pastor のすべての投稿

ことばの栞 20230226

「神の恵みによる義」
 神との関係においての正しさ、すなわち神の義は私たちの努力によって獲得できるものなのでしょうか。神の義と律法、神の義と信仰の関係を聖書のみことばから考えてみましょう。

 パウロは神の義は律法とは関りがなく、聖書のみことばによって支えられていると語ります。神が一方的に義の道を示し、その道のりを歩むために必要なイエス・キリストをご自身の元から遣わされ、必要な働きをさせました。

 キリストの存在と十字架における罪の贖いを信じる者には、人種民族、性別、身分、そして罪の形に関係なく、平等に神の義を与えられたことは大きな恵みです。この信仰を得るため必要な条件はありません。必要な手続きはキリストによってすでに果たされていたからです。
 
 そのため、初めにユダヤ人の優れた点について神のことばを委ねられたことだと触れていましたが、キリストの贖いによって、この点においても誇ることはできなくなりました。

 行いの律法の最後のひと手間に、信仰の律法があるのではありません。人は不完全なゆえに行いの律法を完全に満たすことはなく、神の義にいたることはありません。信仰によってのみ律法が定められた目的、すなわち神との関係の回復と深まりを果たすことができることを神は示していたのです。

唯一の神だからこそ、すべての領域において欠けることなく働かれることを知ったとき、私たちは神の働きの範囲外にいるのではないかという不安から解放されます。神の義に至ったのは私たちの力ではなく、神の力と恵みによるものであることを覚え、感謝しましょう。
 

ことばの栞 20230129

「恥ずべきものに引き渡される神」
 人を創造し、愛し、救い、赦される、あわれみ深い神は、なぜ人を恥ずべきものに引き渡され、悪を行うことを許されるのでしょうか。

 その原因は人間が神に怒りを起こさせたからです。人は神を神としてあがめず、愚かになり、神が本来受けるべき栄光を他のものへと替えました。そして神の真理までも偽りのものとし、神を知ることさえも価値を認めませんでした。

 ユダヤ人たちは律法を大切に守ってきていたはずです。しかし、そこには律法を順守することで優位に立つこと、自分自身の判断を律法化してしまう現実がありました。

 自分自身の思いを優先させたことによって、神との正しい関係、すなわち義は失われ、神にささげるべきものを他のものへと移してしまったのです。その結果、神の怒りを起こしました。それは、どんな行いがいけないのかという具体的行為の善し悪しよりも、自分を律法化する姿勢の積み重ねによって引き起こされたものでした。

 神は怒りによってこのような人間を汚れに、情欲に、無価値な思いに引き渡されました。神を選ばなかった者は別のものに引き渡されることになるのです。そこにあるのは悪です。

 悪に引き渡されることによって聖なる宮として創造された体は辱められ、キリストと一体となるべき関係は崩され、救いの道は閉ざされ、死へと導かれてしまします。

 神が人間を悪へと招き、引き渡したのではありません。人間が神を認めず拒んだ結果、悪の力に引き渡されることになったのです。自らの罪を神の責任だと転嫁させる姿勢がまさに愚かなことなのです。

ことばの栞 20230312

「約束実行力」 
 信仰による義を語られる中で、パウロの議論は、アブラハムのどの信仰と約束を切り取っているのかに注目していきます。

 アブラハムは神との契約においてアブラハムとその後の子孫との間に、永遠の契約として立てられ、神はアブラハムと後の子孫との神となると宣言されました。当時、約束の地はカナンの全土でしたが、パウロはキリストの到来によって、その地は広げられ、天の御国を受け継ぐ相続者とされたと理解しています。

 神に対する信仰は、神の救いの保証のない時に、神に望みを抱いて認めることです。その結果、神の愛の働きを恵みとして受け取らせます。100歳になったアブラハムは若い時に動けていた状態と衰えている自分を知ったおり、妻のからだの状態も妊娠できるような状態にないことを理解していました。

 自分や妻の弱さを認めたうえで、互いを愛し合っていたことでしょう。その中で子どもが与えられたことで、この出来事を神の恵みと希望のしるしとして受け止めることができ、生まれたイサクを神にささげるほどの信仰が備えられていきました。

 この信仰はパウロの時代にも、現在の私たちに至るまで適用されています。パウロはアブラハムが信じた神とキリストをよみがえらせた神が同じ神だと語ります。唯一の神であるからこそ、時代を超えてもなおも変わらず信仰によって義と認め続けてくださっているのです。

 キリストが神から与えられた役割を全うされ、神が約束された内容の実現のために働かれたからこそ、私たちはキリストを信じることを通してアブラハムと同じ信仰、救い、相続に与ることができるのです。

ことばの栞 20230205

「忍耐と寛容の食卓」
 神との関係において一番大切なことは罪を犯さないことでしょうか。この質問に〇か×か答えるなら、皆さんはどちらを選びますか。

 もし罪を犯さないことが大切と考えるなら、日常から罪を犯さないようにルールを作り、指摘することが大切になってきます。当時のユダヤ人たちは律法を犯さないために自分たちで新たなルールを設定し、そのルールに違反していないか厳しくチェックしていました。

