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ことばの栞 20230917

「わが巌、わが砦」
 歳を重ねることを考えると小さい子どもは成長をイメージしますが、高齢になるにつれて若い頃には考えもしなかった不安や悩みが出てくることでしょう。
 詩篇71篇は老いのための詩篇と呼ばれています。私たちがいつ「老い」を受け入れ、またどの部分についての「老い」を実感しやすいかを思い浮かべながら、老いることの恵みを考えましょう。

 この詩篇は救いを求めるところから始まります。人生の中で大きな危機を迎える時、自分の寄り大きく、安全なところに身を避けようとします。そこで著者は主を避け所としました。主は何によっても壊されない安全で頼りになり、受け入れてくれる方だと告白したのです。
 それは危機に陥った時にある衝動的な信仰ではないと続けて語ります。主は生まれたとき、生まれる前から私たちに働かれ、私たちの人生の土台となっており、それは年老いても変わらないこと宣言します。

 人生の中で一時的に主から離れてしまったこともあったかもしれません。その時に倒れた自分を主は恵みによって再び主に生かされるように立ち返らせてくださりました。
 地の深みから再び引き上げられた者は「肉体」ではなく、「信仰」によって生かされていく人生へと変えられます。そこには神を賛美し、神への信仰を告白する歩みがあります。年老いても、肉体は信仰に生きる歩みを止めることはありません。

 歳を重ねる時に自分の岩にすがるのではなく、主という偉大な岩を頼れることに感謝しましょう。そして神をほめたたえる喜びを感じながら、神との関わりに生きましょう。

ことばの栞 20230910

「霊的成長の追求」 
 霊的成長ということばを聞くと、聖書をよく読み、よく祈り、より多く奉仕るようなイメージを持っている人も多くいるでしょう。しかしパウロはこれらのことばを使わずに霊的成長を追い求めていました。
 霊的成長とは隣人愛の実践のかたちとして目指していくものであり、信仰の弱い人がいてもさばき合わないことだと語ります。弱さを克服させようとそれを指摘しても、それで傷ついている人がいるならば、愛によって歩んでいるとはいえず、隣人愛ではありません。

 神の国には喜びがあり、優劣や争いではなく、互いを赦し受け入れ合う平和の関わりがあります。神の国にならうことで神が私たちに願っておられることは徐々に達成されていくことでしょう。

 では霊的成長をどのようにして追い求めていけばよいのでしょうか。最も大きなポイントは、この追求は自分のためだけではなく、お互いの霊的成長について役立つように配慮していくということです。
 良いものを目指していてもそれが互いを傷つけてしまうのであればそれらは避けなければなりません。自分の成果を評価してもらうとするあまりに、他人の働きを妨げてしまってはいけません。

 どのような弱さを抱えていても神のみわざがそこに働かれるように整えていくことができます。自分の理想に導こうとするならば、他者の弱さは克服項目となり、自分の力で乗り越えなければなりません。
 しかし、霊的成長は弱さのうちに働かれる神のみわざによって生かされていることもあります。一つの信仰の形のみが真実なのではなく、信仰の弱さのうちに働かれる神の恵みがあります。私たちはその人を通して神のみわざが果たされていく手助けをする者となりましょう。

ことばの栞 20230903

「生きるにしても死ぬにしても」
 どのような権威の下においても隣人への愛は律法を満たすと教えに続き、パウロは隣人愛を実践するための態度や心がけについて取り扱っています。そのかたちとして、信仰の弱い人との付き合い方について取り上げています。
 パウロ自身は信仰の強い人の代表格として周囲から考えられているでしょう。しかしパウロがローマの信徒たちに向けて信仰の弱い人を受け入れなさい、さばいてはいけないと語っています。そのことから信徒たちも信仰の強弱を意識していることがわかります。

 食べ物や曜日感覚について話題に上げますが、パウロはそれらの考えの優劣を評価しようとはしません。むしろその弱さを受け入れながら、神との向き合い方を自分で確信を持ちなさいと勧めています。
 そして信仰の強弱を立場として比較するのではなく、すべての人のために十字架によって死に、復活したキリストに目を向けさせます。

