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光テラス No.138

12月13日
 最近、プログラミングに興味を持ち始めて、動画配信サービスを通じてプログラミング言語についての特徴や内容について学んでいます。パソコンやスマートフォンで扱うウェブサイトやアプリを作ることができれば、教会の活動や事務処理が効率化できると考えたからです。
 これまでに紙で処理してきた受付表や出席簿、毎回直接入力してどこかずれていないかと必死に確認してきた会計記録など、もっと安全に確実にできるだろうと予測しながらも、その手段を得ることができませんでした。

 そんな中、教団の青年部のイベントがありました。自分のためのこれまで学んできたプログラミングは一旦置いておいて、パソコンのアプリを用いたコミュニケーションを行いました。
 結果は大好評。役に立つ準備に加えて、楽しむ要素を盛り込めたことも功を奏しました。少しずつ勉強してきたものが日の目を見たことで、さらにやる気が出てきました。

 信仰生活もまた、勉強してきたことや大切にしてきたことが日の目を見ることができるなら、その人の信仰生活もさらに楽しく、充実すると思います。しかし、たとえ日の目を見る機会に恵まれていなくても、主の目は確かに注がれています。
 時には地味で目立たない働きでも、それが主のために用いられるなら、主はその働きの結果だけでなく、そこに取り組んでいた人の心さえも見抜いておられるでしょう。

    何をするにも、人に対してではなく、
    主に対してするように、心から行いなさい。
                コロサイ 3:23

光テラス No.137

12月6日
 オンラインを用いて宣教報告会が開催されました。参加者は教会に集い、宣教師や宣教委員の方々とオンラインでつながるというハイブリットな交わりが行われました。
 伝道所として歩んできた私たちの教会が宣教する教会へと変えられていくことは大きな喜びであり、成長です。独立を前に自分たちの教会は何のためにここにあるのか、その存在の目的を見ていくとき、宣教師の姿がとても印象に残ります。言葉も通じない地に神様の呼びかけに応えて飛び込み、何人かでも救われるために福音の種を蒔き、限られた生活環境の中で家族生活を整えていく姿に、信仰と使命が映し出されています。

 振り返ると、自分の信仰が映し出せるような生活をしてきたのかと問われれば、はっきりこれだと言える自信が出ていない自分がそこにいました。絶えず信仰と使命を磨かなければかすんでしまう危険性をも気づかされました。

 宣教師の誠実な歩みと謙虚な姿勢に加え、宣教への熱心さによって、先生を応援したいという願いから私たちも何かできることは何かとというアイディアへと前進させ、実際の計画へと発展させます。
 宣教の恵みは救われるたましいが起こされることです。それに加えて、宣教に励むたましいが起こされることもまた、大きな祝福です。

 クリスマスを控え、私自身が励まされ、燃やされた報告会でした。

    私が福音を宣べ伝えても、私の誇りにはなりません。
    そうせずにはいられないのです。
    福音を宣べ伝えないなら、私はわざわいです。
                   1コリント 9:16

光テラス No.136

11月29日
 教師試験もいよいよ大詰め。今月末の締め切りへ最終段階です。しかし、この時点でこのような話をしている私は、かなり厳しい状況です。というのも、短期決戦ではなかった試験の提出課題が思うように進まず、何度もつまずいてしまったからです。対策を練ったのは1年も前。試験に取り掛かり始めたのは半年以上前。それなのに、今日に至るまで追い込まれていたわけです。

 普段の物事への取り組み方が試験への取り組みにも現れているなと思いました。目の前のことに追われてだんだんと余裕が無くなり、焦って準備することがこれまでにも何度もありました。時には遅れを取り戻そうともしました。
 そのようなとき、何度も私の頭の中に巡る思いがありました。それは、「来年でもいいんじゃないか」という声です。確かに一度落ちても再チャレンジできる試験ではあります。たとえ今回落ちてもあきらめず再度チャレンジするでしょう。しかし、状況は少し違いました。