 このような状況になってくると、パウロの時代には、人間が人間を見張り、自らが設定した正義によって裁くようになっていました。しかし、指摘していた人自身も、そのルールを犯している現実がありました。多くの人は理不尽な思いを抱いていました。
 
 視点を変えて見てみると、神が裁かずにおられることに気付きます。神は、過ちを犯してしまった人が悔い改めることを望み、過ちを犯した人の周囲の人も、その出来事によって自らを省みることに期待し、忍耐をもって彼らに寄り添い、神に立ち返るためにともに歩むことを願っておられます。

 人は神が裁かずに待っておられるにもかかわらず、他人の過ちを忍耐できずに自らの正義によって裁き、自らを省みずこともできず、悔い改めに導けない弱さがあることを自覚しなければなりません。
神が招かれた聖餐の食卓は神の忍耐と寛容の食卓です。神がキリストを裁き、流された血と裂かれた肉のしるしを食し、罪人であることを思い起こし、悔い改める場を与えられた恵みの食卓です。

 私たちは裁く者ではなく、裁かれる者であり、裁きを免れた、救いに与る者なのです。

ことばの栞 20230115

「伝えたい福音」
 私たちは福音を知らない人に届けることが宣教だと考えてしまいがちですが、パウロにとっての宣教はどのようなものだったのでしょうか。パウロがローマの信徒たちに宛てた手紙からは知らない人だけではなく、あらゆる人に向けたことばが記されています。

 パウロは福音を効率的に伝え、あらゆる人々が救われることを目指してはいましたが、決して効率的に伝えることだけに焦点を合わせていたわけではありません。ローマの人々の信仰を喜んでいたことから、福音を受け入れて、福音に生きるその証を受け入れていました。

 パウロにとってローマの人々は宣教対象者として考える一方、その地にいるキリスト者たちを部下ではなく、同僚・同労者として敬意を払っていました。文化や生活が異なるゆえに信仰の形に違いはあれど、同じ福音を受け入れた者として、様々な形で福音に生かされてきた人々の証に励ましを受けてきていました。

 そしてパウロの宣教の動機はあらゆる人々に対する罪の負い目であると語ります。しかし、この負い目は悲観的なものではありません。戦いに敗れた武士が敵方に処罰されるのではなく、登用されたような負い目です。一度失ったも同然の命であるなら、救ってもらった相手に忠誠を尽くすような歩みです。

 パウロは仕方なく福音を伝えていたのではなく、神のへの信仰を持った時、自らの罪の重さを知り、神を傷つけたことを受け入れ、それでも愛してくださる神の使命に生きることで感謝と償いを表そうとしました。その使命こそが異邦人伝道でした。福音はあらゆる人へ届けられ、分かち合われる救いの知らせであり信仰の励ましなのです。

みことばはみがき No.41

   ヨブ記 9:2-3 
   そのとおりであることを、私は確かに知っている。
   しかし、人はどのようにして、神の前に正しくあり得るのか。
   たとえ、神と言い争いたいと思っても、
   千に一つも答えられないだろう。

 新型コロナの変異株が急速に広がっています。たった一週間で平均感染者数が10倍となり、予定されていた愛餐会も中止となりました。これからという希望を持っていた中で、またかという思いになってしまうのは私だけではないかもしれません。

 その一方で、できることは継続しようという教会の姿勢も話し合いの中で出されました。礼拝も集会も開催か中止かではなく、どのように維持・継続できるのかを考える段階に来ていることが伺えました。
 一番問題のない状況、一番厳しい状況、その間にいくつかの段階を想定して、それぞれの場合の対応を考えていく中で、答えが必ずしもYESかNOだけではないことに気が付きました。参加者の状況は人それぞれ、時期や職場が違えばその状況も全く違います。それぞれの違いすべてに対応することはできません。

 そこで求められているのは、私たちが基準にしている軸とそこから出される答えです。教会はいつでも神の愛を軸に進退の歩幅を決めて歩みたいものです。


    神への信仰はYESかNO
    人への配慮はグラデーション

みことばはみがき No.40

   詩篇 19:1-4 
   天は神の栄光を語り告げ 大空は御手のわざを告げ知らせる。
   昼は昼へ話を伝え 夜は夜へ知識を示す。
   話しもせず 語りもせず その声も聞こえない。
   しかしその光芒は全地に そのことばは世界の果てまで届いた。

 元旦礼拝に新年礼拝と、2日連続の礼拝からスタートした2022年。コロナ禍の影響の大きかった昨年に比べて、少しずつ交わりも回復してきました。
 元旦礼拝の後、新春であり、教会名にもちなんで、さくら茶が振る舞われました。挽豆のコーヒーも香り豊かですが、さくらの花びらの入ったお茶は見た目でも楽しむことができました。

