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ことばの栞 20240107

「時が良くても悪くても」 2テモテ 4:2

 2024年の桜が丘キリスト教会の年間テーマは「時が良くても悪くてもみことばを宣べ伝える教会」であり、2テモテ4章2節のみことばから引用しました。

 2023年を通して、教会には豊かな交わりと証が与えられ、分かち合いが増え、証をする機会も多く与えられました。その祝福を教会の外へと伝えていくことの大切さをともに学び、実践しましょう。

 みことばを宣べ伝えなさいと命令を受けるだけの価値はあったのでしょうか。聖書の言葉から考えてみると、聖書はキリスト・イエスに対する信仰による救いを受けさせられるものだと記されています。救いに至るの道が備えられていく過程もはっきりと残されています。

 加えて、聖書は神のものであり、信じる一人一人が神の子として父なる神に従うために有益なものです。信じて救われて終わりではなく、ともに家族として歩むための手立ても用意されています。

 そして聖書は神の働きにふさわしく整える役割をも担っています。個人の精神活動で留めておくものが信仰なのではなく、信仰を生活の形にして、仕えていくために、私たちが聖書によって日々養われているのです。

 その働きが、伝道者の働きであり、みことばを宣べ伝えることです。パウロはテモテにあなただけが伝道者だとは語らず、一人一人が伝道者としてみことばを宣べ伝えるように勧めなさいと語りました。

 私たちもまた、みことばによってキリストを知り、救われ、神の子として養われたのですから、時を選ばずに、蒔く時は蒔き、刈り入れる時には刈る者となって、しっかりとその役目を果たしましょう。

ことばの栞 20231231

「見えないものを見える形に」
 1ヨハネ 4:7-16

 年末感謝ということで、信仰生活を振り返ったとき、この一年で最も恵みを受けたことはなんでしょうか。見えることのない信仰と見える形しかない生活が組み合わされた「信仰生活」は矛盾した言葉の組み合わせですが、恵みを感謝という形で告白することで、見えないものを見える形にしましょう。
 神は愛だと聖書で語られていますから、神から与えられた恵みがないということは愛を受けていないと告白するようなものです。

 ゲーリー・チャップマンは著作「愛を伝える5つの方法」で、一人一人が形にしやすい愛の伝え方があり、受け取りたいものと伝えやすいもののギャップがあることを指摘しました。
 聖書には神が5つの方法すべてで私たちに愛を示してくださりました。特に私たちのために御子を遣わし、インマヌエルの主ということで罪人たちとともに過ごし、十字架によって身をささげ、天の御国で家を用意して待っておられるキリストは愛そのものなのです。

 ですから、私たちもまた、互いに愛し合うことが求められています。信仰生活とは神との家族生活であり、神の愛を感謝し、他者にも神の愛を伝える生活です。

 愛を形にして伝えあうことは信仰を形にすることであり、その生活の先には「わたしのうちに神の居場所がある生活」となり、これこそが、神が私たちとともにおられる証となります。
 愛を伝えない家族生活は神の居場所のない信仰生活です。ここに矛盾が生れます。キリストは私たち家族の十字柱であり、私たちが愛し合うための霊的な力をとりなし、備えてくださるお方なのです。

ことばの栞 20231126

「ヨハネの誕生と預言」
 バプテスマのヨハネが生まれ、その名前を付けようとした時、ザカリヤは口を開くことができませんでした。身振りで名前を「ヨハネ」とすることを伝えた時、口が開かれました。そこで、ヨハネの歩みと救い主についての預言を語ったのです。

 まず、救い主が立てられたことを述べます。それは預言の成就であり、アブラハムとの約束が継続していることを表していました。神はアダムとエバが罪を犯した際に皮の衣をお与えになったように、絶えず憐れみを注がれ、イスラエルに対して愛を示し続けました。
 ザカリヤの預言は救い主の到来、すなわち御子の誕生が神の憐れみとその契約が成就することを伝えています。

