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光テラス No.148

2月21日
 部屋の模様替えをしました。これまでは、私の作業スペースと娘のスペースが半分半分で、作業スペースに入らないように棚や引き出しを並べて分けていました。今回はその棚を壁際に寄せて、娘が動ける範囲を広げました。
 以前は娘を寝かせてからベッドで寝ることもありましたが、最近は一緒に布団で寝ているため、ベッドを使う機会がほとんどなくなってしまいました。そのため思い切って片付けて、私のパソコン作業机だけを娘が触れないように囲うようにしました。

 これまでは娘が移動できないように囲われていたのですが、今回は私の机が囲われたのです。娘を囲っている時には、触れることの心配はありませんでしたが、娘が移動できるようになり、自由に歩き回れるようになったからこそ、囲いが払われ、心配が生まれます。
 子どもに自由に過ごしてほしい、できることが増えたのならどんどんチャレンジしてほしい。でも私の大切な物には触れないでほしい。ただそれ以上に、子どもが生き生きと過ごす場所となってほしい。

 きっと触ってしまい、机の上から落ちて壊れてしまうものもあるかもしれません。でも、だからと言って頑丈に守るよりは、赦しつつ、根気よく、「ここは触っちゃダメだよ」と娘にこれから何度も伝えていくことになるのでしょう。

    神である主は人に命じられた。
    「あなたはどの木からでも思いのまま食べてよい。
     しかし、善悪の知識の木からは、食べてはならない。
     その木から食べるとき、あなたは必ず死ぬ。」 
                    創世記2:16-17

光テラス No.147

2月14日
 教団の「教会と国家」委員会主催の信教の自由セミナーが配信されました。福祉を通して見えてくる教会と国家をテーマに、一時生活支援事業を行う牧師を講師に関西の教会とリモートで行われました。
 そこでは牧師が牧会する中で出会った人との関りから、支援事業を始め、試行錯誤していく中で現在の形が生まれていったということが説明されていきました。

 私自身も教会で福祉を考えていく過程で、どのような形でサポートができるのかと理想を求めるとき、自分たちにできることの限界が先に見えてしまいます。すべての人には届けられないがゆえに、不公平を感じたり、サポートの対象者を決める境界線はどこだと悩んだりしていると、動き始めることができなくなってしまうことがあります。

 講演の中で、講師はこのように語りました。
 「私たちにはできない全体に対する働きは『いいえ』と答え、『はい』
  と答えられる国が『はい』と答え行う。一方で、一人一人に対する
  アプローチは私たちにはできる。だから『はい』と答えて行う。」

 これが教会に求められている福祉の姿だと示されました。すべての人を救うのはイエス・キリストのみであり、私たちはキリストに代わることはできません。しかし、キリストの昇天後、一人一人に福音を伝える役割が私たちには与えられているのです。
 目の前の一人を愛する。それが神の国の始まりであり、その積み重が神の国の実現であること感じた学びでした。

    あなた方の言うことばは、『はい』は『はい』、
    『いいえ』は『いいえ』としなさい。
    それ以上のことは悪い者から出ているのです。
                    マタイ5:37

光テラス No.146

2月7日
 オンラインでの合同礼拝後、教会総会が行われました。親教会で行われた教会総会ですが、話題の中心となったのは私たちが礼拝をささげている教会である伝道所の独立についてでした。

 独立をするにあたり、親心をもって伝道所の状況を心配してくださる多くの声が上がりました。その声は決して悲観的なものばかりではなく、親元を離れる子にできることがあるのではないかという視点から発言されたものでした。
 一方で大人として歩みを始める、親の子である伝道所としては、目の前にある課題を親の力に寄り頼んで乗り越えるのではなく、自分自身の力と責任をもって立ち向かうことを含めて独立を決意し、検討し、決議されてきました。

