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みことばはみがき No.59

   マタイ 18:27
   家来の主君はかわいそうに思って彼を赦し、
   負債を免除してやった。  

 胃腸炎になりました。水曜日の朝に少しだけ違和感を覚えましたが、体調に変化がなかったため、プランターを行いました。
 しかし、その後発熱に襲われ、病院に行くことになりました。幸いコロナ感染ではないことがわかったものの、発熱性の胃腸炎で、唾液や排泄物から移る可能性があるため、家族との半隔離生活が始まりました。

 何もできずに寝込んでいることで妻や娘に迷惑をかけてしまっていることに「ごめんね」と何度も口にしていた私に、妻から「何度言っても体調は変わらないから、今はしっかり休んで」と声をかけられました。
 一度はその言葉にしゅんとしてしまいましたが、改めて考えてみると、自分の体の状態よりも相手の顔色をうかがっていることに気が付きました。だからこそ、相手が最も喜ぶことは、自分の状態をしっかりと受け入れて対処することだと知りました。

 憐れみを受ければ受けるほど、申し訳なくなる気持ちも確かにありました。しかし、それよりも感謝をもって自分らしくあるために回復を待つことの大切さを学びました。
 早くおいしいご飯が食べられますように。


    憐れみは負債ではなくプレゼントであり
    望まれるものは言葉ではなく回復である

みことばはみがき No.58

   マタイ 5:16
   このように、あなたがたの光を人々の前で輝かせなさい。
   人々があなたがたの良い行いを見て、
   天におられるあなたがたの父を
   あがめるようになるためです。 

 高校生の集会(hi-b.a.)に参加してきたときのことです。高校生や卒業した先輩たちと近況をシェアしていると、サプライズがあるとのお知らせがありました。

 賛美をしていると、クリスチャンシンガーの横山大輔・和子夫妻が突然会場に来られました。歌っている最中だったこともあり、ひげの生えた独特の風貌に、初めは高校生やOBたちが「この人たちは誰だろう」と言っている表情を浮かべていました。
 賛美を終え、彼らが自己紹介を始めると、「あぁ!」とピンときたようで、「知ってます」「めっちゃ聞いてます」と嬉しそうな表情へと変わりました。

 それから、即興での証とライブが始まりました。たった20分ほどの時間ではありましたが、大好きな賛美で生きていく彼らの姿に、コロナ禍や教会の事情で思いっきり賛美できない高校生や青年は大きな刺激を受けていました。

 信仰によって困難な道を自ら選び、チャレンジして生きていく人の歩みは、それ自体が大きな証です。その証は、世の光として人々を照らし、心を温めることのできるものだと知りました。


    神に顔を向けることを喜ぶ者の顔は明るくなり
    神に応答する者の歩みは輝きを放つ

みことばはみがき No.57

   詩篇133:1
   見よ。なんという幸せ なんという楽しさだろう。
   兄弟たちが一つになって ともに生きることは。

 私の出身神学校である東京基督教大学の支援会が企画するTCU学園デーが開催されました。
 コロナ禍で様々な対応に追われた学園の教職員の葛藤、特に全寮制であるにも関わらず寮に滞在して学ぶ学生を限定し、オンラインと対面での学びや礼拝の環境を整える歩みを聞きました。加えて、その中で思い描いた大学生活にはならない状況の中で工夫してきた学生たちからの話も聞くことができました。

 その中で注目されたのが「インフォーマル」な時間の過ごし方でした。その意味を取ると「形の決まっていないもの」です。学びや礼拝など形が決まっていてそのために集まるものはオンラインでも享受することはできますが、そこに集う人々との何気ない会話や挨拶はオンラインでは非常に難しくなります。

 礼拝堂の中で数人が別々に会話をしても距離が離れていれば問題ありませんが、オンラインでは、複数人が同時に話すことを聞き取ることはほぼできません。
 理想的ではない不便な形であっても、礼拝や学びをともにするために努めることも、教会の本質だと気づかされた時でした。


    本質を守るために献げることは愛であり
    利益を守るために訴えることは欲である

みことばはみがき No.56

   マタイ18:8
   あなたの手か足があなたをつまずかせるなら、
   それを切って捨てなさい。
   片手片足でいのちに入るほうが、両手両足そろったままで
   永遠の火に投げ込まれるよりよいのです。  

 親知らずを抜きました。このエッセイの題名になってから初めての「歯」の話題です。抜歯の動機は斜めに出てきている部分が虫歯になりかけていたことでした。
 親知らずの状況は自分で見ようとしても全く見ることのできない部分であり、歯科医の検査によってでなければわからないものです。当然、自覚症状もありません。ただ、これまでに多くの人が親知らずの処置を放置した後に大きな症状が現れるという話を聞いていたため、早めの処置を検討し、決断をしました。

