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ことばの栞 20230702

「憐れみによるもの」
 神は味方で、信じる者はあらゆるものに勝利していると語るパウロにとって、イスラエルの人々はどのように映っているのでしょうか。

 異邦人との違いを強調し、選ばれた民族として誇りを持ち、選ばれるべき要素や貢献を語り、ユダヤ人として生きるべきだと考えている彼らを、パウロは肉の同胞で、味方であると捉えています。
 神との約束も、律法も、救い主の誕生もすべてイスラエルを通してなされていることを確認しつつ、そのすべてがイスラエルに留まることなく、全人類へと届けられていることをパウロは確信しています。だからこそ、救いを与えられたことを誇るに留まり、悔い改ないイスラエルの人々の状況に心を痛めているのです。

 救いはイスラエルの子孫に与えられますが、その対象者は血縁という肉の子孫ではなく、信仰によって子とされた者が契約上の子孫です。神は救いの始まりにイスラエルを選びましたが、それは神の一方的な憐れみによるものであり、人間の能力や実績は関わってはいません。

 神にとっては選ぶときがあり、選ばずに別の働きをさせる時があります。憐れむ時もあれば頑なにして別の民に悔い改めを促す時もあります。一人一人に注目すると、一時的に選ばれなくても別の歩みに選ばれる時が備えられているのです。
 伝道旅行で異邦人に福音を告げ知らせ、異邦人にも聖霊が降った出来事をパウロが見ていました。神はすべての民を憐れみのうちに、それぞれに悔い改めの時を選び、働いておられます。

 私たちも「先に」選ばれた者の一人として「後に」選ばれる人々のために祈り、福音を伝える者として備えましょう。

ことばの栞 20230618

「圧倒的勝利者」
 キリスト者たちは皆、神に救われていることを確信していますが、それがどれほどのものかと問われるとなかなか説明しにくいものです。なぜなら、救いが見える形で届けられるわけではないからです。それでは救いはどれほど確かなもので、力となっているのでしょうか。

 信仰によって義と認め栄光をお与えになる神は、完全に私たちの味方です。神に背いて生きて、信じてもなお罪を犯してしまう弱い私たちにも関わらず、罰を与えるためではなく、和解と立て直すために赦しをもって働かれ、私たちとともにおられるのです。
 信じる者が、救いに与れないのではないか、恵みが与えられてないのではないかと考えることが、むしろ神に敵対してしまう結果を招いてしまいます。

 不完全な私たちのためにキリストは「罪を犯さない」ためにではなく「罪の責任をとる」ために十字架にかかって死なれました。神は私たちが信じてもなお罪を犯してしまう存在であることは百も承知でとりなしてくださり、味方であると宣言されました。
 愛によってキリストのからだとしてつながれた私たちは、自らの行いや成果によって救いが変化することはありません。救いの保証は私たちではなく神にあり、罪の担保はキリストにあるからです。神によってのみ約束されたものだからこそ私たちは圧倒的勝利者なのです。

 神の救いに確かさとは、神が必ず私たちの味方であることを踏まえて生きることができるということです。神は私たちに滅びの計画も罪の罰としてただ苦しめることはありません。ですから私たちも味方として働かれる神の見方を求めて応えましょう。

ことばの栞 20230611

「キリストのからだ」 
 キリスト・イエスを受け入れた者たちの共同体である教会はキリストのからだと聖書に記されています。「教会は」と語られる時、この言葉はもちろん、共同体という群れに向けている場合もありますが、同時にそこに所属する個人にも向けられた言葉でもあります。

 パウロはキリストを受け入れたものはキリストにあって歩みなさいと語ります。受け入れという言葉を教会で聞くと、個人的に信じてその教えを大切にして人生を歩みなさいという印象を持ちます。ただ、この言葉には技術的に受け継いで伝えるという意味も含んでいます。
 時間をかけて、根を張る環境を整え、根差していく歩み、完成図に向けて積み上げていく歩み、教えられたことを身に着け、教える者へと成長する歩みには単なる精神活動で終わらない具体的な受け入れ態勢・環境を整えることが信仰生活であるのです。

