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光テラス No.118

7月19日
 用事のあった妻を岡山市内に送り、娘を乗せて帰りに食材を買い、車を走らせていたときのことです。スーパーで会計を済ませたあたりから娘がぐずり始め、時間的にも眠たいのかなと思い、車に乗せてそのまま帰ることにしました。

 すると10分ほどしたところで、大泣きが始まったのです。寝れないがそんなに辛いのかなと考えた私は一旦コンビニの駐車場に寄り、後部座席に移り、あやしてみました。しかし娘の気分はよくなるどころかどんどん泣き声のボリュームが大きくなっていくばかりでした。
 どうやら眠気に加え、お腹も空いてきたようです。しかし次のミルクの時間から30分以上も早く、予定時刻までには十分に家に戻れると考えていた私はミルクの準備をしていませんでした。

 急いで帰ろうと思ったのも束の間、今度は滝のような大雨が襲ってきました。裏道でスムーズにと思っていましたが、視界が悪く、思うように進みません。焦りながらもなかなか進まない状況に私のストレスもピークを迎えようとしていました。

 なんとか家にたどり着き、急いで階段を駆け上がり、ミルクを準備して娘の口に哺乳瓶を近づけると勢いよく飲み始め、飲み終わるか終わらないかのうちにコロっと眠り始めたのでした。しばらくして目覚めた娘におはようと声をかけました。すると、まるで何事も無かったかのような屈託のない笑顔を私に見せてくれました。その笑顔を見たとき、私は娘に「ごめんね、ありがとう」と声をかけました。

    わたし、このわたしは、わたし自身のために
    あなたの背きの罪をぬぐい去り、
    もうあなたの罪を思い出さない。
                 イザヤ43:25

光テラス No.117

7月12日
 キリスト教の異端・カルトグループについてのニュースを耳にしました。これまでの教会の教えでは救われないと否定し、これこそが真の救いであると異なる教えを伝えていく異端は、救われない不安を煽り、解決方法はこの教団の教えを受け入れるしかないと提案します。
 これらの教団のほとんどが、意思決定を委ねることのできる特別な存在を提案します。この人の教えに従えば大丈夫、この人こそ救世主だと語るのです。救われない不安に感じていた人はこの存在を信じることでほっと一安心します。「あぁ、これでもう大丈夫だ」と。

 しかし、その試練は救われたと感じた後にやってきます。なんだか、信じても落ち着かない、集まりの方向性に違和感を覚えても、そのときには断れない雰囲気が生まれてしまっているかもしれません。この人に逆らうと、この教えに逆らうと、この集まりの方針に逆らうと、と考えて相談をしようにも、今度は自分が滅ぼされてしまうという恐怖心が生まれてしまうのです。そして異を唱える勇気も出ず、結果的に逃げ出すこともできないまま、苦しんでいくという形です。

 信仰生活にヒーローはいません。ヒーローとは人々の代わりに敵と勇敢に戦い、勝利した人が人々にそう呼ばれているだけです。私たちは日々の罪との戦いをキリストに丸投げできるわけではありません。キリストによって力を与えられた者が罪へと誘うサタンと戦うのです。

 終わりの日まで戦いは続きます。今日もまた、キリストの砦に引き返し、立ち向かう力を得ます。私から出る力では適わないですから。

    主にあって、その大能の力によって強められなさい。
    悪魔の策略に対して堅く立つことができるように、
    神のすべての武具を身に着けなさい。  
                   エペソ6:10-11

光テラス No.116

7月5日
 正試験のための推薦を依頼するために、ある牧師を訪ねたとき、少しお話をする時間を設けてくださりました。
 最近の教会の状況から、子育てのこと、そして正教師試験の大変さなどを語ってくださいました。そしてこのように仰ったのです。

「力になりたいよ。子守だって手伝うから、いつでも来なよ。」

 家庭も仕事も両立して臨むのが本来の教師のあるべき姿だと考えていながらも、だんだんと体や精神が思いに追いついていないことを自覚し始めても、どうすればよいのか、何をしたらよいのかを考えているうちに時間だけが過ぎていってしまうことも多々ありました。
 そのような状況の中で、かつて同じ試練に望んだことのある先輩の牧師が助け手として名乗りを上げてくださったことに、私は感動し、少しだけ、心に抱えていた荷を降ろすことができました。

