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みことばはみがき No.16

   マルコ 1:4
   バプテスマのヨハネが荒野に現れ、
   罪の赦しに導く悔い改めのバプテスマを宣べ伝えた。
    
 プランターの特別な学びということで、宣教師たちが韓国宣教をするにあたり、共有していた宣教政策についてと、南北分裂前の時代のリバイバル(信仰の復興)の出来事について学びました。
 10項目の政策の中には伝道の行い方や教育の仕方、他の宣教師や国や自治体との関わりについての取り決めがありました。そして世界的にも大きな話題となった平壌のリバイバルの出来事のきかっけを学んだとき、私の心に大きな働きかけがありました。

 その内容を調べたところ、集会において説教と罪の告白が連日にわたり、行われていたとのことでした。特に権威のある立場にある教会の責任者が周りからの評価をいとわず、これまでに神に対して犯して罪を洗いざらい正直に告白したことで、周囲の人々の呼び水となり、多くの人が罪の告白に導かれ、悔い改めたことが記録されていました。

 神に対する恐れが、罪を告白することで起こる周囲の反応への恐れに勝ることにならなければ、それは結局、神よりも恐れる偶像礼拝となってしまいます。恐れるべきものを恐れることができるように、神に切に祈ります。


    恐れを見分ける目が信仰であり、
    恐れるべきものを恐れる心が信仰である。

みことばはみがき No.15

   マタイ 25:26
   しかし、主人は彼に答えた。
    『悪い、怠け者のしもべだ。
     私が蒔かなかったところから刈り取り、
     散らさなかったところからかき集めると
     分かっていたというのか。
 
 子どものころ、親に何度も何度も怒られてきた私は、怒りという感情がとても苦手でした。中学生の頃、友人たちと口論になり、怒る自分が嫌で何とか抑えようとしても抑えきれずにキレてしまうこともありました。
大学生になった頃、人間関係も大分変化して、怒るような生活からいつしか離れた私は怒りの感情を落ち込むことに置き換えていました。そのため、怒りと向き合うことをしなくてよくなりました。

 嫌なことを避けることができた時代から、嫌なこと以上に相手とともにいることを選ぶ時代となったとき、再び怒りと向き合う必要が出てきました。
最近、この感情とぶつかりました。私はふさわしい行動をとることができませんでした。あまりにも長い間避けていたので、「怒り」に対する「恐れ」を持っていたのです。それは、怒りに触れず、怒りを静めることを優先し、その原因を見るに至らなかった罪でした。

 怒りの本質を理解するために避けるのではなく、向き合い、砕かれなければ、小さな器のままで憐れみを取りこぼすと知りました。


   砕かれない器はいつまでも小さく
   自らを差し出す器は磨かれ、より用いられる

みことばはみがき No.14

   詩篇 39:1―2
   私は言った。
   私は自分の道に気をつけよう。
   私が舌で罪を犯さないように。
   口に口輪をはめておこう。
   悪しき者が私の前にいる間は。
   私はひたすら黙っていた。良いことにさえ沈黙した。
   そのため私の痛みは激しくなった。
 
 報告のつもりで伝えたことで相手を怒らせてしまうことがあります。私自身も、こんなことがあって、もっとこうした方がよかったと思って話したことが、後になってその相手を傷つけ、怒らせてしまうということがありました。
 話を聞いてみると、そのような指摘をする前に、自分で対処をすればよかったのではないか、自分の感想を加えずに、してほしいことだけを簡潔に語ってほしいということでした。
 話を聞きながら、私は自分が無意識でこのような話の展開をしてしまっていることに気が付きました。単なる報告が、知らず知らずのうちに関係が悪化してしまうのはもったいないと感じました。
 そこで改めて、自分を省みました。私の都合で伝えやすいことを語るのではなく、相手の立場で受け取りやすいことばで贈る愛が欠けていました。自分の言いたいことだけを語るなら、わざわざ相手に言うよりも、手紙やメモの方がよいと感じました。
 愛をもって私の話を聞いてくださる人に愛をもって言葉を贈ることができる者になりたいと思います。


  ことばは打ち放つロケットではなく贈る花束
  最小限に削ぎ落すことで美しさが保たれる

みことばはみがき No.13

   創世記 2:15
   神である主は人を連れて来て、エデンの園に置き、
   そこを耕させ、また守らせた。
 
 教会の庭を見ると芝ではない多くの草花が生い茂ってしまい、草取りをしても、増えてしまう様子にがっくり来てしまうことがあります。そのような中でも、気持ちを切り替えて、区画を定めて畑を耕してみることにしました。

