pastor のすべての投稿

みことばはみがき No.49

   マタイ28:20
   わたしがあなたがたに命じておいた、
   すべてのことを守るように教えなさい。
   見よ。わたしは世の終わりまで、
   いつもあなたがたとともにいます。
  
 里帰りしている妻から娘が体調不良で病院に行ってくるとの連絡がありました。離れているため、どうすることもできず、祈って次の連絡を待ちました。

 しばらくして報告の知らせが届きました。熱もなく、体も異常なし。ホッとする一方で、普段のように駆け回ったりキャッキャと叫んだりすることもなく、寝て起きて、笑うこともなく、ゴロゴロしてまた寝るような状況にとても心配になりました。
 抱くこともできず、妻につないでもらった電話の画面を通して声をかけるしかできません。しかし、私の声にチラッと目をよこしただけで、すぐに目線をそらす様子が見えるだけでした。

 妻に状況を教えてもらいながら話しあっていくと、どうやら父親に会いたい、家に帰りたいというホームシックなのではないかということに当たりました。

 寂しい時、顔だけでも見て、声を聞いて安心するのは確かですが、寂しさを感じたくないゆえに、顔を見ない、声を聞かない、何もしたくないという気持ちになるものです。その日の晩、気持ちの整理がついたのか、ご飯をしっかり食べて再び元気に部屋の中を駆け回る様子を見て、画面の手前の私は安心しました。


    心の寂しさを感じるのは存在に気付いた時
    心の寂しさを埋めるのは関係に気付いた時

みことばはみがき No.48

   マタイ 28:20
   わたしがあなたがたに命じておいた、
   すべてのことを守るように教えなさい。
   見よ。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたとともにいます。
  
 教会に来られた方と話していた時のことです。仏教よりもキリスト教の方が自分に合っているのではないかという相談に、戸惑いを持ちながらも、話を聞いていました。

 しばらく話をしていくと、葬儀の話題になりました。仏式の葬儀はサバサバしている印象を持っていると語るその人はキリスト教の方が温かいのではないかと思っていたそうです。

 そこで私はキリスト教の葬儀とはどのようなものかをお伝えしました。一般的な葬儀が二度と会えない別れの時であり、キリスト教の葬儀は神のおられる天国での再会を約束しながら、しばらく会えなくなることへの寂しさを慰める時であると話しました。
 加えて、死への備えという点で、何も考えずに残された人々が嘆き悲しむ葬儀にするよりも、面と向かっては言えない感謝と愛の言葉を予め整えて残しておき、葬儀に参列した人に地上での最後のことばを伝える機会でもあることを伝えました。何も語らずに去りゆくのは何とも寂しく無機質なものになってしまいます。

 私も同じように、キリストが天に昇られる前に残して伝えてくださった言葉を大切に受け取り、その言葉通り受け取りたいと思います。それが残すもの者と残される者との間の愛だからです。


    死は永遠の別れではなく
    永遠のいのちのための通過点である

みことばはみがき No.47

   詩篇 22:1
   わが神 わが神 どうして私をお見捨てになったのですか。
   私を救わず 遠く離れておられるのですが。
   私のうめきのことばにもかかわらず。
  
 妻が娘と一緒にお里帰りをしに行きました。単に実家に帰ると言っても、海を越え、国を超えるとなると、その手間はこれまでの何倍もかかります。ワクチン接種証明書やPCR検査による陰性証明書、荷物の確認や隔離場所の確認など、飛行機のチケットを取るだけで行けた今までが何と便利かと感じました。

 妻がPCR検査を受け、料金を支払う時、検査した医師が「このお金で今までは飛行機に乗れていたのにね」と声をかけてくれたそうです。確かに!と思う一方で、仕方ないなとも感じていた自分に気が付きました。

 便利で安心の生活が崩れると、それを取り戻すことに困難が生じます。いつ、もとの生活に戻れるのかも不透明になります。ウクライナへの侵攻によって多くの人々の生活が崩れ、いのちが失われました。

 そこで私は神に問いかけました。「なぜ、このような状況になってしまうのですか。」祈りの中で答えられました。「あなたがたが崩した神との生活を取り戻すことは簡単なことではない。」
 私は愚かでした。このような状況に人間の罪であることに目をつむり、神に訴えていたからです。


