを話し合いました。
 数にすればたった2問。その2問を決めるために1時間かけて話し合いましたが、1問分が残り、一週間後に話し合いを延期して、再度検討することになりました。
 とても効率の悪い会議です。しかしその1問をひねり出すために、あれやこれやと語らいながら、嫌な顔せず、なんとかいい方向へ導く質問を延長戦の会議の際に決定することができました。

 普段の会議は効率的になるように心がけながらも、最も大切にしたい部分は、会議を増やしてまで話し合えたのは、協力的で熱意のある仲間に恵まれたのだと思い、感謝しました。主に仕える歩みもまた、効率的ではなく、情熱的に取り組んで歩むものなのかもしれません。


    情熱的に取り組めば効率が悪くなる
    しかし、効率だけでは結果は与えられない

みことばはみがき No.145

   2テモテ 3:16-17
   聖書はすべて神の霊感によるもので、
   教えと戒めと矯正と義の訓練のために有益です。
   神の人がすべての良い働きにふさわしく、
   十分に整えられた者となるためです 

 3月4月の予定を確認してみると、想像以上に予定がぎっしり詰まっていることに気が付きました。育児休業を終えて本格的に仕事復帰と思い、1月後半から徐々にギアを上げていくと、既にフル回転になっていたのです。

 妻を中心に家庭の協力があり、なすべきことができている状況でしたが、末っ子が4月に入園するまで、負荷は大きくかかってしまいます。
 だからこそ、ここで働き方を見つめ直さなければなりません。普段の働きも集中のしどころも、時には以前の学びの資料の有効活用までしながら、大切なことをしっかりと伝えていきたいと思います。

 学びや説教を通して、私自身が聖書のみことばに向き合い、時には社会の状況を踏まえながら、みことばをどのように生活に適用させていくかを悩むことができる恵みを受けています。
 そしてプランターや家庭集会で出席者のみことばへの応答や疑問を聞く中で、気づきや新しい視点が与えられ、学ばせてもらっている環境は、信仰の交わりの豊かさに感謝する歩みとなっています。


    みことばがその足を導き
    証と応答がその足を支える

みことばはみがき No.144

   1コリント 3:2
   私はあなたがたには乳を飲ませ、固い食物を与えませんでした。
   あなたがたには、まだ無理だったからです。
   実は、今でもまだ無理なのです。 

 末の子が泣いているとあやさないと思い、その身を持ち上げて抱っこしますが、最近はその足元に一つ上の子が泣いて抱き着いてきてアピールしてきます。
 嫉妬している本人はとても辛いと思いますが、親としてその顔を眺めていると、とても可愛く感じてしまいます。

 子にとっては、目の前の大人が自分の親だと分かり、自分に愛情を注いでくれる存在だと分かっているからこそその愛の方向が別の方に向いてしまわないことを確認したいからこそ、泣いて気を引き、抱き着いて離さないのでしょう。
 親はそれを子どもにとって新たな成長の段階に来たことを知る機会となっています。
 もし、この嫉妬の感情や行動がなければ、誰にでもついていき、身を危険にさらすことにもつながりかねません。

 私の人生にも辛く、泣きたくなることがあります。神がなんでこんな状況に私を置かれるのかと嘆く時もあります。でも、決して神が意地悪をして招いた結果なわけではなく、私が神を知っていて、神が私の成長を感じているとしたら、その辛さは成熟への大切なステップなのだと受け入れたいと思います。


    神ゆえに苦しむことを受け入れているなら
    神を信頼して生きているこその証

みことばはみがき No.143

   1サムエル 3:16
   エリはサムエルを呼んで言った。「わが子サムエルよ。」
   サムエルは「はい、ここにおります」と言った。

 西日本地区で行われてきた賛美集会Victory2024に向けて、事前(プレ)集会が来月行われるに当たり、メッセージの奉仕の依頼を受けました。
 過去にこの大会の運営委員をしていた際に、一度メッセージ奉仕を行ったことはありましたが、今回は事情により時間がない中で依頼を受けました。

 私自身の奉仕は多岐に渡り、さらに忙しくなることは分かっていました。しかしそれ以上に地域宣教への協力と説教者としての使命もあり、できるならば引き受けて、力になりたいと考えていました。
 そのためには家族と教会の理解と協力が欠かせません。別の会議中ではありましたが、妻と長老に連絡を取り、奉仕をする場合の教会への影響、家庭への影響と対処の提案をし、それぞれに承諾またはお委ねを受けました。

