pastor のすべての投稿

ことばの栞 20230409

「信じる者になりなさい」
 近年は教会以外でもイースターのイベントを行うようになってきています。とても楽しい雰囲気を感じられますが、そもそもイースターの楽しさ、うれしさはどのようなことから来ているのでしょうか。また、よみがえられたキリストが伝えたかった気持ちは何でしょうか。

 トマスはイエスが弟子たちの前に現れたときにいませんでした。その時、自分だけが見ていないことに複雑な感情が芽生えていました。イエスのよみがえりを全く信じていなかったわけではないでしょう。しかし、彼の中にある否定的な思いによって認めたくない頑なさを生んでいたのです。

 すると、よみがえられたイエスがトマスの前に現れました。初めは弟子たち全体に声をかけていたイエスが、今度はトマスだけに向かって直接語られました。「信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」

 その時、トマスの目線は周りの人々ではなく、イエスに一直線に向いていました。余計なものによって自らの心をふさぎこむのではなく、イエスをだけを見てその事実を受け止めなさいと語られたのです。
 トマスはよみがえりの主と出会い、「わが主、わが神」と告白し、その事実を信じ、受け入れました。

 トマスと同じように、神さまとの関係を他者との関係の中で相対化させてしまうと、本来信じていることさえも受け入れたくない姿勢をとってしまうことがあります。
 しかし、私を見なさい、触れなさい、と声をかけられたように私たちもキリストのみに目線を向け、信じ受け入れる者になりましょう。それがよみがえられたイエスキリストの願いであったからです。

ことばの栞 20230416

「新しいいのちに歩む葬り」 
 思春期の子どもたちが親の関心や愛情を確かめるためにあえて悪いことをして反応を見ようとするように、神の恵みが与えられていることを確かめるために、あえて罪にとどまることは正しいことなのでしょうか。罪を犯すことによって恵みはさらに広がるのでしょうか。

 パウロは決してそのようなことはないと断言します。特にキリスト者たちはバプテスマを受けたことに注目し、バプテスマがキリストの死に自らも同じように与ることを信じたしるしだと語ります。
 キリストが死んで葬られたとき、この世の罪の支配のからだは葬られ、解放されました。死んだからと言って、別のからだになるわけではありません。死によって解放されたからだに罪が入り込む余地はなくなりました。

 バプテスマはまたキリストの死に自らも同じように与ることを信じるしるしです。キリストがよみがえられたとき、死が再び訪れることはなく、育んだ関係が覆ることはありません。
 したがって死によって罪から解放されたからだは罪をいかに避けるかではなく、神に対して生きるものとなり、天国に罪がないように、生きる中で、罪の概念さえない世界へと導かれるのです。

 よみがえりによって与えられるいのちは、これまでのいのちの単なる置き換えではなく、神に対する生き方を目指すいのちとなります。罪をどう避けるかから、神とどう生きるかといういのちの志向の質的変化が与えられることが信仰の姿です。

 「神に対して生きる」とはどのような歩みや態度でしょうか。その歩みをふまえて、あなたは神に対して生きているといえるでしょうか。

ことばの栞 20230305

「神に義と認められる幸い」
 神に義と認められることは一体どれほどうれしいことなのでしょうか。聖書で報酬は働く者に当然与えられるものと記されている一方で、神の義には働かない人にも認められると書かれています。

 律法を守ってきたことを誇りとするユダヤ人たちにとって、神の義はその働きに応じて与えられる報酬のように受け取ろうとします。しかし、それでは義と認められる喜びは失われ、救いの恵みに感謝することもなくなってしまうでしょう。その反面、働かずして神の義を受け取ることのできる者は無条件で与えられる神の懐の広さ、恵みによって満たされていくでしょう。

 この幸いの中心は、神の御心に従わずに背いてきた私に対して、責任を追及することなく、その負債を放棄されるという約束です。神は私の負い目を晒すことのないように覆われ、追及する者の視界に入れないように守ってくださるのです。

