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みことばはみがき No.6

  使徒の働き 2:46-47
  そして、毎日心を一つにして宮に集まり、家々でパンを裂き、
  喜びと真心をもって食事をともにし、神を賛美し、
  民全体から好意を持たれていた。
  主は毎日救われる人々を加えて一つにしてくださった。 

 牧師の先輩であり同労者でもある韓国人牧師夫妻に、休みを利用して会いに行くことができました。年も近く、神学校も同じだったこともあり、とても親しく感じていましたが、コロナや子育ての事情もあり、なかなか機会に恵まれませんでした。

 その中で「仕事の話はしない」という約束のもと、パソコンも本も持たずに、互いの家族の交流を第一に過ごすことができました。仕事の話はなくとも、キリストとともに歩む家族にたちが集まって話すことが信仰の話になることは、いたって自然なことでした。お互いの様子を共有しながらも、普段の忙しく余裕のない生活では省みることのできなかった自分自身の悩みや感覚を打ち明けながら、理解を深め、労わることを知りました。

 そこで私は改めて、友の大切さを知りました。牧会者として岡山に来て、友人として気兼ねなく関われる機会が限りなく少なく、いつしか友人付き合いを忘れていることにも気づきました。それは外国で暮らす妻や先輩方も同じでした。私は娘を寝かしつけながら、隣の部屋で楽しそうに、嬉しそうに韓国語で信仰生活の話をしている様子を耳にしながら、しばらく部屋から出ないことにしました。


  自分の成果を出すことが働きなのではなく、
  主の使命に携わる者を支えることが働きである。

みことばはみがき No.5

 ヨエル2:28
 その後、わたしはすべての人に私の霊を注ぐ。
 あなたがたの息子や娘は預言し、
 老人は夢を見、青年は幻を見る。
 
 岡山を中心とする西日本の賛美の祭典Victory2021がオンラインで開催されました。コロナ禍で集まることのできない中で、何度もミーティングやリハーサルを行い、ライブ配信という形で賛美の恵みを共有することにチャレンジしました。

 私は画面には映らない映像配信担当として奉仕に携わりましたが、見ている人が不快に感じないように最大限の配慮をもって臨みました。当日直前まで不安材料がありましたが、小さなトラブルのみで全体としては無事に演奏も配信も終えることができました。
 賛美をしている人たちにとっては画面の向こう側いる人々の顔も反応も見えない中で歌い、喜びをもって賛美している姿を想像しながら進行をすることになりました。一方で配信をしている私や画面外にいるスタッフたちは配信情報にある150名を超える視聴者数やコメントを目にしながら、賛美には力があり、主がこの場を祝福し用いていくださることをリアルタイムで実感していました。

 会場にいない視聴者たちがバンドメンバーと同じように喜んで賛美し、主を喜ぶ姿を夢見る大人たちが、青年たちに主を証し、神の国を見る場を与えることの大切さを知りました。

    主役だけが主の祝福を受けるのではなく、
    主の役務に携わる者すべてが祝福である。

みことばはみがき No.4

  ヨハネ 5:39
  あなたがたは、聖書の中に永遠のいのちがあると思って、聖書を調べています。
  その聖書は、わたしについて証ししているものです。
 
 桜が丘キリスト教会の家庭集会として三浦綾子読書会ミルトスがスタートしました。私も学生の頃は何冊か著作を読み、両親とキャンプした帰り道に塩狩峠の三浦綾子記念館に立ち寄ったことを覚えています。
 私にとって本は、文章や物語との出会いであり、著者と交わることなど想像もしていませんでした。しかし、自分自身がエッセイを書き、手に取って読んでくださる方と交わりが持てることに気づきました。書くことを通して読む楽しみの先にある交わりの価値に気付いたのです。