 さらにヨハネの誕生とその立場、役割について示します。預言の中でヨハネを「預言者」であると語ります。聖書の中では多くの預言者がいますが、当時の人々には400年ぶりの登場となりました。
 ヨハネは救い主ではありませんでしたが、その救いの道を備える働きを担っており、救い主はどのようなお方か、どのように救われるかの知識を人々に教える働きを担っていました。だからこそ、水によって悔い改めのバプテスマをさずけていたのです。

 私たちは既に来たキリストの到来に備えることはできませんがキリストの再来をバプテスマのヨハネのように道を備えることができます。
 ヨハネの誕生を通して神の契約が実現し、ヨハネの存在が神のあわれみこの時代も、そして今も続いていることを示し、ヨハネの働きが救い主の到来を告げ知らせていたように、私たちも救い主の再来に備え、完全な救いの日が訪れることを待ち望むことができるのです。

ことばの栞 20231119

「祝福されたいのちの誕生」
 成長感謝礼拝の中で献児式が執り行われました。献児とは親の信仰によって子どもを主のものとしてささげることです。しかし、その子どものいのちはもともと親のものではなく、主に委ねられた子どものいのちを預かり、守り、育み、導いていく保護者が親とされるのです。

 その点において、エリサベツもマリアも、本来生むことができない身体であるにもかかわらず、主が与えられたいのちを委ねられた女性として共通しています。
 マリアにとってエリサベツは単なる妊婦の先輩なだけでなく、御使いが示した祝福のしるしでした。マリアは御使いから受胎告知を受けた後、すぐにエリサベツのもとへと訪ねました。

 この行動はマリアにとっての主への応答の形でした。主の導きによって先にいのちを受けたエリサベツのもとへ行くことで、エリサベツから主の母と呼ばれ、最も祝福を受けた女性であると語られました。そして改めて救い主を預かる確信を持ったことでしょう。

 一方のエリサベツはマリアが訪ねて来た時、胎動によってその喜びを知りました。信仰をもっていたエリサベツが聖霊の働きによって救い主を宿していることを悟りました。 自分の身に起こった奇跡と感じる出来事以上の状況が与えられたマリアに嫉妬することなく、心から救い主のいのちが宿されたことを祝福しました。

 私たちも信仰によって神がいのちを与え、そのいのちが一人一人祝福されて母の胎に送られていることを知ることができます。その祝福を生まれてくるいのちへ伝えることが親の使命であり、親として歩み、仕える祝福となるのです。

ことばの栞 20231112

「つまずきに警戒せよ」
 いよいよローマ書のメッセージも最後となりました。パウロは注意喚起と仲間からのあいさつ、そして神の祝福を願い、この手紙を閉じます。ただし、最後の祝福の部分は聖書の異本の中には無かったり違う場所に記されていたりと、不確定な要素があります。
 そのため、ここではつまずきとあいさつについて考えることにしましょう。兄弟たちに向かって、学んだ教えに背いて分裂とつまずきをもたらす者たちを警戒せよとパウロは注意喚起をします。

 つまずきや分裂は人によって与えられます、みことばに対するものではなく、仲間だと思っていた人や、親しい人からも与えられることがあるのです。
 そのような者たちへの対応策として、遠ざかることを勧めます。つまずきかどうか、分裂を起こすかどうかの判断基準として、誰に仕えているかをその言葉から見極めることを求めます。彼らは頭であるキリストではなく自分のはらわたに仕えているため、聞く者の心を滑らかな言葉によって流そうとしているのです。
 しかし、そのような者たちに対して立ち向かって戦えとは言いませんでした。戦うことで分裂がさらに大きくなるからです。人によって与えられるつまずきは避け、へつらいのことばも受け流しましょう。

 手紙の最後にパウロの仲間からのあいさつを記されています。それにより、宣教者として見えるパウロの背景には多くの同労者と祈り手と支え手がいることを証しされ、主に仕える者を励ましているのです。
 主に仕える者の信仰は和解と希望をもたらします。結果ばかりを追い求めて自分のはらわたに仕えることにならないように省みましょう。