 裁き主である神は信仰者の罪を探して数えようとはせず、キリストの十字架によって責任の追及を行われたとして赦してくださいます。責められることも負い目を感じることもなく、神とともにいることのできる平安こそ、私たちにとって最も大きな幸いです。

 この幸いは民族や歴史によって決まるものではありません。ただ、神に対する信仰の有無によって定められるものです。神が義と認められる幸いを味わうためには、キリストを信じて神の御前に出ようとしなければなりません。神の御前に立って信仰を告白し、義と認められ、赦しを宣言されたとき、律法を守ることや働きの結果与えられる報酬では得られることのできない喜びと平安で満たされることでしょう。

ことばの栞 20230219

「律法と罪の意識」
定められたルールを守ることが難しい時、私たちはなぜこのルールがあるのか、守らせるつもりはないのかと不満を持つことがあります。その時、ルールを設けた目的に注目してみましょう。

 パウロはローマのユダヤ人たちに向けて、神のことばが委ねられたことを優れていると語る一方で、自らの不完全さを正当化することはできないと示します。あらゆる言い訳や疑問を想定し、不完全な人間が完全な神の計画と働きを台無しにすることはなく、人間の罪や悪の働きによって神の義に貢献することもないとはっきりと語りました。

 律法を守ることのできない人間の不完全さゆえに、自らの罪から目を背けることはできません。自分を正しいと語る者は特定の範囲だけに目を向け、全体の不完全さが見えていないことに気付かず、悟っていると語る者はすべての知識を得て求めることのない者となり、愛や憐れみの寄り添いから目を背けていることに気付いていません。

 平和の道を作ろうとする者は、十字架の働きを否定していることに気付いていません。キリストを語っているにもかかわらず、キリストが見えず、神への恐れが失われていることに気付いていません。

 では、不完全さを正当化することも罪から目を背けることもできない者たちは、ただ失望するだけでしょうか。そうではありません。律法は私たちに律法ではない形の正しさが必要であることを提案します。その必要な存在を知ることこそ、律法が設けられた目的なのです。

 あなたが神の教えに背いた時、神はあなたにどうすることを求めているでしょうか。そこに教えを守れないと悲観したり、開き直ったりすることを望まれているのでしょうか。

ことばの栞 20230108

「選び出されたしもべ」
 2023年の礼拝ではローマ人への手紙を読み進めていきます。この手紙はパウロが紀元57年にローマにいるキリスト者たちに向けて書かれた手紙です。1~11章は信じるべきものについて、12~16章は信じる者の生活と態度についてが中心に書かれています。

 キリスト者としての土台を知るうえで大きな手掛かりとなるこの手紙の始まりは、しもべとして選び出されたということでした。パウロは神の福音のために選びだされた、イエスキリストのしもべであると自分を紹介します。
 加えて、ローマの信徒たちに向けて、あなたがたも召されてイエスキリストのものとなったと語ります。キリストのものとはその所有物である奴隷、すなわちしもべとなったということです。

 パウロだけでなく、信徒たちもまたしもべであるならば、それぞれの役割はどのようなものでしょうか。パウロは福音のために使徒として召されましたが、私たちも同様に、福音に仕える使命があります。
 この福音の中心でありすべてであるのが、イエスキリストです。キリストが十字架に死に、3日目によみがえられたことによって私たちに赦しと救いを与えられました。この福音の出来事とその結果を受け入れることがキリスト者の信仰であり、救われた聖徒としての歩みが与えられています。

 神はパウロと同様に、私たちが信じる前から予め福音のために選び出され、しもべとなるように働かれています。私たちも自分の生活の傍らで福音に時間を割くのではなく、生活全体が福音に仕える者となっていく時、福音の恵みに満たされた幸福を感じるでしょう。

ことばの栞 20230402

「神より恐れていたもの」
 キリストは「ピラトによって苦しみを受け」と使徒信条にありますが、ルカの福音書を読むと、ピラトは決してキリストに苦しみを与えようとはしていないことが記されています。もしピラトがキリストを釈放しきっていれば、救い主を救った救世主となっていたでしょう。