 翌日の礼拝の後、特別な飲み物は用意していませんでしたが、ラウンジにはお茶やコーヒーを飲む人で賑わっていました。
 その光景を見ながら、どんなことでも、場が備えられることの重要性を感じました。ほんと小さな非日常が与えられると、その場所はとても華やかになり、日常生活全体に活気が出てきます。

 信仰生活も土台となる礼拝や学びに加えて、特色のある働きや交わりによって、神との関係にも活気が出てくることでしょう。
 そう思いながら自分自身の働きを振り返ると、効率ばかりを求めたことで、特色を出す意識が欠けていたことに気付き、そこに周囲を巻き込んでしまったことを反省しています。


    効率は余裕と特色を生むためのもの
    自然と生まれた魅力に勝ることはない

みことばはみがき No.39

   ヘブル 10:34 
   あなたがたは、牢につながれている人々と苦しみをともにし、
   また、自分たちにはもっとすぐれた、
   いつまでも残る財産があることを知っていたので、
   自分の財産が奪われても、それを喜んで受け入れました。
 
 1年の終わりを迎えると、今年もいろいろあったたなぁと思う反面、早かったなぁと感じることもあります。部屋の片づけをしながら、思い出に浸ってしまっては、全く片付かないほど、物も思い出も想像以上に整理していなかったことに気が付きます。

 その反面、どのような経緯で手に入れたのかが思い出せない物も時々現れます。衝動買いだったか、お得だったからか、誰かからもらったものだったのか、考えても辿り着かないままです。
 数年後まで残っている思い出や物はそれほど多くありません。家や車には思い出に詰まっているかもしれませんが、それ以上に残るのは家族との思い出や信仰の転機です。結婚や別れ、キリストとの出会いは何年経っても、忘れることのできないものです。

 そして自らの死を経て、天に迎えられるとき、どんな思い出を携えていくのでしょうか。地上での充実した思い出でしょうか。
 天には神との思い出で溢れているはずです。天に行った時に積み立てていた思い出が多いほど、神とともに思い出に浸る楽しみの団欒が待っていることでしょう。


    地に思い出を残すのは掛け捨て
    天に思い出を残すのは積み立て

みことばはみがき No.38

   ヨハネ 1:4-5
   この方にはいのちがあった。このいのちは人の光であった。
   光は闇の中に輝いている。闇はこれに打ち勝たなかった。

 キャンドルサービスが行われました。コロナ対策として昨年度から採用している2部制で行われ、人数を分散させてそれぞれに違った特色を持つようになりました。

 子どもたちの出席が多かった1部は、礼拝堂は暗いですが、子どもたちの明るさもあり、落ち着いてはいましたが楽しいクリスマスの礼拝となりました。
 一方で2部は、ほとんどの出席者が大人であり、人数も多くはなく、教会に慣れている人ばかりだったので、とても穏やかに過ごし、ほっとする雰囲気の中で行われた礼拝でした。

 二つの流れや内容は全く同じでしたが、そこに集う人々の空気感や受け取り方が大きく異なるものとなりました。それぞれの参加者から、とっても良かったという感想や、この雰囲気でよかったという思いが伝えられました。

 これを聞いた時、神はそれぞれをふさわしい場(部)に導かれたのだと改めて思いました。礼拝に来なさいと招くだけでなく、必要な環境をも配慮されて与えられた神がおられることは、一人一人の心に光が灯され、どんなに辛い負い目に押しつぶされそうになっても、その光によって救ってくださることだと感じました。


    暗いからこそ気付く光があり、
    向き合うからこそ出会える神がいる

みことばはみがき No.37

   マタイ4:20-21
   「私について来なさい。人間を取る漁師にしてあげよう。」
    彼らはすぐに網を捨ててイエスに従った。

 クリスマス集会を行いました。毎年、賛美とメッセージに加えて、参加者からクリスマスのエピソードを分かち合ってもらっていますが、今年度は少し志向を変えて、「クリスマスの失敗」について話してもらいました。

 キリストを知らないままにクリスマスを迎えるなら、それは単なる行事であり、参加するかしないかとなります。結論は楽しいか楽しくないかくらいしかありません。
 しかし、教会で様々な企画や備えをしていく中で、自分の甘さや不完全さを知っていく時、クリスマスの失敗が生まれます。

 ある方はこのように言いました。「今日はいつもの学び会だと思って来ました。聞いていたはずなのに。いやー、それが失敗です。」別の方はこのような話をされました。「昔、教会で行っていたパーティーで、食べ物ばかりに気を取られていた自分がいた。」

 どちらも、大した失敗とは思えないほどですが、そこに自分の心が神に、救い主の誕生に向いていなかったことに気付き、失敗談として話してくれたのです。
 それは、キリストの誕生の恵みを知ったからこそ、その喜びや楽しみが別物であると認め、神に立ち返ることができた証です。


    失敗は本来の価値に気付いた証であり
    失敗と認められる柔和さの現れである