ことばの栞 20231029

「すべての教会がよろしく」
 パウロの手紙の終わりの4つの話題のうち、今回は相手への挨拶について記されています。このあいさつの言葉の裏に託されたパウロの、また現地教会の人々の思惑をともに学びましょう。

 まずこの手紙を届ける女性、フィベを推薦します。ケンクレアの教会の執事ですが、読み手の人々がこのことを知るのは、この部分を読んだ時になるでしょう。パウロが遣わした人を「なぜ女性なのだ、もっと側近を送るべきではないのか」と感じた人もいたかもしれません。
 パウロは彼女を主にあって歓迎してほしいと続けます。主にあって教会の交わりと励ましのためにフィベを受け入れ、適切なところで助け合い、必要を満たしあうことこそが、宣教協力のかたちなのです。

 続けて、ローマの教会に訪問したことのないにも関わらず、多くの人々によろしくと伝えます。別の街で出会い、主にある交わりをし、ともに労苦している者たちを、同胞、同労者と呼びました。
あいさつで名前を挙げられた人々は民族、性別、社会的立場に違いはありましたが、パウロにとってはみな同労者でした。

 手紙の文面でしかあいさつができないパウロですが、出会う人々には聖なる口づけをもってあいさつをしなさいと語ります。それはそれぞれの文化の中で、神の前にふさわしい配慮をもって互いを受け入れ合いなさいというアドバイスでした。

 パウロが宣教していた異邦人のすべての教会たちはこの地を離れるパウロを委ねる思いでよろしくと伝えます。それほど多くの人との関わりの中でパウロの宣教は備えられてきました。そして教会の宣教の協力の中で主の計画は新しい段階へと進んでいくのです。

ことばの栞 20231022

「計画の共有」
 パウロの手紙の終わりには、ほぼ4つの話題について触れられています。①これからについて、②相手への挨拶、③注意喚起、④神の祝福を願う、というものです。その中で、この箇所はパウロのこれからについて触れています。

 パウロはローマに行きたい気持ちを常に持っていましたが、自分の願いによって動くのではなく、その時々に応じた主の使命に生きて歩んできました。今回もまた、エルサレムを支援するために向かいます。
 また、現在いる地方に関しては働きに終わりを迎えていることも理解しています。愛着ではなく、主の使命に生きるため、この地に未練を残さず、離れる決心をしています。

 パウロにとって神と生きる生活は神が示した道を歩む生活であり、そのために、自分の願いよりも神のミッションを優先してきました。
 計画を立てる際には、神のミッションに応える中で、自分の願いも素直に取り入れました。たとえ自分の願いであっても、その願いは信仰によるものであり、その目的は神との歩みのためのものでした。

 そしてパウロは必ず計画を共有し、祈りを求めてきました。なぜなら、計画を遂行するのはパウロであっても、達成させるのは祈りの力であり、それを許されるのは神ご自身であるからです。
パウロは自分に示された計画であっても、あらゆる人々に共有することで、多くの人を巻き込みながら、神から与えられた使命を果たす喜びもともにすることができるようになりました。

 神は個人の思いを越えて、計画を示し、人から人へ共有することで、そのビジョンは広がり、収穫の実りを多くの人とともに喜ぶお方です。

ことばの栞 20231015

「御国の鍵が解かれた幸い」 
 すべての人はこの地上のいのちを終え、よみに下りますので、地上に永遠に留まることはできません。そのため、地上で終わる関わりがほとんどですが、神との関わりは地上で終わるものではありません。
 神は私たちのいのちをお造りになった方であるからこそ、生まれる前から関わりを持ち、この地に遣わしました。だからこそ、この地の歩みを終えて神のもとに戻るとき、神との関係は続いていくのです。

 「人の子は誰のことだ」と尋ねられると、人々はバプテスマのヨハネやエリヤや預言者の一人だと言っていると報告しました。あなたはどうかと尋ねられたペテロは生ける神の子キリストですと答えます。
 信仰によってペテロとイエスの関係は地上では終わらないものとなりました。イエスに対して生まれる前から関わりとご意志を持たれていた方であり、関わりの中で救いが与えてくださる方だと告白します。