 しかし、実際はそうはなりませんでした。ピラトはイエスに罪がないことを理解していました。祭司長たちが訴えるような事実を見いださせなかったことで釈放すべきだと考えました。ヘロデのもとに送って確認をとっても、罪は見いだせませんでした。

 そこで民を説得しようと試みましたが、「釈放する」と言いながらも群衆の声に押し負け、最終的に自らの判断を覆すことになりました。
ピラトは単に自らの判断を通すことができなかったのではありません。彼は立場と働きに関しての責任と信念を持つことができず、裁定を下す立場にあるにもかかわらず、民に伺いを立てていることで、お墨付きを得ようとしたのです。

 私たちも自分で主の前に判断できることを放棄して他者の判断を仰ぎ、お墨付きを得ようとしてしまいます。しかしそこには神に対してよりも他者に対する恐れがあることを覚えておかなければなりません。

 自らの判断を覆しただけだと感じていたこの出来事は、イエスが無罪であるという神の真実をも覆す結果となりました。ここにイエスの苦しみがあるのです。しかし、イエスは罪なき者を罪と定めたピラトにさえも、神との和解を願いながら十字架にかけられたのです。

 神が示してくださった真実を、他者の前で否定したり避けるのではなく、証人としてその真実を明らかにする者となりましょう。

ことばの栞 20230122

「福音信仰宣言」
 「福音を恥としません」と宣言したパウロにとって福音とはどのようなものだったのでしょうか。恥じる感覚の対極にあるものは誇る感覚と考えることができます。恥じる感覚と誇る感覚の根底にあるものの違いを知れば私たちの福音に対する態度も変わるかもしれません。

 パウロは、福音は神の力であり、人間はそこに貢献することができないと捉えています。一方的に罪人に与えられた恵みであり、この福音を受け入れなければ信仰として始まらないと考えていました。

 この福音の内に啓示されているものが神の義です。義とは正しさとも訳されますがユダヤ人たちの間では律法に照らし合わせて間違いのないことが義と考えられ、これを守ることが信仰とされてきました。
しかしパウロは義とは獲得するものではなく、信仰によって与えられるものだと主張しています。信仰は律法に沿った行為ではなく、神との関わりの証であると語ります。

 パウロは福音が単なる歴史的事象で無機質なものではなく、福音を成し遂げた相手が存在し、自分のために与えられた関係があることを受け入れていました。その上で信仰は、自分のいのちが失われ、そこから救われた状態にあり、救ってくださった方と関わりを持ち、その救いの道程を歩むことであると、自らの経験を含めて示しています。

 信仰は神との信頼関係、忠誠を意味する言葉であることから、信仰は神に対する忠誠を、歩みをもって証しするものであると語ります。神との二人の関係に留めておいてはいけません。それを他者に伝えて初めて証となるからです。福音を受け入れるだけでなく、福音を受け入れ神との関わりを示す者となりましょう。

ことばの栞 20230212

「心の割礼」
 クリスチャンとしての喜びとクリスチャンとしての誇りは同じものでしょうか。クリスチャンとして誇りは救いを受けられることを優位と捉えていたとしても、洗礼を受けた者や教会に従順に仕えている者が誰かの上に立てるわけではないことを聖書を通して学んでいます。

 ローマの教会に集っていたユダヤ人たちはローマ人たちや他の異邦人に対して、律法が与えられ、救いの契約者となり、そのしるしとして割礼を受けていたことを誇っていました。
 ユダヤという名前には神を賛美するという意味も込められ、ユダヤ人をして歩むことは神を賛美して生きることを求められていました。

 しかし、それはユダヤ人が優れていることを表しているのではなく、神の救いの契約の先駆けとして仕える者となっていることを意味していました。これは同時に、洗礼を受けた者が優れているのではなく、救われる契約の先駆けとなっていることを意味しています。