 ただ、この乗り越える力は決して力量や財力という見える形によるものではありません。信仰を通して示される神の力です。私たちの歩みが主の御心と一致するならば、神の力は完全に現れます。ですから、試されるのは力ではなく信仰です。
 親が心配するような教会の状況で、そこに立ち向かうのか、それとも親に甘えるのか、はたまた諦めるのか。その決断こそ、私たちの信仰と主体性が問われることとなりました。

 これからの歩みにはさらなる困難や課題が待っているでしょう。健やかなるときも病めるときも、教会はかしらであるキリストに寄り頼み従っていくことが基本でありすべてであると再確認した総会でした。

    しかし主は、「わたしの恵みはあなたに十分である。
    わたしの力は弱さのうちに完全に現れるからである」
    と言われました。
                  2コリント12:9

光テラス No.145

1月31日
 水曜日の夕方、出かけて家に戻ってくると、水が全く出なくなっていました。トイレの水を流した後、次の水が流れて来ていないことに気づいた私は、他の蛇口も確認すると、何も出ず。住居部分だけでなく、教会の建物全体が断水していました。何とか日の明かりが残っているうちにと、建物全体を見回って、給水栓やバルブが閉じられていないか確認しましたが、なにも異常は見つけられませんでした。

 市のホームページを見ても何もお知らせがなく問い合わせの時間が過ぎているため、今日中の復旧は無いものと割り切り、どのように一晩を過ごすのかを考えました。もしかしたらこの周辺一帯が断水になっていたら大混乱しているに違いない。そう考えた私は早めに必要なものをと、スーパーに水を買いに行きました。突然の断水によって飲料水どころか、生活用水の予備もありません。心穏やかではない私とは対照的に、お店は平常営業で、誰も焦っている様子がありません。
 結局、娘の衛生用品だけはきれいにしておこうと妻と相談し、その晩はシャワーもできないまま朝を迎えました。買っておいた水が一晩で何リットルも使わなければならない状況に不安も募りました。

 翌朝、問い合わせの時間を迎えると、すぐに電話をしました。電話の先で不思議そうに応対している担当者でしたが、30分ほど経った時、インターホンが鳴りました。そしてそれと当時に水が流れ出しました。「すいません、こちらの不手際で、近くの水道点検の際、誤ってバルブを閉めてしまいました。」その時私は、これまでの不便さの不安をすっかり忘れ、水が出た喜びと安心で心も満たされていました。

    それからイエスはその人に言われた。
    「立ち上がって行きなさい。あなたの信仰があなたを救ったのです。」
                            ルカ17:19

光テラス No.144

1月24日
 1年以上ぶりにDVDで映画を見ました。昨年度話題になった韓国映画で、社会下層で生きる家族が、友人の紹介をきっかけに上層家庭の中へ徐々に入っていき、裕福な生活を得ようとする様子が鮮明に描かれていました。しかし、ある出来事をきっかけに彼らの格差が露呈してしまい、大きな事件へと発展してしまう状況に、なんとも言えない気持ちとなり、胸が痛くなりました。

 映画を見終わってから、映画の中で起こった状況が実際にあり得ることなのかと疑問に思い、妻に質問しました。また、日本語の字幕だけでは理解できなかった会話の内容や省略されていた言葉、さらには韓国語の言葉遣いによって受けるニュアンスの違いを尋ねました。欠けていた情報によってどれほど印象が変わるのかも気になるところでした。妻がその都度丁寧に答えてくれたことで、虫食いだった展開がつなぎ合わされていきました。

 発信される文化で育っていなかったり、触れていなかったりすれば、言葉がもつ意味だけでなく、その時の感情や関係が理解できないまま話が進んでしまうことがあります。その穴を埋める存在が仲介者です。仲介者がいるかいないかで、読み手の理解力は格段に変化します。

 語り手の意志を読み手にはっきりと示すために、言語や文化をつなぐ架け橋となる仲介者はとても特殊で高等な技術を有する大切な働き人です。妻の解説を聞きながら、私も日本の文化を伝えるだけでなく、御言葉を伝える仲介者でありたいと改めて感じたのでした。

