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みことばはみがき No.26

   ヨハネ 14:31
   それは、わたしが父を愛していて、
   父が命じられたとおりに行っていることを、世が知るためです。
   立ちなさい。さあ、ここから行くのです。
 
 教団宣教130周年記念大会が行われました。コロナ禍の影響が続いたため、すべてをオンラインに切り替えて行われたため、多くの参加者が与えられたことが伝えられました。

 最初は祈り会でした。全く会ったこともない方や先生とランダムに接続され、各グループに一人説教をしてくださる若手の先生が担当するという形で行われました。時間配分の影響で祈りの課題を分かち合うことができませんでしたが、新鮮な機会でした。
 担当していた青年集会ではオンラインであるにも関わらず、青年一人一人が積極的に関わろうとしてくださったことが伝わり、限られた時間と環境で交わりを持つことができました。
 
 午後のメインの集会では、理事長の2つの講演があり、教団の歩みを通して宣教協力の本質を見通すことができました。果たすべき使命と責任がある中で、自分の状況ではなく、キリストにある未来を仰ぎ見て、手を挙げて歩むことこそ、宣教に勤しむ私たちの教団であることが強く印象に残りました。
 分科会では現クリスチャン市長から「教会も市政も、地域の課題を知り、本気で取り組む必要がある」との話が聞けました。


    できない理由を考える間に、できる方法を考える
    喜んで犠牲を払い、主の働きに応えることが宣教

みことばはみがき No.25

   しかし彼は、自分が正しいことを示そうとして
   イエスに言った。「では、私の隣人とはだれですか。」
                    ルカ 10:29 
 
 責任ある立場になったとき、これまで以上に正しくなければならないと自戒し、行動に気を付けるよう心掛けました。
 しかし、大きな問題が発生してしまいました。それは正しい行いだと思っていたことで人と距離を取ってしまい、人を傷つけてしまっていたのです。
 「主よ。正しいことを行っているのにどうしてこのようなことになってしまうのでしょうか。」と心の中で何度もつぶやきました。すると祈りの中で私はこのように問いかけられました。「あなたはその正しさを相手のためではなく自分を守るために使っていないだろうか。」

 その時、私は相手との関係よりも自分の責任から解放されることばかりに気を取られていたことに気付きました。自分はなんのために正しさを追い求めていたのか、再度立ち止まって考えることにしました。
 「私の求める正しさは、相手への誠実さのほんの一部である。」信頼を失わないために過ちは犯したくないと戒めていたのに、その正しさで相手と戦おうとしていた自分を恥じました。その盾を捨て、丸腰で相手を迎えられる人になりたいと願いました。


    正しさを盾にしては関係は改善しない
    求められるのは相手への誠実さである

みことばはみがき No.24

    ヨハネ 16:7
    私が去って行くことは、あなたがたの益となるのです。
    去っていかなければ、
    あなたがたのところに助け主はおいでになりません。
 
 教会から夏期休暇をいただき、しばらくの間、家から離れることとなりました。そうは言っても、緊急事態宣言が発令されている中で、遠くへ旅行することはできません。夫婦の両親を訪ねることも叶わず、残念に思いながらも、気分転換や祈りの時間をゆったり持てることを願っていました。

 一方で、教会を離れて良いのかという不安もありました。特に自分で管理していた朝顔カーテンやそれ以外の植物たちの水やりなどができなくなると枯れるのではないかと思ったのです。
 しかし、離れると決めたのに不安を持っていくのは気持ちをリフレッシュできなくなると思い、自分なりの備えを行った上で、割り切ろうと決心しました。とはいうものの、何度かは気になることはありました。それでも以前に比べると手間をかけないことへの不安は少なくなったと実感しました。

 離れることを決めて行った備えこそが手間であり、その手間をかけずにいるだけなのは愛ではないということに気付いたとき、同じことを自分の家族や子どもに対して行っているのだと感じました。どうか鈍い者が打ち砕かれ、相手の立場に寄り添える者となれますように。


    離れないことが愛なのではなく
    離れられるための備えこそが愛である

みことばはみがき No.23

    ローマ12:15
    喜んでいる者たちとともに喜び、
    泣いている者たちとともに泣きなさい。

 夕方に親子で散歩していたときのことです。娘は小さい時から教会から帰る人たちの車に一緒に手を振っていたので、大通りを通り抜ける車やバスにも手をよく振ります。今日もまたバスに向かって手を振っているなと思っていると、バスからライトが照らされました。

