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光テラス No.128

10月4日
 ジョイフルホリデーでは、前半の礼拝の後、後半はゲームや工作などの活動の時間を準備しています。今月のテーマは「最後の晩餐と裏切り」、前月のミーティングの際に、活動の時間の構想を話し合います。そこでは、テーマを用いたカードゲームを作るというところまで決まり、月末の水曜日に準備会をもつこととして、宿題となりました。

 準備会の日、カードではなく、ガラス缶のふたを用いた、コミュニケーション型のゲームを提案しました。しかし役割やアイテムなどの説明が複雑で、準備会参加者よりもゲームの設定人数が多いこともあり、説明の段階で奉仕者の顔はすでにくもり始めてしまいました。一度混乱をすると、ゲームについていくことを難しく感じ、楽しむ時間が苦しみに変わってしまいます。人数も足りないため、結局ゲームを一度も行うこともできないまま、準備会は解散になりました。

 このままの状態でゲームを行うと、御言葉の思い出はただのつまらない思い出として残ってしまうと感じました。そのため作ったものの一部が使われなくなってしまうことを残念に思いながらも、思い切ってゲームの難易度を下げることにしました。当日、子どもたちとともに大人も交えて楽しく遊ぶことができました。

 活動を作るために構想を出し合うだけでなく、説明を聞いた奉仕者の正直な反応もまた大きなアイディアとあり、伝えるための準備としての大切な奉仕だと感じた瞬間でした。

    実に、私たちは神の作品であって、
    よい行いをするためにキリスト・イエスにあって造られたのです。
    神は、私たちが良い行いに歩むように、
    その良い行いをあらかじめ備えてくださいました。
                            エペソ2:10

光テラス No.127

9月27日
 北海道へ孫見せを兼ねて帰省しました。コロナ禍の移動を経ての礼拝出席が可能かどうか、予め神学校の同期入学の友人夫妻が牧会する、地元から近い同盟教団の教会へ連絡しました。すると、礼拝説教の話になり、主任牧師の承認後、引き受けることになりした。地元に近い教会で福音を語ることのできる恵みに感謝しました。

 さらにうれしい知らせが舞い込んで来ました。説教奉仕をする教会で仕えてきた宣教師ご夫妻が、私の地元に住んで、教会開拓の働きを始めるというのです。その土地は昔、礼拝堂だけ建てられたものの牧会者が与えられないまま、空き家になっていた場所でした。
 初めての他教会での説教奉仕を終えた次の日、娘の散歩を兼ねて実家から歩いて10分の開拓教会を見に行くことにしました。たまたま開拓準備に携わった親教会の方々もいらっしゃっていたこともあり、教会の中に入ってお話をすることとなりました。

 礼拝堂の中へ足を踏み入れ、中を覗いてみると、古い足踏みオルガンが置いてあるではありませんか!それは父が小学生の時から使われ続けてきた日曜学校のものだったのです。私の高校卒業とともに役目を終えていたと思っていたオルガンとの再会です。驚きつつ喜びをもって、そのオルガンを弾くと、調律された懐かしい響きを感じました。
 この地には福音が枯れたのではなく、宝のようにしばらくの間、隠されていたのだと確信した出会いでした。

    天の御国は畑に隠された宝のようなものです。
    その宝を見つけた人は、それをそのまま隠しておきます。
    そして喜びのあまり、行って、
    持っている物すべてを売り払い、その畑を買います。
                       マタイ13:44

光テラス No.126

9月13日
 補教師研修会がインターネットを通して4日間行われました。補教師になってから3回参加することができる研修会ですが、私にとっては最後の研修会となりました。

 正教師試験を受験することができ、次年度は正教師として教会の責任者になるかもしれない3年目の補教師たちに向けて、より実践的で・核心的な内容に迫る講義が多く与えられました。

 その一方で、先日の宣教区会議での経験から、インターネットを通して30人ほどの教師が画面を共有する中で、教師同士が思い思いに交わることは難しいことを知っていました。隙間の時間も講師の先生と研修会を企画する委員の先生方の打ち合わせの会話をただただ眺めているだけというのもしばしばありました。それでも、近況報告できればと思い、娘を連れて画面の前に座り、画面を眺めている人へ向けて、子どもが生まれ、成長している様子を伝えることにしました。