 数日後、礼拝の準備がなかなか進まない中、妻が私に声を掛けてくれました。

 「私も頑張るから一度息抜きして、準備してね。」

 私は自分の力で妻も子も支えようとしていたことに気がつきました。本当は、家庭も私も支えていたのは妻だったのだと思い、自分の高慢さを垣間見ることになりつつも、感謝の気持ちが湧いてきました。

 苦しみに気づかないまま自分を追い込んでしまう私にとって、応援してくださる人々の言葉と態度がどれほど霊的な力を与えてくださるのかと感じた経験でした。私もみなさんにとっての信仰と人生の応援者でありたいと思います。

    互いの重荷を負い合いなさい。
    そうすれば、キリストの律法を成就することになります。
                         ガラテヤ6:2

光テラス No.115

6月28日
 夕方、家族で買い物に出かけた時、中途半端な時間になり、娘のミルクやお風呂の時間との兼ね合いで、外食をすることにしました。せっかくなので以前から一度行けたらいいなと思っていたお店が近くにあったので、妻を説得して行くことになりました。

 お店に入ると、オススメのメニューを選び、しばらく待っていると、運ばれてきました。味が濃くて辛いなと思いながらも、お店の特徴だから、そんなものだと思って食べ続ける私の向かいで、箸の進まない妻の姿が見えました。

「厳しい?」
「うん。しょっぱ過ぎて」
「無理して食べないで。」
「うん、ごめん。」

 結局、妻が残した物を私が食べることにしましたが、味が濃いものを人の分まで無理してお腹に詰め込んだことで、その後私もお腹の調子を崩してしまいました。
 店を出るとき、私は申し訳なさでいっぱいになりました。半ば強引に妻と子どもを連れて行ってみたにも関わらず、口に合わず、食べたい量も食べれない状況で帰りの時間まで遅くなってしまいました。

 振り返ってみると、しょっぱい味付けも去ることながら、自分の思いを満たすために家族を巻き込んでしまった負い目によって私は家に帰っても消化不良を起こした状態でした。そして、改めて肝に銘じました。私の望みではなく、家族に最も良いものを選び取ることが私の役割であることを。

    すると、イエスは答えられた。
    「あなたがたが、あの人たちに食べる物をあげなさい。」
                        マルコ6:37

光テラス No.114

6月21日
 今年5月の終わりに予定されていたにもかかわらず、中止となってしまった東京基督教大学(TCU)学園デーですが、継続してTCUの働きを支える支援会のミーティングがインターネットを通して行われました。そこで、岡山地区の近況とTCUの将来の展望や要望について情報を共有しました。

 日本各地の支援地区の中でも岡山地区は多くの方々がTCUに支援をしてくださり、大学に訪れたことのない方々でも大切に考えて支えてくださっています。その理由や要因を探っていくと一つの大きな境目が見えてきたのです。すなわち、どれくらいの頻度で意識をするかということです。念に1度だけ、イベントや行事に開催し、そのときに参加できた人だけが話を聞き、知ることになるというのが多いかもしれません。しかし毎月祈りや交わりの際に加えている人は、一度だけ話を聞く人よりも情報や様子を耳にし、意識する頻度も多く、たとえ行ったことがなく関わりを持ってこなかった大学であっても、より親しみを覚えるのは当然と言えるでしょう。

 神との交わりも同じように、どれだけ祈っているか、意識しているかによってその距離感や親しみも変わってくるでしょう。喜びや苦しみだけでなく、楽しみや悲しみも祈りを通して共有してくなら、直接会ったことのない神にだって親しみを覚えるのは当然です。支援の輪は交わりの輪、そして祈りの輪であることを、ミーティングを通して再認識した機会となりました。

    また、神のみこころにより、喜びをもってあなたがたのところに行き、
    あなたがとともに、憩いを得ることができるように、祈ってください。  
                              ローマ15:32