 危ない!ではなく、それはバスの運転手なりの返事でした。ライトの点滅によって娘のことを見ているよ、ありがとうと合図を送ってくれていたのです。
 周囲の人々からすれば、いきなりバスがライトをつけた様子に戸惑うかもしれません。幼い娘もそのライトの意味は直接理解するのは難しいかもしれません。ただ、バスが私のこと知っていたのだとわかったことでしょう。最も喜びを理解したのは運転手の感覚も娘の気持ちもわかる親でした。寄り添う者の特権です。

 神の恵みや祝福もまた、理解することが難しいことがあります。そのときは、働きかける神の気持ちと受け取る人の気持ちに寄り添うことで、気付かなかった恵みや神の意志を知ることができることもあるでしょう。


  受け手に寄り添うなら慰め手になれる
  送り手に寄り添うなら励まし手になれる

みことばはみがき No.22

  2テモテ 3:15
   また、自分が幼いころから聖書に親しんできたことも知っているからです。
   聖書はあなたに知恵を与えて、キリスト・イエスに対する
   信仰による救いを受けさせることができます。

 夏休みの子どもの居場所活動「ジョイフルサマーホリデー」が終わりました。1か月に一度のジョイフルホリデーとは違い、週に2度、午前中に教会に来て様々な活動をして過ごします。礼拝はなく、全体活動とフリータイムの間に、みことばタイムという形で5分ほどの学びの時間を設けました。

 この8回のみことばタイムのテーマは「主の祈り」で、一つずつの文を小学生にもわかるように伝えながら、毎回主の祈りを読みながら祈りました。
 後半に入り、最後の週までにお家で覚えてきてね、と伝えると、家に帰る前から一生懸命に主の祈りを復唱し、覚えようとし始めました。

 すると、覚えたから聞いてと言ってくる人がいました。それでも来週までお家で練習してきてねと伝えて待つことにしました。
 そして次の回のフリータイムの時間に、それまで参加していた人全員が主の祈りチャレンジに成功することができました。みことばタイムの時、もう見なくても言える!と自信をもって語った子どもたちの心には確かに福音が根付いていたことでしょう。


    挑戦する者に蒔かれた種は芽を出し
    挑戦する者の周りにも種が蒔かれる

みことばはみがき No.21

    ヨシュア 4:9
    これらの十二の石はヨルダン川の真ん中で、
    契約の箱を担いだ祭司たちが足をとどめた場所にあったもので、
    ヨシュアがそれらを積み上げたのである。
    それらは今日までそこにある。
 
 27年に渡り、中国四国地方で宣教の働きをし、私たちの教会の協力宣教師として主に仕えてきた宣教師ご夫妻が定年退職となり、帰国されました。
 自宅を片づけて引き払う前に、残していったものの中で譲り受けることのできるものがあれば持っていってほしいという話があり、帰国された後、何度かお宅を訪問し、教会で使えそうなもの、私たちを含め教会員の自宅で使えそうなものなどを各自で譲り受け、持ち帰りました。

 その中である人がこのように言いました。「これは先生が来る前から宣教師の方々が使っていたものなので、記念にもらいたい。」
 この言葉を聞いた時、譲り受けるものが便利かどうか以上の価値が見出されていたことに気づかされました。私にとってはその物が有用かどうかが持ち帰る基準でしたが、その人にとってはその物が思い起こすための手助けになることが基準でした。

 信仰生活とは信仰を上積みするためのものなのではなく、神を思い起こすためのきっかけを積み上げるものだと改めて教えられた私は、以前にいただいた聖書カバーにそっと手を添えました。


    物の真の価値とは有用かどうかではなく、
    それを通して思い起こす関係の尊さにある

みことばはみがき No.20

   1コリント 3:11
   だれも、すでに据えられている土台以外の物を
   据えることはできないからです。
   その土台とはイエス・キリストです。

 東京オリンピックが閉幕しました。開催について様々な意見が出ていたのを思い出します。ある人は感染症の観点から開催を反対し、ある人はアスリートの観点から開催を応援していました。さらには経済的な観点や政治的な観点から評価をする人がいました。

 同じイベントでありながら、切り口によってこれほど評価が割れ、対立が生じてしまうのはとても残念です。どの意見を見てもそれぞれの「正しさ」は持っており、どれほどそれを重要に考えているかの違いだと感じました。
 平和の祭典の平和という言葉も様々な切り口で語られています。しかし、どの切り口であっても、人命にかかわる戦争をしながら、この競技大会を行うことはありません。すべてに共通する平和の土台はしっかりと共有した上で、さらに上のレベルの平和の見解をそれぞれが解釈しているのが現実です。