 できるだけ早く返事をするため、3人の返信が着次第、担当者へ返答し、引きうけることにしました。来月初めの主日の午後に昨年主任牧師が天に召された教会を会場に伺うのも主の計らいと思い、準備を進めていきます。


    主が用いられる時、私には「はい」を用意し
    周囲の人々をそのために整えられる

みことばはみがき No.142

   ヘブル 10:39
   しかし私たちは、恐れ退いて滅びる者ではなく、
   信じていのちを保つ者です

 教会総会が行われ、その後長老会にて振り返りを行いました。限られた時間であったにも関わらず、様々な提案や意見があげられ、一つ一つの話題に教会全体で考えることができたことは大きな恵みであり、力となりました。
 教会総会でも上げられなかった課題について長老会に来て提案があり、再度向き合うこととなったことは決して失敗ではなく、確かなものとするための歩みであると感じました。

 提案された意見に対して否定的な判断がある際でも、決して無理だと突っぱねるのではなく、参加者の経験や考えを伝えながら、こうしたほうがいい、しないほうがいいと語ることができたのは、課題に向き合った結果だからでしょう。

 しかし、ここからがスタートであることを思うとき、総会で承認を得ることがゴールなのではなく、総会そのものを通してたましいが励まされ、燃え立たせることこそ、総会の目的なのだと理解しました。
 思い通りいくことはほとんどないかもしれない。しかし、私の思いではなく、主の御計画が満たされるのであれば、それが一番願っていることだと改めて思い返しています。


    主は私よりもはるかに優れたご計画を持ち
    ともに仕えるすべての人を祝福し用いられる

みことばはみがき No.141

   マタイ 8:22
   ところが、イエスは彼に言われた。
   「わたしに従って来なさい。死人たちに、
    彼ら自身の死人たちを葬らせなさい。」 

 さまざまな事情を抱えながらも、無事に教会総会の日を迎えることができました。自分自身の許容を超えた状況に陥り、多方面に迷惑をかけてしまったことをお詫びいたします。それでも協力と助けによって先週末には議案書を取りまとめて配布し、開催できる状況になりました。

 教会が歩んできた道程を感謝するとともに現状の課題を受け止め、これからのビジョンを持ちながら、教会という共同体がどのように歩むのかを分かち合うひと時となりますように。

 あれもこれもと手を出したくなる欲望を抑えて、今なすべき課題に向き合う強さを祈り求めました。多岐に渡る働きをすればとても頑張っているように見えますが、優先すべき取り組みを疎かにしてしまっては、土台が廃れ、崩れてしまうかもしれません。

 それは奉仕に関する部分だけではありませんでした。私は教会と育児と家事との配分を改めて見直さなければなりませんでした。これまでのように育児や家事に手が回らなくなることも理解した上で、「すいません、お願いします。」と頼んででも、主と教会に仕えていく覚悟が必要です。すぐには切り替えるのは難しいですが、少しずつ整えていきたいと思います。


    選択の本質は切り捨てることではなく委ねること
    選んだことに専念し委ねた者をとりなすこと

みことばはみがき No.140

   申命記 6:4-5
   聞け、イスラエルよ。主は私たちの神。主は唯一である。
   あなたは心を尽くし、いのちを尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。    

 出張と家族訪問を兼ねてソウルと関東へと行ってきました。岡山に来て以来の出身教会への訪問。娘が生まれて迎えに行ったとき以来の妻の家への訪問。そこには子どもが生まれてからほとんどなかった自分だけの時間と睡眠がありました。
 
 家族のことを思いながら過ごしてきた数年間の時を超えて、自分で数日間どのように過ごすのかを考えることがとても新鮮で、感謝な時間となりました。自分の心のご褒美として尋ねた東京での趣味の時間、ソウルでのバレーボールの観戦。私にとってはまさにご褒美であり、心が躍る時間でした。
 
 会議で再会した同じ奉仕を担う仲間たち。様々な事情を抱えながらも奉仕を大切に思いながら作り上げていく姿に、私も責任と希望を感じました。
 そして恩師との再会。日曜日に再会の報告をと話し始めて早数時間。気がつけば宣教談義に花を咲かせ、宣教への情熱が大きく湧き起こってきました。ソウルに戻って妻と妻が奉仕していた教会の恩師との時間も、宣教へと駆り立てる時間となりました。

 趣味を通して出会う人はその情熱で盛り上がり、キリストを通して出会った人は宣教への情熱が湧き起こる恵みの旅路でした。


    宣教の情熱は主に仕える喜びから
    牧会の情熱は主に救われた感謝から