    神が人を見捨てたのではなく
    人が神と人とを見捨てたのだ

みことばはみがき No.46

   箴言 27:17 
   鉄は鉄をもって研磨する。
   人はその友によって研磨される。

  
 宣教区の先輩の教師との交わりの時が持たれました。コロナ禍でもあり県外におられる先生方を訪問することは難しく、これまで、ゆっくり話をする機会を持つことはできませんでした。
 一週間を過ごす中で、どのように説教のための取り組みを行っているのか、どの部分で苦労しているのかを分かち合いながら、牧会経験の長い先輩教師たちが、私と同じ状況を振り返りつつ、話をしてくださいました。

 神学生の時に思い描いていた牧師の過ごし方の理想と、家族と教会の歩みを含めた現実の生活。そのギャップは想像以上に大きく、そのギャップの分だけ自分や家族が無理をしていることに気付かされました。このギャップを埋め、軌道修正するために3年程度かかる話を聞いて、補教師の3年の必要性を感じました。

 それと同時に信徒に説教を伝える難しさについて話題が出てきました。どれだけ工夫し、聖書のことを知らない人を想定して言葉遣いを整えています。妻や信徒、時には他の教師から説教について返答を聞きながら、自らを研鑽(けんさん)していく姿に、私自身も発破をかけられつつ、信仰の思いを熱くされました。
 同労者と努力する姿と励ましは、働きの大きな財産です。


    理想とのギャップに心を焦がし
    仲間との姿に心を温められる

みことばはみがき No.45

   出エジプト記 3:10
   今、行け。わたしは、あなたをファラオのもとに遣わす。
   わたしの民、イスラエルの子らをエジプトから導き出せ。

 青年部の働きの中で、各地の教会の先生方に協力を呼びかけるため、電話を多くかけた一週間となりました。普段はセールスの電話がかかって来るのを受け取っていましたが、立場が変わると、その気持ちに変化が生まれました。
 突然電話をする申し訳なさ、頼み事する申し訳なさ、手間をかけさせる申し訳なさ、しかし、頼み事の先にある目的を達成するために、今まで話したことのない先生にも電話をしました。

 そこで生まれたのは協力してくださる約束と形です。働きの結果が出て、ホッとしていた。
 しかし、それ以上に与えられたものがありました。それは交わりです。働きを通して新しい関係が生まれ、会ったことがあるという話や、お会いできなかったのですが、次の機会にぜひご挨拶に伺いますという話が生まれ、これからの関係がつながっていくことに、働きの副産物の恵みをあうかることができました。

 そこで改めて私に与えられた役割を思い出しました。神は私に神の存在と神との関係を伝える働きを与えられましたが、それと同時にその働きの中で、私自身が神との関係が深まることをも望んでおられたことに気が付きました。


    使命の先にある物は結果
    使命の中にある者は交わり

みことばはみがき No.44

   ヨハネ 9:31
   神は、罪人たちの言うことはお聞きになりませんが、
   神を敬い、神のみこころを行う者がいれば、
   その人の言うことはお聞きくださいます。
  
 北京オリンピックが始まりました。昨年の東京オリンピックが身近で盛大に感じたこともあり、冬季五輪はなんだか遠く感じてしまいます。
 しかし、ひと度競技をのぞいてみると、トッププレイヤーたちが雪や氷の上で鎬(しのぎ)を削っている様子に興奮を覚えます。陸上と違い、多くの競技では転倒と隣り合わせの状況で、より速く、より遠く、より高度な技を披露することになります。

 その中でもフリースタイルという技を披露する競技では、選手たちが相手を倒すという観点ではなく、自らのベストを尽くすチャレンジを応援し、たたえあう姿が数多く見られました。
 彼らにとって、競技大会は戦場ではなく交わりの場であり、互いの技の成功を祈り、喜び合う場となっていました。彼らは彼ららしく生きようと競技と向き合った結果、金メダルよりも価値ある場を手に入れたと言えるでしょう。

 信仰は試みとの戦場と言えるかもしれません。しかし、ともに神を求め、神と生きようとする者たちの集まりと見るなら、そこにあるのは戦いではなく、支え合う共同体と姿です。


    相手を倒そうとする場は戦場であり
    相手を称えようとする場は共同体である

みことばはみがき No.43

   エペソ2:21
   このキリストにあって、建物の全体が組み合わされて成長し、
   主にある聖なる宮となります。
  
 教会が独立して初めての教会総会が祝福のうちに終わりました。これまで、伝道所としてシンプルな報告書を出したり、総会の中でコメントしたりすることはありましたが、総会そのものの運営を整え、進行形式を決めていくことは、ありませんでした。