 信仰者としての姿も、土台となる部分がしっかりと共有できているからこそ、一致してビジョンに向かって仕えていくことができるでしょう。理想は基礎の延長戦上にあり、基礎が取り除いて行われる応用はありません。


    理想を歩むことに価値があるのではなく、
    理想を歩むための土台に価値がある

みことばはみがき No.19

    ヨハネ 13:19
    事が起こる前に、今からあなたがたに言っておきます。
    起こったときに、わたしが『わたしはある』であることを、
    あなたがたが信じるためです。   

 
 夏の子ども活動「ジョイフルサマーホリデー」が始まりました。毎月のジョイフルホリデーとは少し志向を変え、教会が何かを「する」場所から、教会に行ったら何か「ある」場所だと思えるような時間を過ごせるようにと祈りつつ、その時を迎えました。
 子どもたちが水遊びをしたり、勉強をしたり、工作をしたり、韓国語を勉強したりしながら、教会の人々と思い思いの時間を過ごしている顔はキラキラしていました。毎日教会に来たいという人もいました。

 2時間の中でたった10分だけ、みことばタイムをもち、主の祈りの内容を子どもたちでもわかるかたちでの説明を受け、みんなで祈ります。御国が来ますようにと祈る意味。それはイエスさまが神さまであることすべての人が受け入れますように、という祈りだと伝え、イエスさまが神さまだと思う人?と尋ねました。
 するとみんなが「はい」と手をあげたのです。その時、確かに主が一人一人の心におられるのだと確信しました。

 教会での奉仕を通して、私は一足先に祈りに応えられる神に感謝しました。神は子どもたちを通して、「ある」を示してくださったのです。


    神の存在を最もダイナミックに知るときは
    神に仕えるときである

みことばはみがき No.18

   ヨハネ5:39
   あなたがたは、
   聖書の中に永遠のいのちがあると思って、聖書を調べています。
   その聖書は、わたしについて証ししているものです。
    
 以前視聴していたテレビドラマの総集編を見ると、原爆を受けた地域が復興していく街を思い悩んでいた主人公が視察しに行く様子が描かれていました。

 自分の中に何かを見出そうとしても、思いつめるだけで、何も見出せなかった主人公が、戦争の災禍からの復興を夢見て力を合わせて暮らす人々の姿を見て、思考の大きな転換を迎えたのです。
 
 なぜ自分はこのような境遇なのか、なぜ自分たちだけこうなってしまったのかと、自分の力の及ばないものに対して自分に問うても何も生まれません。そうなってしまっては無力の自分を卑下するだけになってしまいます。
 一方で置かれた状況の中で人々と手を取り希望に自分を委ねて前を向く人々は、この問を置いておき、数年・十数年・数十年後に振り返ってこの問に答えを出していくことになるでしょう。

 信仰生活の中でも、なぜと問いたくなる経験は数えきれないほどあります。しかし答えが出るまでただ神に祈るよりも、祈りながらも置かれた状況を歩むからこそ、神の意図を知り、自分が用いられる価値を知ることになるでしょう。


    意味を見出すために信仰を用いるのではなく
    意味が見出されていく歩みが信仰である。

みことばはみがき No.17

   マルコ 2:14
   イエスは道を通りながら、
   アルパヨの子レビが収税所に座っているのを見て、
   「わたしについて来なさい」と言われた。
   すると、彼は立ち上がってイエスに従った。
 
 「ちょっと手伝って」と呼ばれたとき、自分が何かを行っている最中だと、「ちょっと待って」と思うことや返事をすることがあります。大したことをしていなければ「わかったよ」とすぐに腰を上げ、手を貸すことは簡単です。しかし、作業中や、集中していたときに声をかけられると、「あと少し」と粘りたくなります。
 ほとんどの内容はわずか数分、長くても30分あれば終わることがほとんどです。しかし、5分でも粘ると、手を貸してほしい相手の機嫌はどんどん悪くなり、それは30分では取り返せない状態になるでしょう。粘って続けた5分の内容のほとんどは相手との信頼関係に比べれば取るに足りないものです。
 信仰生活もまた、私たちはこの地に生きていることそのものが、神の御心に沿って、ちょっと手伝ってと呼ばれ、遣わされているにも関わらず、自分の思いを優先し、5分どころではない何か月、何年とちょっと待ってと粘っていることが多々あるでしょう。その粘りこそ、相手の寛容さに付け込んだ甘えだったのです。しびれを切らした相手である神から、「もういい」と断絶されてしまっては元も子もありません。潔く立ち返ることは良い関係を築く秘訣です。


    寛容な相手に求めで返す甘えの姿勢は、
    神ではなく自分への信仰を告白する。