 堅くなった土を掘り起こしてみると、思った以上に伸びていた木の根と出会い、何度も刃を入れながら根を切り抜きました。さらにはこれでもかというほどの玉ねぎのような球根が形のまま埋まっていました。それらを掘り出し、網にかけ、異物を取り除けました。
 次に土を良くするために堆肥や肥料分を混ぜ込んでなじませ、最後に全体を均して周囲にレンガを敷いて終わりにしました。たった半坪ほどのスペースであるのに、私は1時間ほど汗だくになりながら作業をしていることに気が付きました。

 初めて自分ですべての工程を行ってみると、自分の心と体を用いて地に対して奉仕していくことの大変さと恵みを知ることとなりました。神が初めに命じた耕すことは、奉仕の基本です。心と体を用いて神が与えた地を良い畑へと変え、外的から守り、そこに実りを与え、私たち自身が生かされていくことは神との継続的な交わりの日々だったのです。


  自ら耕す者は、与えられた実りを喜び、
  神が実りを与えられたことを知る。

みことばはみがき No.12

   箴言 14:4
   牛がいなければ飼葉桶はきれいだが、
   豊かな収穫は牛の力による。

 1か月を超えた緊急事態宣言もいよいよ解除となりました。教会の独立の際にも緊急事態宣言中だったこともあり、大切な場面に立ち会うことのできなかった方々がいることを思えば、これからがようやくスタートのような状況です。
 教会の活動や出張が大きく減ったこの1年、直接顔を合わせる機会が減ったことへの寂しさも確かにありました。上下関係や交わりへの気遣いなどがないことは気楽ではありますが、それ以上に話を聞いて学ぶことも、励まし合うこともできないのは残念でした。
 牧師同士の交わりで感じたことは教会の中でも同じです。礼拝だけの信仰生活だけであれば自らが望む生活にそれほど影響がでないため、気楽に過ごせます。一方で教会の人々との交わりは、時にはぶつかったり、同じ信仰だというのに意見が食い違ったり考え方や行動の違いにストレスを感じたりすることもあるでしょう。
 しかし、そこには愛と寛容さや行動の裏にある忍耐強さや主から与えられた使命感を感じ、学ぶことができます。一人一人を受け入れ、愛する器となるには、器が汚れ、それを自らが洗う不便さを超えた主の器として用いられる喜びは、交わりがなければ得られるものではありません。


交わりがなければストレスは溜まらないが、
愛と信仰の成長は交わりの良い結果である。

みことばはみがき No.11

  2コリント 1:24
  私たちは、あなたがたの信仰を支配しようとする者ではなく、
  あなたがたの喜びのために協力して働く者です。
  あなたがたは信仰に堅く立っているのですから。
 
 最近、ようやく教会の庭の植物たちを手入れし始めました。

 3年前に教会に赴任したばかりの時は広い敷地に生えている植物たちをどのようにしたらよいのか、さっぱりわからずにいて、気が付いたら草が生えていたというような状況でした。
 赴任して2年目、今思えば一番のチャンスではありましたが、気が庭に向かず、他の仕事を優先してしまった結果、草はまた伸びてしまいました。
 3年目の昨年は教師試験と子育てに気を取られ、草を抜く気力がなくなっていました。しかし、気分転換に行っていた朝顔カーテンの水やりと種の収穫によって、来年はこの種を植えて自分でやると決意して、楽しみに春を待ちました。

 そして4年目の今年、保管していた種を植え、芽生えてきた朝顔の双葉を見た感動が他の植物にも目を向ける力となりました。少しずつ時間を見つけて草を抜き、草花に水をやり、肥料や育て方を学び、ふさわしい管理を探っています。
 植物は語らずもその様子で応答します。私の霊性もまた、神に対して私の生き方の様子で神に応答できますように。


  管理を怠たったものはあらゆる雑草に取り囲まれ
  ふさわしく管理されたものは生き生きと成長する

みことばはみがき No.10

  使徒の働き 13:47
  主が私たちに、こう命じておられるからです。
  「わたしはあなたを異邦人の光とし、
   地の果てにまで救いをもたらす者とする。」

 教会の独立を控え、礼拝の最終準備をしていた日曜日の10時頃、教会の入り口から私を呼ぶ声がしてきました。
「先生、子どもたちが来ています!」との声に反応し、顔を向けると、ジョイフルホリデーに来ている子たちとその親たちが笑顔で「先生、牧師おめでとうございます!」と声を合わせてお祝いしてくれました。思わぬ祝福に「ありがとう!!」と答えるのが精一杯でしたが、心から喜びと感謝が湧いてきました。
 今日は独立をみんなで祝う日だと区切りをつけていましたが、そこには私の主任牧師就任という大きな節目も含まれていました。

 子どもたちの教会訪問は、昨年始めた子ども伝道の一つの実りです。教会の独立の日が伝道の実りの日となることはこれ以上ない喜びです。私たちの教会は記念日として過去を味わうのではなく、もうすでに未来に向かって走り出していたのだと実感しました。
 教会の活動を終えてふと携帯を見た夕方、メッセージが届いていました。「教会、牧師就任、おめでとうございます」