 すると、打ち合わせの会話を邪魔することはできないため、無音ではありますが、画面に映る数人の同期や後輩たちの顔が笑顔になっていく様子を見ることができました。
 言葉を直接かけることはできなくても、画面を通して、元気そうで良かったとか、子どもがかわいいとか、ぼんやりとでも表情から伝わってくる肯定的な反応を通して、私自身も交わりができたことを嬉しく感じました。言葉や音以外にも、思いを表現し、分かち合える方法があることを再発見した時間を人に伝えずにはいられなくなりました。

    主よ あなたは私を探り 知っておられます。
    あなたは私の座るのも立つのも知っておられ
    遠くから私の思いを読み取られます。
                詩篇139:1-2

光テラス No.125

9月6日
 教団の青年部のミーティングが午前・午後とありました。私自身は今年の4月からその働きに加わりましたが、コロナ禍にあってこれまで通りの活動ができず、イベントを通して青年たちに会うことは未だにできないでいます。それでも与えられた役割を全うしたいと思い、会議に参加しました。
 そこで考えさせられた内容が、「宣言する」とはどういうことか、です。聖書の原語であるギリシャ語を調べてみると、宣言と証は同じ単語で表されています。自分が信じているものがどのようなものか、自分がどのような義務や責任を負っているのか、そして自らの存在・立場がどのようなものかが語られています。宣言するほど大切にし、伝えいきたい大切なものがあると証することになります。
 同盟教団がこれまでの歩みを振り返ってみると、教団が宣教への情熱と方策としての協力を大切にしてきた歴史があります。宣教の使命を果たすことを義務として教団の改革を行い、宣教区という形で教会が連携して宣教に励み、全都道府県での教会開拓を目指し、アジア全域への宣教師の派遣を目標として取り組んでいます。責任を果たすという点では偶像礼拝と戦争協力という罪を犯した存在であることを認め、国家も教団も同じ過ちを犯さないために積極的に関心を持って発言しています。これらの義務と責任の中で今、青少年たちとともに何を宣言するのか考える機会が与えられたことで、私自身もまた、考える者とされました。

    みことばを宣べ伝えなさい。
    時がよくても悪くてもしっかりやりなさい。
    忍耐の限りを尽くし、絶えず教えながら、
    責め、戒め、また勧めなさい。
                  Ⅱテモテ4:2

光テラス No.124

8月30日
 朝顔に種が実り始めたので、収穫を始めました。全体的にはまだ多くの花が咲いていますが、初期に咲いたものを中心に実が膨らみ、乾いてきたので、ネットで収穫方法を調べ、試行錯誤しながら収穫を始めました。実際に種の部分を見てみると、確かに獲り頃の実はわかりやすく、たくさんとまではいきませんが、摘み取ることができました。

 ただ、摘むことよりも難しいのが、どの種が何色の花を咲かせるのかを分けることでした。根元から伸びた多くの蔓がネットに絡み、上へ上へと伸びていったこともあり、下にできた種が何色のものかを見るために、上へ上へとたどっていき、その先にある花の色を確認します。より巨大で、より複雑なアミダくじをたどっているかのようで、途中で絡み合った蔓がたどっていたものだったのか、それとも別のものなのかを何度も迷ってしまい、やり直すこととなりました。

 花が咲いていた頃はまったくの別物のように感じていましたが、花が枯れ、実がなるときには見分けがつかなくなってしまいます。そして実の中の種を獲ってしまうと、選別していない限り、どれも同じ「朝顔」の種にしか見えません。見分けられるときに、しっかり選り分けて(マーキングして)おかないと、別のものが混ざってしまい、結局違うものを残しておくことになってしまうのだと学びました。

    だから、収穫まで両方とも育つままにしておきなさい。
    収穫の時に、私は刈る者たちに、
    まず毒麦を集めて焼くために束にし、
    麦のほうを集めて私の倉に納めなさい、と言おう。
                       マタイ13:30

