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みことばはみがき No.36

   ヨハネ 5:8
   イエスは彼に言われた。
   「起きて床を取り上げ、歩きなさい。」  
 
 教会に赴任してから書き記してきた御言葉のエッセイを、休暇ではない理由で初めて発行することができませんでした。3年半もの間守られてきたことは感謝なことだと思いましたが、慌ただしさの中、何かを手放さなければ礼拝に影響が出てしまうと判断し、先週はお休みすることにしました。
 もともと頼まれたものではなく、求道中通っていた教会で、尊敬する牧師が毎週発行していたことに習って始めたものでした。

 一度、歩みを止めたものを再び動かすのは普段よりも大きな力がいることを今、書き記しながら感じています。日常の生活もまさにこのような場面に多く遭遇します。学校を休むといけなくなる、ダイエットを一日サボると続かなくなる、その年月が長ければ長いほど、足取りは重くなるものです。

 神への悔い改めはこれ以上の重い腰をあげる歩みとなるでしょう。立ち上がって神のもとに返るには、動き出す決意が必要です。決して結果への期待が必要ではありません。信仰の先輩の姿に倣って始めたエッセイのように、信仰の創始者であるキリストに倣って、人生の歩みをしたいと思わせるような偉大な存在が神ご自身だからです。


    歩んでいる者の背中を押すことは容易だが
    止まっている者の背中を押すことこそ重要

みことばはみがき No.35

   1テサロニケ 5:16~18
   いつも喜んでいなさい。
   絶えず祈りなさい。
   すべてのことにおいて感謝しなさい。
 
 私の故郷に同じ教団の教会ができ、開所式が行われるということで、急遽帰郷し、開所式に出席してきました。30年間で人口が4割以上も減少し、高齢化が著しい町で開拓するという話を耳にしたとき、驚きと喜びが湧き起りました。

 ただ、実情は喜びと表現するにはあまりにも過酷な状況があったのです。会堂を用いてほしいと願っていた人の打診からは20年が経ち、会堂は住める状況ではありませんでした。
 町内の別の場所で、信徒伝道者によって行われ始めた日曜集会も閉鎖して18年ほど経っていて町で見つかるクリスチャン家庭は実家だけになっていました。
 加えて、宣教のために移住した宣教師のご主人が脳梗塞で寝たきりとなり、毎日の介護と看護が必要な状況となっています。

 しかし、未来に対して悲観的になるのではなく、この地において宣教の扉が開かれたことに対する喜びが勝っていたのです。誰一人、会堂の維持や礼拝の継続についてうなだれる者はおらず、これから先に起こされる救いの御業に期待をしていました。
 教会は宣教の拠点、救いの鍵をもつ大きな門です。だからこそ、使命に生きる喜びを味わう場所でありたいと感じました。


    苦しみが取り除かれることが救いなのではなく
    苦しみを超える希望を与えられるものである

みことばはみがき No.34

   ガラテヤ2:20
   もはや私が生きているのではなく、
   キリストが私のうちに生きておられるのです。
   今私が肉において生きているいのちは、
   私を愛し、私のためにご自分を与えてくださった、
   神の御子に対する信仰によるのです。 
  
 妻と娘が不在の1週間を過ごしています。妻の地元で生まれた娘がこの地に来てから、これほど長い時間離れたのは初めてで、家族と暮らすことと離れることの違いを実感しています。

 家族と離れることで、自分の予定通りに時間を使えることがこんなにも簡単に行うことができるのだと知りました。朝から晩まで教会の働きや自分のやりたいことができる、まるで青年時代の過ごし方を取り戻したかのようでした。
 一方で家族と離れることで、ふれあいや会話といった関係のうちに育まれてきたものが生まれないことに寂しさを覚えます。現代ではビデオ通話によって顔を見て、声を見ることはできます。それでも家と働きの場が近ければ近いほど、離れた時に減る家族の交わりは大きなものとなります。

 この2つの感覚を同時に与えられたとき、私が働きに向かえるのは、そのために備えて関係を保ってくれる家族がいるからだと知りました。働きと関係のバランスを保っていたのは私ではなく、支えてくれる存在だったのです。

 
    神があなたを遣わしたからこそ
    あなたとの関係を保とうとされている

みことばはみがき No.33

   使徒の働き 8:31
   するとその人は、
   「導いてくれる人がいなければ、どうして分かるでしょうか」
   と答えた。
   そして、馬車に乗って一緒に座るよう、ピリポに頼んだ。
 