 課題を提出して通して落ちるのと提出期限に間に合わせられずに終わるのとは明らかに違うからです。ビジネスでは前者を力不足と言われ、後者を仕事しなかった人と言われることでしょう。
 神に仕えるために歩むなら、たとえその内容が至らなくても仕える事をしなかったということにならないように、最低限の勤めをしたいと願いながら、明日すなわち月末までやれるだけのことをします。

   「わたしは怖くなり、出て行って、あなた様の一タラントを
    地の中に隠しておきました。ご覧ください。これがあなた様の物です。」
   しかし主人は彼に答えた。
   「悪い。怠け者のしもべた。」
                           マタイ25:25-26

光テラス No.135

11月22日
 礼拝後に成人科として国外宣教報告の映像を視聴しました。これまで、私が参考となる文献や書物からまとめて、教材を作成してきましたが、今回初めて教会外部の映像をそのまま視聴するという形になりました。
 私自身が教師試験の終盤ということもあり、学びの準備に手が回らないという状況だったこともあり、申し訳ない気持ちになりましたが、映像を見た方には概ね好評でした。その理由は、これまでニュースレターに載せられた文字でしか伝わらなかった様子が、声を通して、動く表情を通して、活き活きと伝わってきたからでした。初めて聞く宣教師たちの声や、現地の様子を、簡潔に映像にまとめてくださっていたこともあり、充実した時間となりました。

 情報が与える方法と影響の関係についての研究で、メラビアンの法則と呼ばれるものがあります。それは、発信者からの情報は視覚情報が55%、聴覚情報が33%、そして言語情報が7%という割合で相手に伝わるというものです。今回は映像を通して100%の情報が伝えられたことで、見ている人にとっても満足できるものだったといえるでしょう。
 聖書に登場している一人一人は神やキリストとの交わりを通して、100%の情報を味わっていました。一方で私たちは7%しか伝えられていないとするならば、残りの93%を知るために、祈り、交わり、仕えていくことで神とのコミュニケーションを深め、知っていくことになるでしょう。

    もし人が手探りで求めることがあれば、
    神を見出すこともあるでしょう。  
            使徒の働き17:27

光テラス No.134

11月15日
 私が試験課題に取り組む中、子ども世話を一手に引き受けた妻からぽろっと出た弱音に対して「がんばるしかないね」と答えたことで、傷つけてしまいました。思えばこれまで何度も、弱音には労いと共感を、と言われてはいたものの、気持ちの余裕のなさからまたも不用意な声かけをしてしまいました。

 その一方で、私も納得できない部分がありました。それは私がどんなに休んだところで、課題は進まず、期限だけが迫ってくるため、何の解決にもならないどころか、事態がさらに悪くなってしまうからです。気合の入れ時の今、一息つけない状況が、まるで自分自身にがんばるしかないという言葉をかけているように妻に言っていました。
しかし子育てという期限のない、抱え切れないほど大きな課題は、妻にとっても私にとっても頑張りきれないものです。共感は気合を入れるにはあまり効果はないですが、完璧にできないことを認め、それでも前に向かって息切れを起こさずに進むために必要な力となります。

 信仰生活もまた、試練という気合の入れ時とキリストのからだへと変えられていくための期限のない課題と向き合っていく道のりがあります。ギアの上げ下げによって信仰は変わりませんが、生活にとっては大切な知恵です。それが家族全員同じとは限りません。
 自分のペースを守りながら、相手のペースを見極めること。それは決して置いてけぼりではなく、抱えるものの違いだとを知りました。

    すべて疲れた人、重荷を負っている人はわたしのもとに来なさい。
    わたしがあなたがたを休ませてあげます。
    わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです。
                        マタイ11:28、30