 その一方で、この歩みをキリストから引き離そうとするものがあります。それが目的のない空しい哲学です。愛や信仰は本来対象との関係が不可欠にも関わらず、理性や合理性をそれらから分離し、精神活動へと閉じ込めてしまいます。
 聖書の真理を追究しようとしても、真理そのものであるキリストとの関わりを引き離して考えるならば、真理に至ることはありません。

 キリストの主権はすべての領域に及び、キリストでなければ満たされることはありません。キリストのからだである私たちは、キリストのみに絶対的価値を持ち、キリストのみが絶対的な基準としなければなりません。そうでなければ、個人も教会もからだのかしらを失い、存在意義を見失うことになってしまうでしょう。

ことばの栞 20230604

「御霊のとりなし」
 未信者の方々にはキリストを信じ、御霊の働きを受け入れたキリスト者は平安が与えられ、悩むことがなくなると考える人もいるでしょう。しかし、実際にはキリスト者たちの悩みがなくなることはありません。むしろ信じるからこそ、悩みが増えていく人もいるほどです。
 他者と関わることで悩みが増えるのは自然なことです。距離感を保ちながら関わるなら、避けたり諦めたりすればよいのですが、夫婦や親子のように避けられない関係、諦めたくない関係だからこそ、どのように接するのか、応じるのかを考えているのです。

 パウロはキリストを信じ、御霊の働きによって神の子とされるキリスト者たちの望みだけでなく、信じて関わるがゆえに抱えている悩みや苦難、それらによるうめきも目を向け、その両方が共存するものだと語ります。
 悩み苦しむ時に祈りの言葉にならないうめきを、御霊は整理したり、切り離したり、加えることなく、うめきのままとりなし、神に伝える働きを担っています。神が人間の心を探ろうとされたとき、御霊が私たちの形にならない思いまで代弁してくださることで、何一つ変わることなく、神にお委ねすることができるようになりました。

 神は計画をもって私たちを召し、背いてもなお悔い改めとキリストへの信仰によって義と認め、終わりの日に神の子としてキリストと同じ栄光を与えてくださいます。この望みはこの世で受ける苦難とは比べ物にはなりません。
 私たちはこの世の困難や自分の内の苦しみに一人で立ち向かおうとしなくてもよいのです。御霊が神へととりなしてくださるのですから。

ことばの栞 20230528

「神の子とされる御霊」
 御霊の働きとはどのようなものでしょうか。それは信仰を持つことで得られたご利益を与える働きなのでしょうか。それとも私たちの性格や生活に変化を与えるものではなく、内面的な話なのでしょうか。

 御霊に導かれる人はみな神の子とされます。神を信じ、御霊を受け入れ、御霊の働きが全うされた結果、与えられる最も大きな実りは神の子どもされることであり、親である神から相続を受けることでした。
 キリストが信じる者の手本としてバプテスマを受ける際に、御霊が降り、「わたしの愛する子、わたしはこれを喜ぶ」と天から声を受けました。ですから、私たちも信じて洗礼を受けることを神が喜び、キリストとともに神の子として受け入れてくださいます。

 では、神の子とされる恵みとは何でしょうか。
 一つ目は恐怖からの解放です。御霊は罪や悪の働きから神との関係を守ってくださります。
 二つ目は「アバ、父よ」と叫ぶことのできる安心感です。ただ、父と呼べるというよりも、辛さや悩みや不満を持っているとき、泣き叫びながら、訴えることのできる相手は私たちにとって大きな存在です。
 三つ目は私たちの信仰や思いや関係を御霊が証しすることです。私たちが自分で自分を飾る必要も、病などで語ることができなくなることへの不安もなくなります。
 最後に神の子とされることで、キリストとともに御国を受け継ぐものとなり、神との関わりが地上での歩みを終えてもなお続いていく希望が与えられています。