 その結果、イエスはペテロに対して、①教会を建てることと②天の御国の鍵を与えることにしました。ですから教会は一人の信仰の告白の上に立てられ、天の御国の扉を開く権能を授けられたのです。現在の教会はその権能を大切に受け継いできました。
 先に天の御国へ向かわれた召天者の方々を偲ぶ中で、彼らが教会に仕え、家庭に仕え、私たちにその鍵を大切に受け継いでくださっていたことを思い起こします。信仰を告白した者はよみに下っても御国の扉の鍵は解かれています。ここに希望があります。

教会のみが天の御国への救いの扉を宣言できる鍵であり、信仰のみが天の御国への鍵を解くことのできる力であり、キリストのみが天の御国へと迎え入れることのできる門なのです。

ことばの栞 20231008

「ささげものとなるために」
 パウロはローマ書を書いた動機と目的を振り返り、この手紙の核心を改めて読者に思い起こさせます。一つ目はパウロが何者であるのか、二つ目はなぜわざわざこの手紙を書いたのかということです。

 ローマ書の前半の初め、この手紙の最初でパウロは、キリスト・イエスのしもべ、福音のために選び出された使徒だと語り、後半の初めである12章の初めでは、あなたがたのからだを神に喜ばれる聖なる生きたささげ物として献げなさいと、既に語っていました。
 手紙を終える前に、改めてこれらを思い起こさせ、パウロが手紙を送った意図と働きを伝えます。

 キリストのしもべであるパウロに与えられたミッションは異邦人に対する祭司の務めであり、その結果与えられる実りの姿は異邦人が神へのささげものとなることでした。パウロが異邦人をささげるのではなく、彼ら自身がささげものとなって神に身を委ねることこそ、この働きの目的でした。
 パウロはしもべとして自らを誇るのではなく、かしらなるキリストのみをほめたたえます。キリストから忠実なしもべだとほめられれば十分なのです。そのために、遅れることなく、キリストの福音を携えて、また宣べ伝えられていない地域や人々に向かっていきます。
 
 その姿は私たちとも重なります。私たちが福音を持って外へ出なければほかの者で土台が据えられてしまう人々がこの地には多くいます。
 私たちはパウロが神のしもべとして使命を全うしようとした姿に倣い、自分自身の使命と働きのゴールの姿を求めて仕えましょう。それこそが、自らをささげ物として歩む神への礼拝だからです。

ことばの栞 20230924

「心を一つにするために」
 パウロはキリスト者の信仰生活は弱さを担う共同生活だと語ります。人は強さよりも圧倒的に弱さを多く持っており、力のない人たちの弱さを担うことが力のある人たちの役割だと述べています。

 互いの弱さを担うことは相手の弱さを受け入れ、その弱さが信仰のつまずきとならないように配慮することで霊的成長へとつながります。
 つまずきが取り除かれたとき、そこには「あぁ~よかった」という喜びと平安が広がっていきます。イエス・キリストは人間の弱さを担うためにこの地上に来られ、人々に仕えました。そして救われた人たちが神を賛美し歩む者へと変えられていきました。

 弱さを担うことはキリストに倣うことであり、その実りは神への信仰、神への賛美です。ともに弱さを担うことができる時、弱さを避けてきた人々も自分の弱さを受け入れ、弱さを強めてくださる神との関係はさらに深められていきます。
 教会は弱さを愛と信仰のうちに受け入れる場です。互いに担い合う働きを通して、かたちのならない「心」を一つにし、「声」というかたちにして合わせて神をほめたたえる場です。自分の信仰が満たされるためだけに訪れる場ではないのです。

 ユダヤ人たちに比べて異邦人たちは弱い立場と考えられてきましたが、キリストは救いをどちらにも示し、届ける働きを全うしました。その結果異邦人たちも神の憐れみを受け、神をともにあがめて、希望を置いてよいと確信し、「あぁ~よかった」と喜びが広がっていきました。ですから私たちも、弱さの上に立つのではなく、謙って弱さを持つ人々が向き合えるに受け入れ、ともに担う関わりをしましょう。