光テラス No.133

11月8日
 今年度の活動の反省や恵みを共有し、来年度に向けての話し合いが行われました。コロナ禍にありながら、毎週の礼拝が教会堂で行うことができたのは本当に感謝なことでした。
 いよいよ来年、伝道所という立場から独立をしようと計画していた年になります。そこで改めて、なぜ独立をしたいのかということを考える機会を持ちました。このような話を聞く機会はなかなかありません。だからこそ、この過程を実感して歩むことは難しさもあります。

 子どもが生まれる前から祈りながら待ち望んでいたわが子が成長していくと、少しずつ自分で物事を決めるようになります。親は子どもを管理する立場から世話をする立場に変わり、応援する立場へと変わっていきます。子どもが活き活きと歩みを進めることは親にとっても嬉しいことですが、大人になるまでは親の庇護の下で歩んでいることに変わりはありません。たとえ親は直接子どもに手を出さなくても、心配をし、祈りながら見守っているでしょう。

 いつまでも親は子どもを子どもとして親心をもっている中で、大人になったその子が独り立ちするには、大きな決心が必要です。どんな困難があっても、人や環境のせいにせずにそれを受け入れ、立ち向かっていく覚悟がなければ、誰かに依存してしまうからです。

 私たちには誰よりも頼りになり、愛し、心配してくださる神がいてくださるので、この世の何にも依存せずに堂々と歩めるのです。教会もまた、神だけにより頼んでこの世の困難に立ち向かいましょう。

    私たちはみな、神の御子に対する信仰と知識において一つとなり、
    一人の成熟した大人となって、
    キリストの満ち満ちた身丈にまで達するのです。
                            エペソ4:13

光テラス No.132

11月1日
 和気町出身の精神科医師の歩みを記録した映画「精神0」を観てきました。もともと「精神」という映画のその後を追った続編映画ということでした。映画製作の上で脚本や打ち合わせはなく、ありのままを描いた映画ため、予定調和や流れというものはなく、映画の展開もぶつ切れではありました。
 映画の上映が終わると主人公の精神科医ご夫妻が舞台に登壇し、挨拶されました。その中で特に印象に残った言葉が「この映画は見ている皆さんの自由に解釈できるわけです」というものでした。

 確かに、聴衆に直接働きかけることのない観察映画にはわかりやすい感動は起こりにくく、映画を良く見る人でも消化不良に終わることがあります。しかしながらこの映画は間違いなく監督の意図をもって編集され、事実の中から選び出された場面がつなぎ合わされています。そのゆえに自由な中に生まれる共通項としての感想が現れてきます。視聴者の感想を尋ねたなら、きっと誰の口からも夫婦愛を感じたという言葉は聞かれるはずです。

 聖書は映画監督以上に確かな意図をもってつむぎ合わされた神の言葉です。そこには聖書記者を通して編集された、神の計画があり、神の働きの事実が積み重ねられています。何も知らされずに読んだ読者は多種多様な解釈ができてしまいますが、神が私たちを愛するがゆえにイエス・キリストを通してお救いになられたことは、確かに読者に届けられるでしょう。

    聖書はあなたに知恵を与えて、
    キリスト・イエスに対する信仰による救いを
    受けさせることができます。
                 2テモテ3:15

光テラス No.131

10月25日
 私の趣味の時間が帰ってきました。韓国在住時代に好きだったVリーグが韓国で始まりました。もちろん日本のVリーグも先週末から始まっているのですが、どちらも遠くて見に行くことができません。
 加えてこのコロナの影響で韓国のVリーグは初めの10日間ほどは無観客で行わなければなりません。チーム関係者たちは競技場に来れないファンや応援サポーターたちの声を届けようと、オンラインでつないで、競技場で戦っている選手たち横にある大型ビジョンにその姿を映し出すことになりました。すると海外にいる私も、そこに加わることができるようになりました。