 読者という立場からはなかなか気づきませんでしたが、著者には伝えたい思いがある、それが著者の願いでもある場合、著者の気持ちを代弁できる方がいることはとても幸せなことです。三浦綾子が召天した後、関わってきた夫や秘書、そして教会の仲間を中心に彼女を代弁者が与えられました。そこに愛があるのです。
 キリストが天に昇られた後、このように使徒たちが、弟子たちがキリストの代弁者として福音を語り伝えていたその歩みと関わりもまた、愛にあふれていたことでしょう。

    自分の価値に気付くことは尊いこと。
    他者の価値を伝えることは愛である。

2021年4月25日 公開

みことばはみがき No.3

 ルカ22:32
 しかし、わたしはあなたのために、あなたの信仰がなくならないように祈りました。ですから、あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。
 
 信仰の質と聞かれると、聖書を読んだり祈ったり、礼拝に出席や奉仕の度合いを想像するでしょう。しかし、本当の質を問われるのは人生の試練にあるときでしょう。
 かつて私が留学中に洗礼を決心したとき、日本で通っていた教会の先生に相談をしました。ともに喜んでもらえると思っていましたが、実際には違いました。電話先で戸惑いながら、帰国した時に行うことはできないという返事だったのです。信仰の決心が否定されたような気持がして、電話を切ったとき、私は泣き崩れました。
 「主よ、なぜ私を拒むのですか。あなたが導いてくださったのではありませんか」
と何度も何度も嘆きました。

 結果的に留学先の日本語教会で信仰告白をし、洗礼を受けることになりました。嘆きながらも、主に寄り頼むしかない自分がいることを再確認し、留学先の教会全体で祈り支えてもらいました。
 試練の時にあった支えが、私を立ち直らせてくれました。その祈りの群れの中心にキリストがおられたことに気付いたのはもう少し先の話。信仰の質は自分では変えることのできない尊いものだと知りました。

    信仰の決心は自分にしかできない。
    信仰の支えは他人にしかできない。

2021年4月18日 公開

みことばはみがき No.2

 マタイ27:42
 他人は救ったが、自分は救えない。彼はイスラエルの王だ。
 今、十字架から降りてもらおう。そうすれば信じよう。
 
 聖書のみことばがどれほど正しいかと問われた時、絶対に正しいと答えたいと思います。しかし、それがどうやってわかるのだと問われた時、答えるのに窮するのではないかと思います。
 キリストご自身が十字架の下にいる祭司長たちや律法学者たちからこのように言われた時、反論はできたことでしょう。ただ、そのようなことは行いませんでした。悪魔の誘惑の際も、キリストはあなたの主を試みてはならないとみことばによって語りました。
 一方、信じて実を結ぶキリスト者たちの軌跡も聖書に記されています。そして私自身が、みことばを通してキリストを知り、従って歩んだからこそ得られたものが多くあったことを知っています。
 信じることは主体者に対する出来事の結果ではなく主体者の決心です。だからこそ、信じるために条件を与えても、それを満たしたからと言って信じますとはなりません。今回はたまたま、やり方が違う、私の望んでいる形ではないなど、いくらでも言い訳を付けられます。ただ、それでは主が伸ばされた枝を切り落とすようなものであり、実を結ぶことはありません。
 みことばを試す歩みよりもみことばに生きる歩み、それがキリストとともに歩むことでしょう。

  みことばは信仰によって結ばれる。
  みことばを試みても何も結ばれない。

2021年4月11日 公開

みことばはみがき No.1

 エペソ3:18~19
 すべての聖徒たちとともに、その広さ、長さ、高さ、
 深さがどれほどであるかを理解する力を持つようになり、
 人知をはるかに超えたキリストの愛を知ることができますように。
 