 2021年限定青年部オンライン集会「DS-LIVE」の最終回が行われました。毎回担当者が様々な企画を担当して、学びや交わりを行ってきましたが、最終回は外国から日本へ宣教師として派遣され、それまで見知らぬ地で、伝道の最前線で主に仕えてきたお二人の先生からそれまでに至る道のりと、伝道の恵みを共有していただきました。

 分かち合いの中で、教会に定着していった経緯を聞いていると、初めて教会に行った時、普段のままの雰囲気で受け入れられたことや行ったその日に奉仕や活動に加わっていたこと、そしてクリスチャンとの良い関わりが日常化していることなどの答えがありました。

 青年たちにとっては教会に友達を呼ぶために必要なヒントが与えられ、教師たちにとっては教会に青年が定着するために必要なヒントが与えられました。加えて、伝道というものの新しい観点に気が付きました。それは教会に来たことない人はクリスチャンとの関わりによって神に関心をもつということでした。


    神はあなたを信頼してから用いるのではなく
    用いることで信頼を積み重ねようとしている

みことばはみがき No.32

   ヤコブ4:9-10
   嘆きなさい。悲しみなさい。泣きなさい。
   あなたがたの笑いを悲しみに、喜びを憂いに変えなさい。
   主の御前でへりくだりなさい。
   そうすれば、主があなたがたを高く上げてくださいます。
 
 家族にとってとても大きな一週間を過ごしています。振り返ると、結婚後の歩みは大きな出来事ばかりですが、このような日々を迎えるたびに、自分がどれほど小さな存在であり、力のない存在であるかを思い知らされます。

 礼拝の説教や学びの中で、試練は信仰を表すことを主に求められている時であると語ってきた私にとって、今がまさに試練であると、はっきりと知らされることとなりました。
 試練の中でできることはわずかです。一つ目が嘆くことです。前を向くのはもっともっと後の話です。自分がどれほど苦しんでいるか、どれほど悲しんでいるかを主にありのままぶつけます。
 二つ目は主に祈ることです。主に癒しと慰めを求めます。この出来事の意味を求めるのはずっと後でもよいのかもしれません。
 三つ目は愛し合うことです。愛のある寄り添いは慰めとなり、その悲しみを包みます。どんな現実を迎えても神と自分を見放さずにいるなら、神が愛をもって慰めてくださるでしょう。

 試練の中では、まだ恵みを味わうことはできません。それでも神に目を向け続けることが今の私にできる唯一の信仰告白です。


    信仰は悲しみを取り去るのではなく
    悲しみに立ち向かう力を与える

みことばはみがき No.31

   1コリント 1:5
   あなたがたはすべての点で、
   あらゆることばとあらゆる知識において、
   キリストにあって豊かな者とされました。

 コロナ禍で直接伺うことのできない福祉施設に向けて、リモートで賛美とメッセージを届けようということになり、少しずつ録画を進めています。
 礼拝後に有志を集って、賛美を録画したり、小さな子どもが賛美をしながら踊っている姿を映したり、司会進行の部分をまとめて録画し、編集していくところです。

 一人や二人で歌う時には向き合うことも重なることもないため、マスクの着脱は当事者によりますが、大人数で歌う時、特に2列になって歌う時は、マスクをつけたまま歌っています。
 それでも、久しぶりに礼拝以外の場で賛美し、交わることができることに喜びを感じていました。

 収録も終わりに差し掛かった頃、ふと会話の中で、このような思いが与えられました。「この賛美の映像は、いろんなところへ届けられますね!」
 たった一度の限られた環境の賛美でも、編集方法によって届けられる可能性が広がることは伝道する者に与えられた恵みです。


    前を向いて歩んだからこそ掴み取れる
    神の恵みと約束の確かさがある

みことばはみがき No.30

   1コリント 13:24,25
   「これはあなたがたのための、わたしのからだです。
    わたしを覚えて、これを行いなさい。」
   「この杯は、わたしの血による新しい契約です。
    飲むたびに、わたしを覚えて、これを行いなさい。」  
 
 教団の新しい式文についての学びに参加しました。教職者になる前、式文は聖餐式や洗礼式で牧師が持っている小さな本という印象を持っていました。
 具体的な式を司式する際に用いる文言として各教団が選定された形式や枠組みがはっきりと表れる式文を、日本同盟基督教団の新しい式文の参考とするために、調べ、草案作成のために会議をし、様々な状況や教会の形式に対応するために枠組みを定めたという報告がなされました。

 この姿勢が宣教協力を柱の一つとする同盟教団らしい式文の姿勢だと感じました。式文を定めるというと、すべての教会が同じ文章を共有し、枠から外れないように基準を示す意図が強い傾向のものも多いからです。その中で、あえて絞るのではなく、多くの状況を想定して提案していくことは、まさに牧会を助ける式文、教会に仕える式文と言えるでしょう。