「神の子」「キリストのからだ」として主のものとされた者たちはキリストに向かってひざをかがめ、謙って信仰を告白することが求められています。なぜならイエス・キリストが神の子の手本として主のものであり、主に仕えることを通して、隣人愛を実践されたからです。

 私たちは弱さを持って信仰生活を送る人々を強くなれるように励まし、矯正していくのではなく、弱さを受け入れ、向き合い、付き合っていくために主に心を向け、主の支えを求めるよう寄り添うのです。
 弱さを無視して主と向き合うならば、その弱ささえも受け入れてくださった主の憐れみや弱さのうちにあるいのちの尊さを失ってしまいます。私たちが切り捨てるべきものは弱さではなく悪なのです。

ことばの栞 20230827

「光の武具を身に着ける」
 「上に立つ権威に従うべきです」と示された言葉の解釈によって、神に従っていない王や統治者であっても、従うべきなのかという疑問は容易に思い浮かぶでしょう。神の権威に従う歩みとはどのようなものなのでしょうか。

 大前提として、パウロがローマの教会に宛てたこの手紙の対象者は神に対しての信仰を告白し、キリストをかしらとして生きる決心をした者たちです。彼らにとっての支配者に神以外はなりえません。

 ですから、日本に生きる私たちは為政者たちが神の御心に従って歩んでいるかを霊的識別力によって判断し、時には立ち向かわなければならないことがあるのです。
 情や恩によって立ち向かうのをやめてしまうことで、大きな過ちや悪に飲み込まれてしまうこともあります。信仰よりも情を優先した判断をしたとき、あなたの支配者はすでに入れ替わっているでしょう。

 一方で、隣人への愛は別だとパウロは教えます。愛の表現のカタチに文化の違いはありますが、どの国でもどの時代でも隣人への愛は律法を満たし、尊ばれ、受け入れられています。
 また、愛は貸し借りではありません。すでに神から返しきれないほどの愛を私たちは受けています。キリストのからだとして神の権威に従おうと、隣人に愛を与えていくという信仰のカタチであり、そのためには受け取り手が必要です。

 罪に生きた私たちであっても闇のわざを脱ぎ捨てることができ、光の武具を用意され、それを身に着けることができる資格が与えられたのですから、神の前にふさわしい、品位のある生き方をしましょう。

ことばの栞 20230820

「神に喜ばれる信仰生活」
 ローマ書の前半で、ユダヤ人も異邦人も同じ恵みを受けていること、福音は最終的にすべての人に伝えられ、信仰によって義とされた人はみな救われるとパウロは語りました。

 そして後半では、パウロは神に喜ばれる信仰生活について語ります。特にこの章ではその信仰生活の目指すところとして、まず神の前に謙り、自分自身をささげることだと示します。

 キリスト者たちはもともと神のからだの一部とされたのですから、一つ一つの器官はかしらの働きのために用いられるべきものです。この世をかしらとして流されないように見極めなければなりません。
 神に対する私たちの心の態度をかたちにすること、それが信仰生活であり、かたちのない霊的な「信仰」をかたちのある「生活」へと適用して毎日を歩むことが、神に喜ばれる歩みであり、礼拝なのです。

 信仰生活は相手ありきのものであり、自分自身の願っている優秀な結果へ導くために彩りをつけるものではありません。からだ全体、すなわち神に生かされている者たち全体でその働きに仕えるものです。

 そして信仰生活の目指すところは神を愛し、隣人を愛することです。神を愛するために善と悪を見分け、善を求める歩みをしなければなりません。また、神に用いられることを喜び、苦難に耐えつつ祈り、熱心に奉仕しましょう。
 隣人に対しては兄弟愛をもって味方として受け入れ合い、恨みや復讐心は主に委ねられるように関わりを探り求めましょう。私たちは敵を愛し、罪人のためにいのちをささげたキリストをかしらとする、からだなのですから。