 御霊は私たちの思いをこの世のものから神との関りへと移させ、私たちに御国という居場所と平安を受け継ぐために導かれているのです。

ことばの栞 20230521

「いのちの所属」
 イエス・キリストを信じるクリスチャンはもちろん、キリストの存在を信じて受け入れていますが、それに加えて、キリストの働きを受け入れてもいます。キリストの働きを受け入れているからこそ、自分の目に映る外の実りだけでなく、自分のうちなる変化や実りを通して、キリストの働きを実感することができるでしょう。

 神は私たちのいのちを御霊のうちに属するものとするために、御子を遣わし、私たちのとの関わりを「よそ者」との関係から「うち」の関係へと招いてくださりました。
 一方で私たちは自らを中心とする肉の思いによって、自らのいのちや本心を神の前に出さず、神をよそ者扱いし、拒んできました。私たちのいのちの所属はその思いによって左右されてしまいます。私たちの思いのあるところにいのちの居場所もあるのです。

 もし私たちの中に聖霊がおられることを認めるならば、聖霊は私たちのうちで働きを全うし、私たちが聖霊の働きのうちにおかれることになります。聖霊は神の目的である、神と人間ひとり一人との関係を取り戻し、いのちを生かすために、絶えず働きかけています。
 私たちは御霊の働きを充実させるために、神をよそ者としようとし、自らの欲と悪とを充実させようとする肉の思いを察知し、制止させなければなりません。

 キリストがうちに住まう者がキリストをよそ者のように外に見ていないでしょうか。神の働きと目的は外から訪れ、与えられるものではありません。キリストが世界を変えるの眺めるのではなく、私たちのいのちを新しいものへと変えてくださることを求めましょう。

ことばの栞 20230514

「親の責任」 
箴言 19:26-27

 親に感謝すること、それが母の日や父母感謝礼拝の目的といえばそれまでですが、生まれてからの自分との関係を切り取ると、傷ついたり、嫌ったりしたこともあるでしょう。親への反抗心の源がどこかをたどる時、親がどう責任もって育てたのかという疑問に直面します。

 反抗する子の気持ちを見ると、あれをしなさい、これをやめなさいという訓戒の煩わしさに、飼い殺されているような感覚に陥り、不都合な制限によって、親の束縛から解放されることが自由への第一歩であり、親は自由への敵に見えるでしょう。そして親の視線を監視だと思い、嫌気がさし、その視線から逃れるために親と戦い、自分の空間から追い出そうとする気持ちは、決して特殊なものではありません。

 親から逃れれば新しい状況・新しい自分を作りだせると子が感じる一方で、反抗する子を抱える親は、親である責任と自分の弱さに多くの葛藤が生じています。自分も守れていない訓戒を教えなければ子が道に迷うかもしれない悩みがあります。子の暴走を何としても家庭内で留めておかなければ社会的な制裁や信用を失い、この地において生きづらくなることも知っています。そして親はいつでも子に手を差し伸べられるように、子に嫌がられながらも見守っています。

 そこで教えられる訓戒は不完全な親であっても子に真理を伝え、正しい道を歩むために神から与えられた道具です。子が親に反抗し、訓戒を軽んじてしまえば、主に罪を犯すことにつながります。
 親は子がどんなに反抗しても見放しません。神が人間を見捨てないのと同じです。その親の責任と愛とを理解することで、親への感謝と尊敬が生まれ、子としての歩みから自立していくことでしょう。

ことばの栞 20230507

「心とからだの不一致」
 私たちにはしたくてもできないこと、したくないと思っていてもしてしまうことがあります。そんな時に「私のうちに住んでいる罪のせいです」と言うと、都合の良い言い訳だと帰されてしまいます。
 ただ、この悩みはキリスト者全員に共通する葛藤でもあります。罪を犯さずに聖く生きたい、神の前に正しいことだけを行いたい、それでもできずに罪を犯してしまうジレンマは離れることがありません。