 正教師になって初めて礼拝の講壇に立ちました。先週は東京帰りということと、説教担当ではなかったこともあり、礼拝堂に入らず、2階のバルコニーで礼拝をささげました。
 バルコニーでの礼拝はとても新鮮で、家族3人が揃って同じ場所で礼拝をささげられる喜びがありました。その一方で礼拝の場に距離を置いていることは寂しさを感じることもまた事実でした。できるなら、按手を受けた喜びを分かち合いたいと願いながらも1週間は自粛をし、ようやく前回の礼拝で講壇に立つことができました。
 正教師として初めて立った講壇は期待よりも緊張が勝りました。それは自分の成長を感じたからではありません。主に委ねられた重さが増し加えられたことを感じたことによる緊張でした。
教会に遣わされ、必要な役割を部分的に担う補教師とは違い、教会全体を見渡し、霊的責任をもって礼拝や教育や交わりを行う重要性がより深く理解したからこそ、その価値に重さを感じました。
 祝祷の際に上に伸ばした手が少しだけ震えたのは後奏の長さに肉体が反応したからではなく、聖書のみことばをなぞって読むことを超えて、主のことばを担い伝える重要性とその偉大さが伝わってきたからでした。

   神を知ることは愛と恵みを知ること。
   神に委ねられた使命の大きさを知ること。

2021年4月4日 公開

光テラス No.152

3月28日
 教団総会に出席してきました。土曜日に娘が胃腸炎を、月曜日に夫婦でその胃腸炎をもらってしまい、ヒーヒー言いながら準備して就寝し、出発日当日を迎えました。食欲はまだ回復していませんでしたが、体調は快方に向いていたので、もし行く過程でストップがかかれば従おうと思いつつ、東京に向けて家を出ました。

 幸い総会当日には十分に回復し、無理のない奉仕に加わることもでき、総会の話しも聞く余裕もありました。
総会時間が少し延長され、19時を迎えようとしている中、典礼が始まり、いよいよ正教師の按手となりました。あいうえお順で私が一番早かったこともあり、初めに名前を呼ばれ、前に出ました。
 誓約をし、私たちの頭には理事の手が置かれ、祈りがささげられました。頭に当てられた手の重さが喜びと感謝と使命と責任の重さとして主から与えられているように感じました。

 辞令状を受け取り、会衆に向けて顔を見せて赴任地が発表されると、一人一言一分で語る時間が与えられました。予め準備するように言われていましたが、ここでも最初に話すこととなった私は気持ちを落ち着ける間もなくマイクを握りました。こみ上げてくる気持ちを抑えるのに必死で、何度も言葉を震わせながらも、そこでこのように語りました。

 「私は教会に仕える喜びを学び、
  教会に仕える豊かさを学び、
  教会に仕える責任を学びました。
  そのすべての出会いに導かれた人はキリストに倣っていました。
  だから私も最高の指導者であるキリストに倣いたいです。」

 献身者としての私の歩みはキリストがすべてであり、キリストのほかありません。

    ですから、愛されている子どもらしく、
    神に倣う者となりなさい。
               エペソ 5:1

光テラス No.151

3月14日
 高校卒業以来、ほとんど連絡を取っていなかった部活の仲間から、オンラインで集まって話そうという誘いがあり、卒業後初めて同期で集まりました。高校卒業時は18歳だった私たちも今年で36歳になるということは、ちょうど、高校卒業が人生の半分となることを意味していました。
 北海道の地方の公立進学校と言われていた母校は質よりも量で受験生活を支えてくださったことで、大学に進学できたことは感謝でしたが、在籍していた当時は単調な勉強に飽きることもありました。
 このような生活の中で部活は高校生活を充実させる大きな役割をもっていました。野球部を辞め、何か新しいことにチャレンジしたいと思っていた私は、大好きだったバレー部か、教会で賛美歌を歌っていたことから、歌がうまくなれば一生ものだと思っていた合唱部か迷っていました。
 結果的に合唱部を選んだ私は、現在までもこれからも関り続ける「歌う」ということについて学べたことはとても感謝でした。その一方で卒業後も連絡を取り続けるような友人は部内にはいませんでした。
 しかし、今回のように突然声がかかり、画面越しに部活仲間たちと顔を合わせてみると、18年も経つのになんだか数か月しか経っていないのではないかと思うほど違和感なくその場にいることができました。
 結婚をした人、子どもがいる人、独身の人。それぞれの人生の歩みはバラバラでも、こうして振り返ってみると、確かに関わりを持っていたことを再確認しました。
 神と顔を合わせる時、それはきっと初対面のようなものではなく、久しぶりの再会を楽しむような気持なのかもしれないと感じました。