 そんな式文の第一案を読みながら、私もまた、宣教の広がりのためにビジョンをもって基礎を学び続ける大切さを学びました。


    基礎を追求するからこそ踏み外さず
    ビジョンを追求するからこそ特色が生まれる

みことばはみがき No.29

    1ペテロ 2:9
    しかし、あなたがたは選ばれた種族、王である祭司、
    聖なる国民、神のものとされた民です。
    それは、あなたがたを闇の中から、
    ご自分の驚くべき光の中に召してくださった方の栄誉を、
    あなたがたが告げ知らせるためです。
            
 徳島キャラバン伝道に隊長として参加し、現地へ派遣され、奉仕してきました。コロナ禍であることが考慮され、基本的には応募して参加する隊員はリモートでの出席となりました。本来であれば集まって交わりが生まれ、多くの働きができるため、残念に感じていた部分もありました。
 しかし、実際は違いました。不慣れで限られた環境でありながらも、与えられた場に向かって出席者それぞれが積極的に関わろうとし、準備を重ねていたのです。自己紹介の内容と質問をお知らせしたところ、当日にその質問の答えをメモしながら答えてくださる牧師夫妻の姿を見ました。私はこの時、小さなことに忠実に仕える姿とはこういうものだと感じました。
リモートによって超えられるのは場所だけでなく、移動する体力や年齢をも超えて証しすることができることを知りました。福音の恵みに与るために求められるものはリアルかリモートかの選択ではなく、能動的に与え、受け取る姿勢だったのです。
 最も恐ろしいのはリモートを理由に受け身になることです。


    リモートは福音を妨げる壁ではなく、
    全地に福音を届ける交わりの網である

みことばはみがき

    使徒の働き 15:3
    こうして彼らは教会の人々に送り出され、
    フェニキアとサマリアを通って行った。
    道々、異邦人の回心について詳しく伝えたので、
    すべての兄弟たちに大きな喜びをもたらした。
       
 
 徳島キャラバン伝道隊の隊長として徳島福音キリスト教会へ派遣され、奉仕することになりました。この文章が教会の方々に手渡されている頃は、徳島の教会で礼拝奉仕をしているでしょう。
 とても大きな外部奉仕であると同時に、この奉仕を通して、まだ実際に会ったことのない様々な方と連絡を取り合いながら交わりが与えられていることを実感しています。

 奉仕とは、出会いと交わりです。主の働きを成し遂げる中で自分の賜物が用いられて満足感を得るというのはほんのわずかな実りです。それ以上に、その奉仕を通して出会いがあり、ともに奉仕する仲間との交わりがあり、その交わりの中で与えられることばや行動によって励ましや慰めを受けることができる場です。

 ですから、奉仕を避けるよりも奉仕に携わる方が、恵みが大きいのは明らかです。効率は落ちるかもしれませんが、自分だけの働きをこなすより、志を一つにする人とともに仕えることができるなら、その結果以上に、神の祝福と恵みが溢れる場となっていることでしょう。
 主から受ける恵みは個人戦で争うものではありません。


    奉仕に携わる人が多いほど、
    恵みを受け取る網は広がっていく

みことばはみがき No.27

   1ヨハネ1:3
   私たちが見たこと、聞いたことを、あなたがたにも伝えます。
   あなたがたも私たちと交わりを持つようになるためです。
   私たちの交わりとは、御父また御子イエス・キリストとの交わりです。            
 
 夜に、子どもを寝かしつけていた時のことです。我が家ではお風呂から上がり、絵本や聖書を読み、お祈りをすると、お休みの時間となります。
 お休みの時間となり、電気を消し、まだ遊びたい子どもを抱きかかえながら布団に寝かし、「ねんねするよ」と声を掛けます。数か月前からこの声掛けに「ねんね、ねんね」とまねをしながら答えてくれるようになり、とてもかわいく感じていました。

 1~2か月前には、「ねんね」と言いながら目をつぶって寝るマネをするようになりました。あぁ、寝るという意味や様子が分かってきたんだなぁと、子どもの成長を喜んでいました。
 そしてこの1週間でさらに変化が訪れました。「ねんね」と言って目をつぶって、「クカァー」と声を出すんです。何を隠そう、一緒に寝ている私のいびきのマネをするようになったのです。

 私にとっては恥ずかしく、マネをしなくても良いと思うのですが、子どもにとってはそれが「ねんね」の真実であり、見て聞いてならったものなのです。この理解を覆すには、私のいびきを直すほかありません。


    伝えたいものだけが相手に伝わるのではなく
    見たもの聞いたもの全体が相手に伝えられる