 律法を誇っていたユダヤ人たちでしたが、実際には律法を守らず、神殿への寄付を流用するという事件を起こし、ローマから追放される出来事も起こりました。
 割礼の習慣のないローマの信仰者たちが熱心に律法を守ろうとする一方で、からだの割礼を誇るユダヤ人たちが律法に従わず、律法を汚してしまう大きな過ちに、パウロは警鐘を鳴らします。

 神からの称賛、すなわち祝福は心の割礼によるものです。クリスチャンは神の教えを守ることで神を賛美することができます。神の教えを完全に守り切ることができない中で、心に割礼のある者と呼ばれる歩みをしましょう。

ことばの栞 20230326

「一人の人によって」
 海外に行くと日本人を意識し、日本人としての行動をわきまえようとしたり、教会から離れてクリスチャンのいない職場や学校へ通うと、あたかも自分が代表者のような意識が起こされてきます。しかし、「私」は本当に代表者なのでしょうか。

 一人の人であり人間の代表者であるアダムが罪を犯したことによって罪が世界に入り、死が広がりました。私たちは律法によってその罪が罪であることを知り、認められるようになりました。

 そのため、アダムを諸悪の根源のように考えてしまいがちです。しかしパウロはアダムが罪人のひな型ではなく、一人の人によって人類全体に影響を及ぼし、支配する方についてのひな型だと語ります。その方こそキリストです。キリストが愛の根源であることを強調します。

 また、私たちに与えられた賜物は罪を犯して獲得したものではなく、神の許しの中で与えられた恵みの賜物です。アダムの違反行為を通してすべての人が不義と定められたように、キリストの義の行為によってすべての人が義と認められました。律法は死の支配のためではなく、その先にあるキリストによる義の支配を強調させるものです。

 そして私たちは罪人の代表者でも救いの代表者でもなく、救いを受ける者のうちの一人であることを認めなければなりません。救いの代表者として何かを与えようとするのではなく、ともに救いを受ける者の一人として同じ側に立ち、寄り添う者となりましょう。

 律法だけに目を奪われ、罪と死にとどまっていてはなりません。罪が増し加えられるところには恵みも増し加えられるからです。主は罪ではなく、来るべき約束に私たちが目を向けることを願っています。

ことばの栞 20230319

 「和解への希望」
 義と認められた人は神との平和を持っている。この事実がどれほど幸いなことであるかをこれまでに学んできました。今回はこの神との関係によって苦難さえも喜ぶ歩みが本当にあるのかを考えましょう。

 パウロは今ある恵みへと導き入れられたのは、キリストの働きと信仰だと述べます。神の栄光に与るためには罪のないキリストが十字架にかけられて、私たちの罪の責任を背負ったことと、キリストの存在と働きを信じる信仰によって私たちを救う約束を与えてくださりました。だからこそ、この事実を知った信仰者たちは喜びます。
キリストを知り、信じる者にはそれゆえの苦難が伴います。しかし、主の愛に生きようとするため、あらゆる困難に戦いを挑むのではなく、忍耐強く時を待ちます。そして主を伝えるためにあらゆる工夫をし、人々と分かち合う中で、品性が練られていきます。

 パウロ自身も、迫害の苦難に耐え、あらゆる人々と出会いながら伝道しました。聖霊によって神の愛が自らの心に注がれていることを知っていたからです。どんな困難にあっても、主との関係は終わることなく、むしろ平和に迎え入れられることの喜びが勝ったのです。

 実際、私たちが救いの保証を受ける前に信仰を告白することを求めた神は、私たちが信じる前にイエスキリストを遣わし、ご自分の愛を示しました。キリストは神の愛を示すしるしとなり、私たちの信仰を保証する仲介者となられました。

 神と和解することは神との平和を永遠に持つことになります。神を信じる者にとって神との関係が祝福される約束は、この地上のあらゆる苦難にも勝る恵みであることを認め、喜び、伝えあいましょう。