 海外ですから、テレビを通してもインターネットを通しても試合を見ることができません。それでもこのオンライン応援を通して私がその雰囲気を少しでも共にすることができるようになったのです。
 試合を直接見ることはできなくても、そこにいる空気を感じることで、恵みのおすそ分けを受け取ることができました。それと同時に、「あぁ、そこにまた行きたい」と強く思うようになりました。

 この味わいはスポーツ観戦だけに留まることはありません。桜が丘の礼拝もまたオンラインで配信できるようにと準備を進めています。教会に来ることができない人が少しでもその雰囲気を味わうことができ、祈りや賛美を共にできるなら、それは大きな一歩です。そしてその恵みを受け取った人々が教会で礼拝をささげたいと思ったのなら、主がそこに働かれたという証ができることでしょう。

    弱い人には弱い者になりました。
    弱い人たちを獲得するためです。
    すべての人に、すべてのものとなりました。
    何とかして、何人かでも救うためです。  
                1コリント9:22

光テラス No.130

10月18日
 子どもをお風呂に入れていたとき、初めはただ、お湯を頭にかけて流していただけでしたが、ふとした瞬間に流れてくる水に手を伸ばしているのを見ました。
数日後、今度はシャワーや蛇口から流れ出る水に手を伸ばしていました。そして、また数日後、ベビーバスにお湯を足そうとして、風呂桶から流し込んでいると、滝のように流れ出る水を掴もうと手を握っていたのです。

「水は掴めないんだよなぁ~」と思いながら、微笑ましく眺めていたとき、この光景が信仰生活にも似ているなと感じました。

 恵みが絶え間なく降り注いでいるのに、掴み取ることはできません。愛だって受け取ることはできても、掴んで自分のものにはできません。掴めないけれど、そっと両手を添えて広げると、注がれてきたものが溜まっていきます。

 愛も恵みも掴み取るものではなく、受け取り、満たされるものです。掴もうとするなら、何も残りません。掴もうとした人が、「私には何も与えられなかった」と感想を述べるなら、それは間違ってはいませんが真実でもありません。
 ただ、受け取る器でありなさい。その器を整えることが信仰であるなら、私たちは安心して待っていることができます。注がれるものが器を外れることも、足りないことも、壊すこともないからです。

  このあわれみの器として、神は私たちを、
  ユダヤ人の中からだけでなく、
  異邦人の中からも召してくださったのです。
               ローマ 9:24
 

光テラス No.129

10月11日
 今年度の教団教師研修会も、オンラインでの開催となりました。昨年、子どもが生まれる前に家族で行ったことを思い出すと、先生方とお話し、直に話を聞けることができないことはとても残念でした。
しかし、それ以上に恵みも与えられました。それは、ともに学ぶ仲間が与えられたことです。これまで、教団が大切にしてきた教会運営や教会の糧となる御言葉の証、さらには宣教方法や課題の共有は教師が持ち帰って伝えるしかありませんでした。教師とはいえ、自分の興味関心によって吸収しやすいもの、しにくいもの、消化できていないものなどがあるため、自分の受けた恵みをお裾分けするに留まっていました。
オンラインだからこそ、教会で信徒ともに学ぶことができたのです。お裾分けではなく、その場で分かち合える恵みがあります。そして自分たちの教会の課題やビジョンについて、学びで得た内容を適用してともに考えることができるのです。

 国外宣教師たちの報告は生中継とはいきませんでしたが、宣教地の映像を通して、より身近に宣教の働きを知ることができました。コロナ禍にあり、国の事情で生活がさらに困難になっている人々へ助け手となり、試行錯誤しながら宣教に励む姿は、私たちのよい見本です。

 コロナ禍において変化した生活の中で、私たちは何を失い、何を守るかではなく、何を獲得し、どのように前向きに変化していくかに目を向けることを求められているのだと感じた研修会でした。

    そして、私のことばと私の宣教は、
    説得力のある知恵のことばによるものではなく、
    御霊と御力の現れによるものでした。
                   1コリント2:4