光テラス No.113

6月14日
 プランターのお休みした部分を学びたいという声を受けて、復習していたときに、「神と出会う」ということがわからないという意見があがりました。この意見は私たちを「出会う」ということはどんなものかを考えるきっかけとなりました。

 出会いとはお互いを認知して、関係を持ち始めることです。片方だけが「あっ!」と気づいても、そこで素通りしてしまえば、出会ったことにはなりません。会社の入り口で「おはようございます」と毎日のように声をかけても、特定の相手を意識していなければ、会って関係はもっていても、認知しているとはいえません。

 神はいると思っていて、神が何かしら働きかけたり、導いたりしているような気がすると言われ、続けて「でも神と出会ったのはわからない、いつ出会うのか」と尋ねられた私は、「もう出会っていませんか。いや、出会っているのを認めたくないのかもしれません。」と答えました。

 神を認知して、神の働きかけを感じているということは、すでに関係を持っていて、もう出会っているのです。でも神だからこそ、ドラマチックな出会いをしたいと思うんです。「私は神とこのように出会ったんです!」と堂々とみんなの前で言いたいという願いがあります。

 でも実際は違います。神は初めから私たちのそばにともにいてくださっていたのですから、出会いがドラマチックなのではありません。そこにあるのは劇的な気づきです。神はいなかったのでも、会っていなかったのでもありません。でもその気づきことが私たちに委ねられたからこそ、私たちは神との出会いが感動的なものになるでしょう。

あなたはわたしを見たから信じたのですか。
見ないで信じる人たちは幸いです。   
                 ヨハネ20:29

光テラス No.112

6月7日
 韓国語聖書クラス(KBS)が曜日を変えて再開されました。赤ちゃん二人を休ませつつ、お母さん同士の交わりもありつつ、楽しいひと時となりました。私自身は宣教師という立場で、韓国の教会の日本語礼拝部で1年間奉仕しましたが、教会で韓国語を学ぶ機会はなく、市営の語学センターや大学の公開講座で少し学ぶだけでした。
 それが教会で一から学べる、しかも日本語で説明をしてくれるという恵まれた環境が与えられているのです。

 そうは言うものの、講師は妻なので、今までいくらでも学べたともいえますが、身内のため、特に夫婦で言語を教えあうのはとても恥ずかしいものがあります。正しい表現や言葉遣いをという思いから間違いを指摘すると夫婦喧嘩の火種に発展しかねません。そのリスクを背負うよりは、話せる言葉で話したほうが平和は近いでしょう。

 しかし、第三者に教えるなら話は別です。当日は私のほかに3人の方々が学びに来て、私も子守ついでに話を聞きながら、文字や発音を習うことができました。習ったことがあっても、大切なことを再度知ることや学びの場があることに喜びがあったのです。

 聖書の学びも同じです。知っている聖書箇所であるはずなのに、新鮮に感じることや、初めて聞く箇所なのに親しみを感じるものもあります。なにより、学びを通して、みことばを信頼する思いだけでなく、信仰を話し合う仲間が与えられている喜びがあるのです。
 学びの尊さは内容に加え、ともに学ぶ交わりにもあるのです。

    するとその人は、
    「導いてくれる人がいなければ、どうして分かるでしょうか。」
    と答えた。そして馬車に乗って一緒に座るよう、ピリポに頼んだ。
                            使徒 8:31

光テラス No.111

5月31日
 急遽外部奉仕をすることになり、説教を準備することになりました。奉仕先は私が洗礼を受けた国外の教会です。現在は牧師がおらず、コロナで国を越えての移動も封鎖になり、奉仕に来ることもできない状況です。4月に入るとさらに状況は悪化し、現地でも緊急事態宣言が発令され、会堂での礼拝も困難になりました。

 このような事情が、かつて教会に通い、日本に帰国した人たちに伝えられ、インターネットを通して行われる動画礼拝の説教者を打診していたそうです。そのような流れの中で、私にも声がかかりました。
 打診から礼拝まで、たった2週間しかないため、会議で承認を得るには間に合いません。主任牧師に相談し、了解をいただき、引き受けることになりました。教会の礼拝に現在どのような方が来られているのか、何を考えているのかも想像しきれない中で、祈りながら与えられた聖書の御言葉を読み返すたびに私の心は揺れ動きました。