 教会の政治がしっかりと独立をしていくこととは、活動の自由を得るだけでなく、その活動を支える組織の責任が増していくことでもあります。
長老会や執事会から資料を通じて教会の活動を提案し、総会においてその意図を伝え、質疑を通してより詳しく理解できるようにしました。予算内容だけでなく、その項目までも記しました。

 どの組織でも企業でも行っている基本的な一つ一つの歩みですが、教会という共同体もまた、そこに属する一人一人に寄り添うことにつながることでしょう。
 手を抜こうと思えばいくらでもできる誘惑が襲ってきます。しかし、キリストが神のことばに忠実に従い、十字架にかかり、死なれたほど、使命に生きたように、私たちも自らの信仰生活をキリストのからだである教会の働きに重ねて歩みたいものです。


    日々の行いと謙虚な態度の積み重ねは
    確信と従順さと実りを生む

みことばはみがき No.42

   ヨシュア記 1:8
   このみおしえの書をあなたの口から離さず、昼も夜もそれを口ずさめ。
   そのうちに記されていることすべてを守り行うためである。
   そのとき、あなたは自分がすることで繁栄し、
   そのとき、あなたは栄えるからである。

 キリスト教の放送局、日本CGNTVの収録を行いました。メディアを通しての日本宣教というビジョンのもと、様々な教会や団体に協力を仰ぎながら、番組や説教を24時間放送しています。
 もともと韓国のキリスト教放送局のイメージを持っていましたが、ラブソナタなどの大きなイベントを通して、日本の宣教のためにとても熱心に働いている団体だということを知りました。

 私たちの教会は宣教協力の教団に所属しているのですから、このような協力の機会があるならば、自分から足を踏み出さなければならないと思い、今回の奉仕に名乗りを上げました。その結果、普段とは違う形ではありますが、福音を視聴者の方々に届けることができるようになりました。
 2つの説教を終えて、挨拶をした際に、そのCGNTVの番組を見ることができる受信機が与えられました。私たちの教会も、24時間福音を届け、聞くことのできる環境が与えられたのです。

 みことばを届けると同時にみことばを受け取ることができるようになった。宣教の協力が見える形となった瞬間でした。


    語る者がいなければ送られず
    受ける者がいなければ届かない

ことばの栞 一覧(テモテへの手紙第二および関連箇所)

2024年3月3日
2テモテ 2:1-7
「伝える強さ・委ねる強さ」

2024年2月25日
使徒の働き 16:1-5
「宣教への召し」

2024年2月25日

2テモテ 1:15-18
「熱心な交わり」

2024年2月18日
2テモテ 1:9-14
「恥のない苦しみ」

2024年2月4日
2テモテ 1:6-8
「愛の霊の証人」

2024年1月28日
2テモテ 1:1-5
「信仰の継承」

ことばの栞 20240324

「二人のイエス」 マタイ 27:11-38
 ピラトは群衆に二人のイエスのどちらを釈放するのかを選ばせました。一人はキリストとよばれるイエス、もう一人は悪名高い囚人バラバ・イエスです。
 ピラトはキリスト・イエスに罪を見いだすことができず、釈放しようと考えます。しかし、祭司長たちや群衆の声に負けて、その権威をもって行動に表すことができませんでした。
 そのためピラトは自分ではなく、民に選択を迫ったのです。暴動や殺人を犯したバラバと、妬みによって訴えられているだけのキリスト。誰の目から見てもわかりやすいようにあえて二人のイエスを並べて、群衆の良心に委ねました。

 しかしその結果は、群衆がバラバを選んだのです。そんなつもりではなくても、権威を行使せず責任を放棄したことで大きな罪を呼び込むこととなったのです。
 群衆もまた、祭司長たちや長老たちに説得をされたとはいえ、自分たちが進んでキリストを虐げ、からかい、血の責任を自分とその子どもらにあると宣言しました。それは一人の行いの結果ではなく集団としての決定であり、その群れ全体の責任とされるのです。

 私たちは意図していないままに犯していた罪を自覚し、神がそれによって傷ついたことを認め、悔い改めなければなりません。十字架につけよと叫んだ群衆の子どもらのうちに私たちも含まれており、私たち自身もまた、キリストを傷つけた歩みをしてきました。
 しかし主はその罪をも、一人一人と和解し、救いのために用いられる方です。主に信頼して神との歩みに責任を持つ者となりましょう。