 パウロも同じでした。義の下で生きたいと願う霊的な自分と、罪の下でしたくないことを行う肉的な自分がいることに気付き、肉的なものから離れたいと願ってしましたが、善が自分のうちに住んでいないことを悟りました。
 自分のうちに善があるなら罪を犯すはずがないからです。善ではなく、悪が存在し、霊的な願いとは関係なく、心や思いや行動に働きかけ、とりこにしてきたことを受け入れ、霊的な心と肉的なからだの不一致を認めました。

 その上で、パウロは自分が罪の律法に敗北者として、悪を避け、なかったことにするのではなく、キリストにその状態での救いを求めました。そしてからだが悪にとりこにされつつも、キリストとともに生きたいと願うその信仰を通して、パウロが罪に定められない確信に至ったのです。

 この地上に生きる限り、私たちが完全に罪を避けることはできません。しかし、信仰によってキリストを通してパウロが罪に定められなかったように、私たちも心とからだの不一致を受け入れ、キリストに救いを求め、ともに歩むなら、罪に定められることはありません。

ことばの栞 202230430

「罪を罪とする戒め」 
 学校には必ず校則がありますが、校則があるがゆえに少しだけ破ることがおしゃれに見えたり、大人に見えることがあります。髪を染めたり、お酒に手を出したくなる気持ちが生まれるのは規則があるからともいえるかもしれません。
 しかし、規則やルールを守る・破るということだけに目が行くと、本来の目的を見失ってしまいます。学校では生徒の対外評価や身の安全の確保のために、聖書の中においては律法が、神との関係を大切に育むために用いられてきました。

 律法はその世界に生きている間だけに適用されるものです。校則は学校生活で、法律はその国で生活で、結婚の律法は夫婦として生活する中で適用されます。すなわち、これらの律法や戒めは、ともに生きる者たちの関係を育み、守るために与えられたものなのです。
 律法によって、何が善悪であるかを知ることができ、それに従って正しい歩みを心がければ大切な実を結ぶことになります。旧約の時代は律法こそがその指標でした。しかし、その本質であるキリストが来られたことで、律法の実の役割は終わり、キリストを愛し、従うことで実を結ぶ歩みへと変えられました。

 悪しき者は神と人の関係を壊すために律法を不義の道具として用いて人間を誘惑しました。律法のみに目を奪われ、神との関係を忘れさえ、罪人同士が裁き合うように誘ったのです。

 私たちは罪を罪だと教える戒めを知ることの大切さを理解するとともに、その目的が神との関係を育む義の道具として用いなければなりません。裁き合い、憎しみ合うための道具にしてはならないのです。

ことばの栞 20230423

「罪の奴隷と義の奴隷」
 人を支配しようとした時に拘束する箇所は手と足です。どのような相手であっても、手と足に鎖がかけられていなければ支配したとはいえないでしょう。裏を返せば、手足が何につながれているかで、私たちが何に支配されているかを知ることができます。

 奴隷にとって手足は拘束の象徴です。信仰をもってバプテスマを受けたにも関わらず、その手足が罪に拘束されているならば、その手足は不義の道具であると呼ばざるを得ません。一方でその手足が神に向くならば、それは義の道具と呼ばれます。信仰は手足の用い方を決定する力となるのです。

 たとえ同じ行動であっても、捉え方で実りは大きく変わります。親が子どもをあやすことにおいて、愛を学び伝える働きとして捉える時、その手は義の道具となります。しかし、子どもを邪魔な存在と思いながらあやしているならば、そこに実りはなく、愛も生まれません。ただただ、そこに関係の悪化、亀裂、死の報酬が与えられてしまいます。

 バプテスマを受けた神の奴隷には働きがあり、働きには実りが伴います。奴隷の働きは主人の手柄とされ、主人から働きの報酬が与えられるものです。もし奴隷がその働きを、手足を拘束するものだと捉えるならば、良い実りさえも罪の報酬となってしまうでしょう。しかし、その先にある神の計画や働きに目を向けるなら、その実りは私たちの働き以上に与えられていることに気が付くでしょう。

 私たちは捕らわれていることに不満を持つのでしょうか。それとも用いられていることに感謝するのでしょうか。その選択を決めるものこそ、私たちの信仰の表れなのです。