 昔、私が通った教会において受けた恵みの一番大きなものは神を信じる信仰でした。そこで洗礼も受け、神学生として奉仕をしながらも、礼拝説教はおろか、洗礼に至った証をすることもありませんでした。しかしこの危機を通して、私が証をし、奉仕することができるようになりました。キリストが示された福音を弟子たちが証する者になっていったように、私もまた、福音を証する者へと変えられ、与る者から与える者へ養われてきた感謝と感動をその教会への初めての私の証として伝えることにしました。

 この時間、映像を見ながら、ともに礼拝していることでしょう。

    聖霊があなた方の上に臨むとき、あなたがたは力を得ます。
    地の果てまで、わたしの証人となります。 
                          使徒 1:8

光テラス No.110

5月24日
 プランターの学びも出エジプト記へと移り、新しい形で学びを進めています。何よりもまず、学びで盛り上がりすぎて、祈りの時間が遅れてしまっていたことを改善し、きちんとその時間と心を守ることが課題となっていたので、初めに祈りの時間を持つことにしました。
 小グループで分かち合った後、祈るのは、最初は戸惑うものですが、回を重ねるごとに少しずつ慣れていけたらいいなと願っています。
 その後、日曜日のメッセージの振り返りをし、プリントを使って学びを行っています。ローマ書の学びの時には聖書箇所を読んで解説をして、そして問いに答えるというものでしたが、今度は課題を進めていくために聖書を読んでいき、まとめていくと気づきが与えられるという形に変わりました。テストのように感じてしまうかもしれませんが、間違いを笑う人も責める人もいません。さらに前回は覚えているかではなく、「調べましょう」ということで、問いでもなくなりました。

 聖書箇所を何気なく読むのではなく、問題意識をもって調べるように読むからこそ気づくことがあります。その気づきを全体で共有することにしました。私が想定した通りの答えもあれば、ちょっと違うタイプの答えや、予想を上回る表現をする答えもあります。どの答えも間違いはありません。その答えこそ聖書からの恵みだからです。恵みの共有は証であり、信仰の交わりです。
 人による説得ではなく、みことばによる納得の学びを与えられた人の顔はなんと明るいのでしょう。

    この町のユダヤ人は、非常に熱心にみことばを受け入れ、
    はたしてそのとおりかどうか、毎日聖書を調べた。
    それで彼らのうちの多くの人たちが信じた。
                    使徒 17:11-12

光テラス No.109

5月17日
 娘と同時期に生まれた子どもを連れて教会に来てくださった方とともに初めてのママ会が開かれました。自粛期間中、外へ出歩くことも控えていたこともあり、子ども同士が会うことも2ヶ月以上ありませんでした。子育ての様子を話したり、身体を見比べながら、こんなこともあるあんなこともあると分かち合ったりしているお母さん同士の顔はとても明るく見えました。
 普段は子ども表情に一喜一憂し、泣き止まない子どもと一緒に泣き、思い通りに育児ができない悩みを抱えながら一日一日を必死で過ごしている気持ちを理解し共有できる人がいることがどれほど平安なのかが分かるひと時でした。

 また、2ヶ月前に子ども同士が会ってはいましたが、その頃はまだ自分と他者の認識も薄かったこともあり、今回初めて自分じゃない子どもを認識する機会となりました。家の中では自分の泣き声が響き渡りますが、他の子の泣き声を聞くことは初めての経験となりました。
 一人が泣くともう一人もつられて泣く一方で、親たちには笑みがこぼれました。別れ際、帰り支度を済ませた親同士が「またね」と声をかける中、子ども同士も挨拶をと、抱きかかえられながら、互いの手を伸ばし、お互いの手を触ったとき、どちらの顔にもとても不思議そうな表情がありました。

 初めての友達、初めてのママ会。一人では得られない様々な感覚や経験を友達と関わることで経験できることは、神様からの愛を受け取る、大切な手段なのだと感じました。

    喜んでいる者たちとともに喜び、
    泣いている者たちとともに泣きなさい。
              ローマ 12:15