 医療上は手術ですが、その状況はまるで伐採した後の木の株を取り除くような力のいる作業のように感じました。抜歯が終わり、麻酔が抜けるとジーンとじわじわ痛みが続き、気になって仕方がありません。何をするにも歯の痛みが気になり、仕事も集中できない時間が続きました。

 実感のない一つの懸念を取り除くために、大きな痛みが伴い、仕事も進まなくなることをあえて行う姿は滑稽かもしれません。その痛みに支配されてしまう前に切り捨てる決断も必要です。


    小さな一つの要素でも体全体に伝われば
    それは私そのものとなる

みことばはみがき No.55

   エレミヤ6:16
   主はこう言われる。
   「道の分かれ目に立って見渡せ。
    いにしえからの通り道、幸いの道はどれであるかを尋ね、
    それに歩んで、たましいに安らぎを見出せ。」

 帰国して家族を迎えたゴールデンウィークは近場で過ごす1週間となりました。藤公園に行ったり後楽園に行ったり、庭で花のにおいを嗅いだりと、植物とのふれあう時間が与えられました。
 離れている間は、携帯の画面を通して顔を見ることはできても、周りの状況や関心がなければ成す術なく、ただTVを見たり遊んでいたりする娘の姿を眺めることしかできませんでした。

 毎日一緒にいると自分の時間がほしいと願う自分の都合の良さを情けなく感じる一方で、家族との時間を過ごしたいというきもちもまた本心であることに気が付きました。
 2か月の時間を埋めるかのように、朝から晩まで家族が離れることなく、一緒に行動していました。仕事のことは多少頭の片隅にはありましたが、家族のことを思い、過ごすその時間の中で、天の御国の味わいを思い浮かべました。

 天と地で離れて暮らす神と私たちは、天の御国で再会する時、他のことに妨げられることはありません。これまでの時間を埋めるかのように、神と一緒に過ごす毎日が待っています。それは家族と過ごせる喜びと幸せの時間になるのでしょう。


    一人離れたゆとりの時間よりも
    一緒の不自由な時間の方が幸せには近い

みことばはみがき No.54

   ルカ 23:34
   そのとき、イエスはこう言われた。
   「父よ、彼らをお赦しください。
    彼らは、自分が何をしているのかが分かっていないのです。」
  
 牧師たちと交わることの多い一週間となりました。会議の合間や終わり、移動をともにしているとき、これまでの歩みを分かち合うことができました。
 その会話の中で、先輩牧師がこれまで経験した牧会での苦労話や会議などでの振る舞い方や考え方、教師間でのマナーや関係の育み方など、教会の中やオンラインだけでは学べない話を聞くことができました。

 しかし、それ以上に心を揺さぶったものは、それぞれの牧師たちが経験してきた痛みです。神のために生涯をささげて仕えようと決心した先輩たちが悩み、時には傷つき、教会を守るために自らを犠牲にしてまでも平和を保とうとする姿に、聞いている私の心も握りつぶされそうな思いでした。

 牧師や宣教師たちの働きを評価しようとするならば、信仰をどれほどの人に福音を伝えてきたかに焦点が当てられがちですが、どれほど忍耐をもって信仰や教会を守ってきたかにはなかなか焦点を当てられることは少ないでしょう。
 傷つけられながらも争うのではなく、イエスを見上げて耐え忍ぶ姿の後ろに、それぞれの十字架が掲げられているようでした。


    福音を伝えるのも宣教であり、
    福音を守るのも宣教である。

みことばはみがき No.53

  ルカ 24:32
  二人は話し合った。
 「道々お話しくださる間、私たちに聖書を説き明かしてくださる間、
  私たちの心は内に燃えていたではないか。」

 桜が丘ミルトス(三浦綾子読書会)の映画会が行われました。小説を通して伝えようとした神の愛と福音、そして登場人物に重ね合わされていた著者の状況や思いを、読書会の学びと映画会を通して知ることができたのは大きな恵みでした。

 和気地区でもクリスチャン医師のケアを通して語られる証『人を知り人を生かす』の読書会も新たに始まりました。
 人との対話をもつ現場で、ことばに表すことのできない思いを少しずつ探りながら、心の飢え渇きを見つけ、励ましていきつつ、向き合うことの重要性を求めることの大切さを知りました。

 長老会でも1年間を通して学んでいた『教会生活の処方箋』を読み終え、新たに『差別はたいてい悪意のない人がする』を読み始めました。無意識の中で現れる差別的見方や立ち方があることを学び、罪人として省みる力と態度を身に付けたいと願います。