    すると、その人は、「導く人がなければ、どうしてわかりましょう。」と言った。
                               使徒の働き8:31

光テラス No.143

1月17日
 信仰の友の存在が本当に大切だと感じたことがありました。先日久しぶりに神学生時代の友人であり、牧会の先輩でもある友人夫妻にビデオ通話をかけました。何か月ぶりに友人の顔を見ると、ほっとしたことを覚えています。

 全く知り合いのいない場所に赴任をすると、その地で出会う方々に同世代がいなければ、新しい友人と出会うということは難しいと感じることがあります。牧会者の友達は牧会者ということはよくあります。
 例に漏れず、ビデオ通話をした友人夫妻も牧会者ですが、説教のことや学びや交わりのことなど、場所は違えど考えていることや悩みやすい点も気軽に共有できるのは確かに同業者ならではです。

 夫婦同士も仲が良く、共通点も多いことから、話も弾み、久しぶりに何も気兼ねなく、他愛もない会話を数時間も続けていました。
 会話を終えようとしたとき、友人がこのように私に語りました。

「ぼくは自分からは電話かけたりしないんだけど、
 今日みたいにかけてくれると、とっても嬉しいよ。ありがとう。」

 その言葉は私にとってとても大きな励ましと慰めになりました。数時間も取ってしまったという申し訳なさと、自分だけが満足していたら悪いなという遠慮の中で、友として私を受け入れてもらえているのだということが一瞬で伝わってきたからです。喜びと感謝を伝え、通話を終えたとき、心の底から嬉しさがこみ上げてきたのでした。

    わたしの喜びがあなたがたのうちにあり、
    あなたがたが喜びで満ちあふれるようになるために、
    わたしはこれらのことをあなたがたに話しました。
                   ヨハネ12:11

光テラス No.142

1月10日
 個人的に念願だった、パソコン作業用モニターを購入しました。これまでノートパソコンで進めてきた作業も、大きな画面で見やすく作業を行えるようになりました。
 同じ部屋で1歳の娘が寝ていても作業ができるように、明るさや音の刺激に極力配慮しながら取り組んできましたが、その分作業しにくい環境でもありました。

 モニターの画面に表示される資料を見ながら、パソコンの画面で原稿を書くことができるというのが、とても快適であることを、作業してみて初めて実感することができました。これまでは机の上の限られたスペースに聖書や本をバラバラと広げて、あれやこれやと目を移しながら作業したり、ノートパソコンの画面の中で、何度も表示画面を切り替えて確認したりしてきました。

 モニターそのものは本のように知識を提供することもなければ、ノートのように何かを記録することもできません。しかし、画面の前に座っている人に必要なものを映し出す道具として大いに役立つものだと身をもって知りました。

 信仰生活も、主とともに生きる中で、自分の能力で何かを生み出すことが目的なのではなく、神のみこころや愛や憐れみを忠実に映し出す働きの尊さに気づきました。そしてこの地上での歩みを終えるその時まで、神の愛と神への感謝を映し出すモニターでありたいと思いました。

    わたしを見る者は、わたしを遣わされた方を見るのです。
                      ヨハネ12:45

光テラス No.141

1月3日
 2020年の年末は妻の願いでもあった、有名アイドルグループのコンサートのネット配信チケットを購入し、見ることにしました。ただ、妻にとっては独身時代から大好きだったグループが年内で活動を休止するとあって、とても複雑な気持ちでその時を待っていました。
 私自身も神学生時代に、好きなアイドル事務所のグループが解散すると聞いて、チケットを取れなかったため、そのコンサートの片づけのアルバイトを申し込んで見届け(聞き届け)た思い出があります。