 主任牧師として仕えるまでの道のり、本当に多くの方に支えられてきたのだと実感した1日となりました。


  記念日は時間の経過では価値は加えられないが
  その働きの実りによって価値が加えられる

みことばはみがき No.9

  出エジプト 6:7
  わたしはあなたがたを取ってわたしの民とし、
  わたしはあなたがたの神となる。
  あなたがたは、わたしがあなたがたの神、主であり、
  あなたがたをエジプトでの苦役から
  導き出す者であることを知る。
 
 今年度、町内会の副組長(町内会をさらに細かく分けたグループ)の役割が与えられ、同じ組の方々に町内会費の集金をするために各家庭を訪問しました。

 引っ越して約3年、同じ町内とはいえ、未だ顔を合したことのない方々も多くいらっしゃいます。単に集金するだけでなく、自己紹介から始め、どこに住んでいて今後の関わりなどについて伝える中で、実は教職者と親しくしていた方や、クリスマスのキャロリングが思い出に残っている方がいらっしゃることが分かりました。

 私自身はまだまだ来たばかりですが、家族で伺ったことで娘を中心に交わりの場が生まれ、みなさんが笑顔で私たち家族を迎え入れてくださったのがとても印象的でした。

 奉仕はその奉仕を全うすることが目的である一方で、その奉仕の中で生まれる交わりを通して、互いの愛を育むことも主の御旨に適った大きな目的です。それはまるでイスラエルの民たちが、カナンの地に向けて歩む上で生まれる困難を経験しながら、神への奉仕を通して、神との交わりを持ち、神への愛を育みつつ、神の愛を知る過程であるかのようです。


  奉仕の目的は与えられた役割を全うすること
  奉仕の恵みはそこで育まれる愛である

みことばはみがき No.8

  ヨハネ 20:29
  イエスは彼に言われた。
  「あなたはわたしを見たから信じたのですか。
   見ないで信じる人たちは幸いです。」 
 
 岡山県内にも緊急事態宣言が発令し、教会の平日の活動がお休みとなりました。ほぼ毎週行っていたプランター(学びと祈りの時間)や先月始まったミルトス(三浦綾子読書会)も休止です。約1年ぶりの緊急事態宣言ですが、感染者数や状況も大きくことなります。

 一方で教会の設備や人々の対応もこの1年で大きく成長しました。インターネット環境や配信機材、パソコンも含めてデジタル化し、リモートを活用した会議や礼拝をできるようになりました。
 自粛中の行動についても、初めはどうすればよいかわからず全く出歩かなかった方も、自分で判断できるようになりました。

 私たちは未知なる大物に対しては恐れが日に日に増していきます。少しでも情報を持っている人に頼るか、情報がない場合やどの情報も信用できない場合、自暴自棄になることもあるでしょう。しかし、次第に部分が少しずつ明らかになってくるにつれて、私たちはその情報をもとに判断しようとします。

 ですから初めに誰に頼るかで、その後の方向性が決まります。未知なる状況に陥ったとき、焦る心を落ち着かせ、まず神の前に赴き、主の教えと命令を覚え、その上で歩む者でありたいと思います。


    未知へのおそれは結果への確信がないゆえのもの
    神へのおそれは報いへの確信があるゆえのもの

みことばはみがき No.7

  1コリント 9:19-20
  私はだれに対しても自由ですが、
  より多くの人を獲得するために、
  すべての人の奴隷になりました。
  ユダヤ人にはユダヤ人のようになりました。
  ユダヤ人を獲得するためです。
 
 婚約する前の学びの時間に、夫婦円満の秘訣は「お互いのことを外国人であると思いなさい」ということを学びました。そもそも私の結婚相手は外国人であるため、事実なのですが、その心は同じように見えて相手の習慣も考え方も文化も全然違うということを踏まえ、その異文化理解を楽しむということでした。

 しかし、いざ結婚すると、単なる認識の違いを超えて、親の在り方、子どもへの対応、さらには教会生活の違いまで浮彫となりました。生活の表面である食べたい物や楽しみたいことなどは共通することも多いからこそ、内面の違いにギャップを感じてしまいます。
 そんなとき、どこに立ち返るかと振り返ると、初心という言葉が浮かびます。しかし、この初心とは付き合い始め、結婚したての愛のことではなく、私自身が完全ではないにもかかわらず、神の愛によって赦され、生きるパートナーを与えられ、その歩みを通して、神を知り、神に仕えていくことです。
 
 神は不完全な私を理解してくださったように、私を受け入れた結婚相手のように、私もへりくだって、相手の立場・文化に自分を置くことを喜び、楽しむことを選びたいと願います。


  相手を完全に理解できないものだと知ることは、
  相手に理解してもらう努力の必要を知ること。