ことばの栞 20230813

「寄留者として恐れ歩む」
 敗戦を記念した礼拝を通して、私たちは日本の国民である前に神の国の民であることを覚えます。その民としてこの国で生きることはどのような歩みをするべきなのでしょうか。私たちは神との関係のみを深めるだけでよいのでしょうか。

 日本が戦争へと向かう時、私たちの教会は外国を敵とし、日本の政府に立ち向かうことをしませんでした。この国を守ること、家族を守ることを戦争に加わることとして敵を見誤ったのです。良いことだと思って応答した先が悪に向かう危険があることを忘れることなく、心のふんどしを締めて、緊張感をもって見分けなければなりません。

 私たちは神に子どもとされたのですから、父の子という関係の中で神に従順に生きることが求められています。自由に自分の欲望に従うとき、あらゆる手段で、悪の誘惑によって導かれることでしょう。
 その悪に立ち向かうには善に向かうしかありません。善には目的があり、秩序を保ち、手段を選びながら進まなければなりません。その原動力が神の聖さに生きられる望みと喜びです。

 なぜ神はそこまでして、私たちに聖なる者であることを求めておられるのでしょうか。それは、神ご自身が聖なる者であり、ご自身に似せて人間を創造され、憩いたいと願っておられたためです。
 人が罪を犯してもなお、神は救い主を遣わし、その信仰によって罪を赦し、聖なる者とされようとしています。信じてもなお、不従順な歩みをしていたとしても、神が懲らしめを与え、私たちを悪に陥らないようにお守りになります。その時、私たちは懲らしめから逃れるのではなく、神に倣いたいと立ち返ることが求められているのです。

ことばの栞 20230806

「満ちる時が来るまで」
 1~11章と12~16章で大きく内容が分かれているローマ書ですが、この箇所は前半部分の最後にあたります。キリストを信じる信仰によって救われることを知り、異邦人の地に福音を伝え、救われていくのを見て来たパウロにとってイスラエル人たちに伝えたい思いはどんなものだったのでしょうか。

 救われたいけれども、自分たちの思い描いた形で救われたいイスラエルと、イエス・キリストに対する信仰によってすべての人を救いたい神の思いのギャップを、パウロは強調しました。
 出エジプトの際のファラオの頑なさのようにイスラエルが頑なになっていることで、神の救いは足止めされたのではありません。新しい道、すなわち異邦人への救いを通して再び恵みが満ちる時まで待たれておられるのです。

 どんなに不従順でも神の計画と働きは取り消されることはなく、神が示された賜物も召命を、今も私たちに果たしてくださっています。
 その上でイスラエルの民にも異邦人にも私たちにも求めていることは、神のあわれみを受ける者となることです。神の救いは報酬として受け取ることはできません。また、私たちがその救いの役割の一部を担うこともできません。

 私たちにできるのは、神のあわれみを受け、神の救いの約束を受ける信仰を告白することだけです。人が救いを受けずに自立することを神は求めておられません。神が救いとあわれみの主体者だからです。
 砂浜で自立しようとしていては神のあわれみの波にひたることはできません。自立ではなく、神の波に飛び込み、身を委ねましょう。

ことばの栞 20230723

「ねたみを起こしてでも」
 ローマ人への手紙の中でパウロから、様々な指摘をドサドサと受けて来たユダヤ人たちの自尊心は大きなダメージを負っていたことでしょう。そうなれば卑屈になり、ネガティブな疑問をぶつけたくもなるでしょう。パウロはそれさえも想定して自ら質問を提案します。

 神はご自分の民を退けられたのでしょうかという問いに、決してないと断言します。退けられてきた神の働きよりも、神に背いてきた民の中でも偶像崇拝をしなかった民に心を留めて選び、残されてきた恵みと憐れみに目を向けるように勧めます。
 また、ローマの教会にいるイスラエル人たちが、エリヤの訴えにある残されたイスラエル人たちと同じ状況であることが示されました。