 ファンにとって解散や休止コンサートを見るというのはそのコンサートを楽しみ、過ごしたい一方で、曲が終わる度に迫ってくる別れの辛さや寂しさを感じたくないという相容れない感情が共存してしまう、非日常の時間です。
 私自身はファンではありませんでしたが、ファンのために様々な企画を用意し、できる限り寄り添おうとした姿勢が形とされて、見ることができました。
 コンサート会場にはファンが一人もいないにも関わらず、一緒にいる感覚を与え、ともに過ごしていることを味わわせてくれる彼らの存在とファンサービス(民への奉仕)は、確かにアイドル(偶像)と呼ばれるほどだと感じました。

 終わりの時を迎えると、ファンや国民が別れを惜しさから、喪失感(ロス)を味わいます。大切な時間だったからこそ、ロスも大きいでしょう。そして再会を夢見ながら、日常へと戻っていくのです。

 神以外に、終わりのないものはありません。辛いです。しかし、天の御国で再会できるのなら、辛さに勝る喜びと希望があるでしょう。

    あなたがたが主にあって堅く立っているなら、
    今、私たちの心は生き返るからです。
               1テサロニケ3:8

光テラス No.140

12月27日
 キャンドルサービスが行われました。今年はコロナ対策として2部制で完全入替としました。また、それぞれの礼拝が1時間未満になるように計画され、礼拝後の茶菓子を交えての団欒も控えることとなりました。

 当日に前に立って歌うことや、演技をすることはできない中で、教育部門から教会員の方々に協力を呼びかけ、主日礼拝後に映像紙芝居を作ることにしました。一言二言の人や、数ページにわたる人もいましたが、それぞれの個性が発揮されて豊かな紙芝居となりました。
 予め準備していたこともあり、司会者・奏楽者・説教者と受付係以外の出席者は席に着いたままで御言葉を聞き、賛美することができるようになりました。例年に比べると落ち着いた、大人の雰囲気のキャンドルサービスになったことでしょう。子どもたちは見て聞いているだけになってしまって、ちょっと物足りなかったのかもしれませんね。また思いっきり表現できるキャンドルサービスを迎えられたらいいなぁと感じています。

 華やかで楽しいクリスマスもよいですが、今年のように控えめで落ち着いたクリスマスもまた、キリストの誕生を味わうことができたひと時となりました。キリストと出会うために時間を割き、準備をして礼拝やキャンドルサービスに来られた一人一人の上に、主の恵みが豊かに与えられますように。

   「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか。
    私たちはその方の星が昇るのを見たので、礼拝するために来ました。」
                             マタイ2:2

光テラス No.139

12月20日
 クリスマス祈祷会が行われました。今年は2箇所に限定して行われました。時間が限られていたため、参加できない方もいることは反省ですが、コロナ禍であっても御言葉に学び、祈りをささげられた恵みは何ものにも変えられないものでした。
 神との関係はいつから始まっているのかと考えると、神様を知ったときと私たちは答えたくなりますが、神様の目線で考えてみると、私たちが生まれる前からきっと、私のことを知っていて関わりを持っていてくださったのではないかと想像します。

 親になって、子どもが生まれて来ようとしている時に感じたことがあります。それは、その子にいのちがあることです。当たり前のことで、親は当然そのことを知っていますが、子どもには自覚がありません。同じように私が生まれてくる前から私にいのちがあり、これからこの地で生きていくことを神様は当然知っていたことでしょう。
 それなのに、神様のことを知らずに生きてきた道のりを忘れて、あたかも神様と私が初めて出会ったかのように振舞うことはなんとおこがましいことでしょうか。

 子どもにとって親は初めからいた存在。疑うこともしないほど、当たり前の存在。同じように神も初めからいた存在。私たちが生まれる前からその存在を知って関係を持っていた存在。
 自分の父を疑わずに生きるように、神を疑わなくても、私に対する神の愛と導きによって、神が私たちの父であることを知るでしょう。

    初めにことばがあった。ことばは神とともにあった。
    ことばは神であった。
    この方は、初めに神とともにあった。
                   ヨハネ1:1-2