光テラス No.123

8月23日
 3月、4月から延期されていた宣教区会議が行われました。コロナの影響で先延ばしとなっていた会議ですが、移動できる方は集まり、難しい方はリモートで行う、ハイブリットの会議の形となりました。時間をできるだけ短縮し、会議の進行もスムーズに行われ、予定された時間よりも早く終えることができました。
 時間と効率を考えると、1日がかりで移動・会議・食事・会議・移動ということもある中で、移動も含めて4時間で終わる会議は本当に素晴らしいと言えるでしょう。その中で必要な事項が決められ、円滑に2020年後半の歩みを進められることは大切なことです。

 一方で信仰の交わりを考えると、交わりがほとんど持つことのできなかった宣教区会議となりました。特に出席していたとはいえ、リモートで参加されていた教会の先生や信徒の方々とは直接声をかけることもできないまま、帰ることになってしまいました。休憩や食事という隙間の時間に挨拶をしたり、近況を報告しあったり、議題についての意見や思いを語り合うような時間を取る余裕はありません。

 会議の持つ役割を「議事について審議し、決議を行う場」と定義するならば、それ以外に時間を割くことは時にムダとなり、負担となることもありますが、「離れていた者が顔を合わせ、喜びをもって交わり、憩いを得、励まし合う場」とするならば、会議の場に呼び集められた者たちはまさに教会の姿であり、信仰の交わりだと感じました。
 どちらも大切な時間、教会もまた、礼拝と交わりの場を大切にしたいと思いました。

    私たちの主の恵みは、
    キリスト・イエスにある信仰と愛とともに満ちあふれました。
                         1テモテ1:14

光テラス No.122

8月16日
 娘がつかまり立ちをし始めました。しっかりと立つことができないため、つかまって歩くのにはまだ時間がかかりそうです。
 初めて私が物につかまって立とうとした様子を目撃したのは、一緒にお風呂に入った時のことでした。ベビーバスに入っていた娘にゾウさんの形をしたジョウロで遊んだ後、大人用の湯船の端にそのジョウロを置きました。たくさん遊び、お風呂を出る前に娘の体を流そうと私は桶に手を伸ばした。

 すると娘はまだ遊びたかったのか、ベビーバスの端に手をついて、体を押し上げようとしていたのです。そして胸のあたりがベビーバスの端まで上がってくると、今度は手を湯船の端まで伸ばし、両手で湯船の端をしっかりとつかみ、立ち上がりました。
 思わず「立ったよ、立ったよ!」と湯上りを待っている妻を呼び、初めて娘が立ち上がる姿を見ることができました。その間も娘はなかなか手の届かないジョウロに一生懸命手を伸ばしていました。

 ジョウロを取ってあげて渡すと、何事もなかったかのように、娘はベビーバスに浸かり、再び遊び始めました。私はこの様子を見ながら、娘の執念と力の成長を感じていました。
 娘にとっては立ち上がることが目的ではありませんでした。目的はその先にありました。だから立ち上がることに感動も固執もしません。成長は目的を達成するために必要な過程だったのです。

    そして、子どもの手を取って言われた。
    「タリタ、クム。」 訳すと、
    「少女よ、あなたに言う。起きなさい」
    という意味である。
                マルコ5:41

光テラス No.121

8月9日
 教会に設置してあるグリーンカーテンの朝顔が満開を迎えています。ネットいっぱいに広がる色とりどりの朝顔を見ると、とても元気が湧いてきます。青っぽい花や赤っぽい花、大きい花や小さい花など、一つのプランターからこれほどの花が咲くとは想像していませんでした。
 譲ってくださった方に話を聞くと、多様な色の花を咲かせるために前年の種と分類して保管しているとのこと。できるだけ花の大小も見分けて、大きい花の種を保管するようにしるしをつけておくそうです。

 私はこれまで、咲かせた花はそれで終わりか、自然に枯れていくのを見ているだけでした。それが、花を見るだけでなく、種を取って次の年のために大切にしまっておく楽しみもあるのだと気づきました。今年はこんな色や大きさの花、来年はより大きい花をと考えて種を選別するとしたら、そのドキドキも1年間お預けとなり、翌年の花を見てさらに感動が重なることでしょう。しかし、花が咲いてから種ができるまで1ヶ月半ほどかかるようなので、花が枯れたれも片付けられないため、景色の見栄えには課題が残りそうです。