 そして執事会でもいよいよ本を通しての学びが始まります。『実践教会役員 マネジメントとリーダーシップ』を通して、教会の働きと見通し、備えを学ぶ予定です。

 どんな本を通しても、聖書の御言葉によって確かなものとされる時、私たちは神を知り神と生きることができるでしょう。


    神との関わりを求めてふれる全てのものは
    すべてが学びとなり、すべてが恵みとなる

みことばはみがき No.52

   マタイ 18:5
   また、だれでもこのような子どもの一人を、
   わたしの名のゆえに受け入れる人は、わたしを受け入れるのです。
  
 帰省している妻と娘と、ビデオチャットで連絡している時、画面の見えないところで娘の大きな泣き声が聞こえてきました。
 さっきまで笑いながら飛び跳ねていたはずなのに、泣き出しても駆けつけることができないため、私はただ画面を眺めるしかできませんでした。

 すると妻のもとへ戻ってきた娘が妻を抱きながら妻に向かって、「祈ってー」と声をかけたのです。「祈ってほしいの?」と聞き直すと改めて「うん」と答えました。妻は娘が泣いた原因である転んだ時の痛みが取れるように一緒に祈りました。私も画面の前で心を合わせて祈りました。

 祈り終えた時、私たち夫婦はとても感動したことをはっきりと覚えています。泣いていて自分のことばで祈ることはできないけど、神さまに伝えたい、助けてほしいという思いがあることを知り、娘の心には神さまがおられ、話し相手として認識していることがわかったのです。

 祈ってという言葉を通して、私たち家族の間で祈りの場が生まれ、祈りの心を合わせることができました。この大切な視点を、2歳半にもならない娘のことばを通して気付かせてもらいました。


    口を閉ざせば祈りの思いは深められ
    口を開けば祈りの輪が広がる

みことばはみがき No.51

   ルカ16:10
   最も小さなことに忠実な人は、大きなことにも忠実であり、
   最も小さなことに不忠実な人は、大きなことにも不忠実です。
  
 町内会の担当で組長(班長)となり、それに加えて総務を担当することになりました。この地に赴任し、町内会でお世話になっていることを感じながらも、日曜日を中心とする行事にはなかなか顔を出せなかったこともあり、詳しい活動については知らないことばかりでした。
 担当するに当たり、前年度の担当者が教会に来られ、作成した資料や準備することについての引継を受けました。できるだけ混乱のないように、予め会議に必要なものを準備しておいてくださいました。そのおかげもあって、私は書類の中身を一から作ることなく、修正のみで準備することができました。

 その一方で自分が用意すべきものが揃わずに、慌てながら教会の必要書類を作成している状況に、段取りの悪さを感じてしまいます。日常の業務に加えて、少しずつ備えを積み重ねていくことの大切さを再確認するひと時となりました。
 与えられた役目をただこなしていくだけでは、ただ時間と体力だけを消費することになってしまいます。求められているのは、そこにどのような付加価値を見いだして糧としていくかであり、その価値を見出したとき、やりがいを感じられるでしょう。


    思いと配慮から始まる行為は愛の現れ
    行為で終わる従順は無関心の現れ

みことばはみがき No.50

   マタイ8:20
   イエスは彼に言われた。
   「狐には穴があり、空の鳥には巣があるが、人の子には枕するところもありません。」
  
 思っていたよりも忙しい毎日になり、気持ちが息切れ状態になっていることに気が付きました。家族が離れていることで自分で時間をいつまでも使える分、仕事と休憩のオンとオフがだんだんとなくなっていました。

 作業に追われているといつの間にか必要なことを忘れてしまい、思い出しては対応するような状況となり、予定が後手後手になっていき、自分のことは後回しになっていきました。
 この状態が数日続いていくうちに夜も遅くなり、遅れないようにとカーテンを開けて寝ていると、朝早く目覚める代わりにしっかりと休む時間も削られていました。

 すると突然、何もする気が起きなくなりました。気持ちはやらなきゃと思いつつも身体がそこに向かなくなってしまう自分、自分で自分をコントロールできない状態に恐さを覚えました。

 肉体の疲れも精神的な疲れも、霊的な飢え渇きも、見た目では単なる調子の悪さに見えてしまいます。しかし、それぞれの不足を満たすためには、どこかで立ち止まらなければならないと、思いつつ、立ち止まる勇気がないままになっているのが現状です。


    立ち止まる勇気がなければ補給はできない
    走り続けるだけでは目的地にたどり着けない