 神がイスラエルにつまずきを与えたのには目的がありました。それはイスラエルを倒し、懲らしめて罰を与えるためのものではありません。イスラエルがつまずいたことで異邦人へ救いが及んだのです。
異邦人へ救いが及んだことで、イスラエルに妬みが起こりました。そして、そのつまずきと妬みから、選びよりも神の憐れみによって救いが与えられることを知り、自分たちが神に背いていることに気付くことにつなげられ、神に立ち返ることを期待していました。

 イスラエルがイエス・キリストを捨ててでも、それを異邦人の救いとの道として開かれた神は、イスラエルがイエス・キリストを受け入れるのであればなおさら大きな喜びをもって祝福してくださいます。
 つまずきは神へとつながる大きなきっかけとなり、神との関係を再スタートさせる決心の機会を与えます。神は枝を折る厳しさをもちながらも、信じることでいつでも接ぎ木することを許される方なのです。

ことばの栞 20230716

「信じて義、口にして救い」
 今年の年間聖句は「みことばは、あなたの近くにあり、あなたの口にあり、あなたの心にある」ですが、パウロはどのような思いでこの言葉を口にしたのでしょうか。

 神の憐れみによって生かされてきたイスラエルに対して、神への熱心をはき違えていると語ります。自らの義のために熱心になるあまり、神の義に従わない様子が彼らにはありました。
 パウロは、律法の目指すものはキリストであり、みことばの目指すところもまたキリストであることを示します。どのような行いをする者が天の御国へ行けるのかと議論することは、信じる者のために贖うキリストの十字架を無にしてしまいます。

 みことばはあなたの近くに、あなたの口に、あなたの心にあると語るその真意とは、キリストが到来し、私たちとともにいてくださるその距離感に気付くことであり、教えと掟を通して神の御心を理解し、受け入れることであり、神との人格的な関係を持つことなのです。
 その上で、神の御心と働きを信じることで神の義とされる約束が与えられ、口にし、誓うことで救いの確信が与えられるのです。この約束と確信は自分だけのものではなく、その告白を聞く者に救いの道を示す、宣教へとつながります。

 これらの告白を宣べ伝える人と遣わす人が必要だと語る一方で、伝えようとしても受け入れない者たちに対して、みことばが届いていないのでも聞いていないのでもなく、キリストを神ではないと拒んでいるのと同じだと指摘します。

 キリストへの信仰を口にすることは救いへ導く第一歩です。

ことばの栞 20230709

「憐れみの器」
 神は等しく愛され、憐れまれるお方であるのに、なぜ私たちはこのような状況で苦しまなければならないのかと考えたことのある人は多いのではないでしょうか。異邦人たちが多く救われていく中、神の選びを誇るユダヤ人たちが造られた器としての価値について言及します。

 イスラエルの民の中には、「なぜ神は私たちに救いを与えず、異邦人を救うのか」と神に思いをぶつける人も多くいたことでしょう。パウロはこれに対して、「陶器が陶器師に向かって『なぜこのように造ったのか』と言えるだろうか」と答えます。

 陶器は確かに価値の違いはありますが、それぞれ使いどころが違います。日常使いとして用いられる器もあれば、上客が来た時にだけ使う、とっておきの器もあるのです。その器を使う回数はわずかです。
 しかし、それらを選ぶのは器ではなく造った者であり用いる者です。コーヒーカップとして優雅な器になりたいと、鍋が言っていたとしても、それをかなえることはできません。

 イスラエルはどう用いられるかではなく、自らの価値ばかりを強調し、追い求めていました。しかし、神から与えられた役割を忘れた結果、バビロン捕囚に遭い、国は滅ぼされました。しかし神の憐れみによって人々は残され、改めて取り置かれることとなりました。

 造られた器を大切に保つ必要はありますが、器ばかりに目を奪われると、道の石につまずきます。器を守るのではなく、器が用いられる、使いどころへ備えられた道をしっかりと見て、耐え忍びつつ、歩む者となりましょう。私たちは神に背いたにも関わらず、滅ぼされず、神の子とされ、神の栄光を示す器とされた憐れみの器なのです。