 人生の収穫も華の時期を過ぎてから収穫までに時間がかかります。花の時期を過ぎてもう一度咲かせようとするよりも、新たな花が咲くことを期待しながら、種が熟成されるまで、焦らず温かく見守り楽しみを満喫できるような老後の生活を営みたいと感じました。
 種が実るまでは、地味ではありますが、引き続き必要な水を与えながら、今度は実の成長を楽しみたいと思います。

    その人は流れのほとりに植えられた木。
    時が来ると実を結び 
    その葉は枯れず
    そのなすことはすべて栄える        
                 詩篇 1:3

光テラス No.120

8月2日
 ついに教会のある赤磐市の在住者にもコロナウィルス感染者が発生し、普段よりも緊張感をもって礼拝が行われました。これまでは全国各地の感染や第二波の報道を見ても、ここはまだ大丈夫という気持ちも幾分かありましたが、気を引き締めて、礼拝に臨みました。
 礼拝後、挨拶をしながらも足早に帰路に向かう出席者を見ながら、礼拝を守る責任を感じながらも、礼拝を守ろうとしている方々に励まされました。様々な人が手を伸ばしやすいコーヒーコーナーも片付けられ、教会で感染者が出ないように最大限、気を遣っていることも見受けられました。
 教会で礼拝を行えるように対策する人もいれば、ネットで礼拝をささげる決断をした方もいらっしゃいました。教会はできる限りの対策を練って、礼拝堂とインターネットの環境を整えたいと思います。

 しかし私にとって、礼拝を守る責任は単なる環境を提供する責任で収まりません。礼拝にとって要である説教の奉仕があるからです。このような時期だからというわけではありません。日曜日の礼拝の度に、説教は語られます。これまでは時間を分母にして、どれだけ時間を割けるかを考えていました。それが、この礼拝後にはどれだけのリスクを賭けて説教を語るかということを問われていると感じました。
 説教や信仰についても危機管理と緊張感が欠けてしまうと、危機が訪れた時に、倒れて離れてしまうことになりかねません。その緊張感を先に味わったときに、信仰も訓練されるのだと気づきました。

    主の使いは 主を恐れる者の周りに陣を張り
    彼らを助け出される。
                  詩篇 34:7

光テラス No.119

7月26日
 平日の夜に久しぶりに家族会議が開かれました。今回は、礼拝の説教準備のための時間を取り分けるための作戦会議です。私自身が家事や育児に積極的な一方、私だけに特別に委ねられている奉仕である説教は教会教職者にとって最も大切な時間です。しかし、子どもの面倒を見ながら行うのはとても難しく、気がついたらもう夕食の時間ということもしばしばあります。

 そこで、妻に意見を求めました。すると、「金曜日の午前中に終わらせること」という意見が出ました。教職者であれば、これがかなり難しい課題であるかを共感するかもしれません。しかし、自分の意思だけでは甘えが出、言い訳をしてしまうことを恐れた私は、「金曜日の10時に妻の前で説教原稿を読めるようにします。」と宣言しました。

 ちょうどこの議題の直前に、妻の協力によって9時から18時は育児の時間を極力0にし、18時以降は基本的に家族奉仕というルールを設けながら、公私の境界線をつけようということになりました。そのため、実質的には木曜日に終わらせるような状況です。

 このプレッシャーと自己発言による責任によって、これまで以上に効率的な時間配分を考え、集中して取り組むことができました。結果的にはすべてを時間内に原稿に仕上げることはできませんでしたが、これから限りなく訪れる主日礼拝に向けて、良い労働のモデルとなり、子どもと一緒に礼拝する難しさを感じる妻にとっても御言葉に触れる尊い機会となったことを感謝しました。

    なぜなら、この奉仕の務めは、
    聖徒たちの欠乏を満たすだけではなく、
    神に対する多くの感謝を通して
    ますます豊かになるからです。
             2コリント 9:12