    わたしがあなたがたに命じておいた、
    すべてのことを守るように教えなさい。
    見よ。私は世の終わりまで、
    いつもあなたがたとともにいます。
               マタイ28:20

光テラス No.150

3月7日
 礼拝後に出席者とお話をしたり、奉仕担当者と話をしたりしながら、帰る方々を見送る、毎週の交わりの流れの中で、コロナ対策のために消毒をするために残っていた方と話すことになりました。

 初めは相談だった話もいつしか奉仕に対する考え方や、役割と立場について、これまでの信仰と教会の歩みについて分かち合いながら、これからの教会の歩みや牧師や信徒の在り方など様々な点について考える時間となりました。
 話し合う中で、私自身が教会や信徒に期待していること、役割を全うする上で必要だと考えていること、教師と信徒の関りなどが整理され、考えも共有することができ、気が付けば1時間半ほど時間が過ぎていました。

 昼食の時間を越えてしまっていたため、申し訳なさを感じながらも、尊い時間が与えられた恵みに感謝をしました。
 教会の独立にむけて、2年前に執事が選出され、先の総会で独立が承認され、長老が選出されました。そして私自身が正教師試験に合格し、いよいよこれから対外的な手続きをという慌ただしさの前に、立ち止まって気持ちを整える時間が突然でしたが備えられたのです。

 改めて主は私たちを業として導き、心を育み、信仰を養い、気持ちを整えてくださる方であると確信し、独立に向けての歩みも、神の業を委ねられて忠実に果たすことが期待されているのだと喜びました。

    神である主は、私に弟子の舌を与え、
    疲れた者をことばで励ますことを教え、
    朝ごとに私を呼び覚まし、
    私の耳を呼び覚まして、
    私が弟子として聞くようにされる     
               イザヤ50:4

光テラス No.149

2月28日
 しばらくぶりに風邪をひきました。さまざまな要因が思い当たりましたが、改めて考えてみると、緊張の途切れだと思い当たりました。その途切れとは、正教師試験の終了と合格通知の受け取りによる、重圧からの解放でした。この試験は単なる個人戦ではありませんでした。

 一つは家族の協力。教会の働きに加えて試験に取り組む時間を捻出したことで、家族に対するケアが実践的にも精神的にも十分に行うことができませんでした。妻への感謝と申し訳なさに加え、試験に合格できずに、再度このような状況に陥ってはならないと感じていました。

 一つは教会の協力。試験の課題に向けて教会では主日の成人科を試験の課題についてのテーマで行い、試験期間終盤には余裕がなくなってしまい、しばらくお休みすることにもなってしまいました。それでも応援し、励ましてくださる信徒たちと接しながら、独立を控えた教会の足かせになってはならないという感謝と責任を感じました。

 そしてもう一つは神の力の業。課題提出がギリギリとなって、自分の考える力の限界が迫る中、最後まで私の背中を押し、やり切りなさいと語りかけてくれた主の信頼があったからこそ成し遂げられました。

 肉体は痛みに耐えながらも、心から感謝する時間が与えられました。主は私だけでなく、家族をも、教会をもまもってくださいました。
そんな私が娘とともに寝込んでしまい、家事と育児を完全に妻に任せてしまった責任は、これから果たしていくことになるでしょう。

    恐れるな。わたしはあなたとともにいる。
    たじろぐな。わたしがあなたの神だから。
    わたしはあなたを強くし、あなたを助け、
    わたしの義の右の手で、あなたを守る。
                イザヤ47:10