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光テラス No.108

5月10日
 高校時代の友人とインターネットを通して久しぶりに話をしました。親も同級生で子どもも同い年で生まれた日も10日しか違わないこともあり、互いの顔を見ながら、子育てや子どもの成長についていろいろと話ができました。
 コロナ禍(か)の影響もあり外になかなか出られずに育児をすることや、子どもや親自身が病気のときの気持ちを共有することは、同じ状況の人となかなか分かち合うことができないこともあり、とてもホッとする時間となりました。

 その日の夜、今度は教団の活動についてのミーティングがネット会議で行われました。今年度から加わった活動のため、いろいろと教えてもらいながら今後何ができるかを話し合うことができました。
 牧会の状況や先生方の私生活も含めて会話ができていたこともあり、家庭と牧会のバランスや礼拝に来ることのできない方々への援助の様子を聞きながら、同じ状況に立ち向かう先輩方の姿に励まされました。

 そして、今週の礼拝を受信するためのアプリを導入しようと来られた信徒に向けて設定し、テスト配信していたときに別の信徒が配信に加わり、みんなで話ができました。そのとき、顔を見ながら会話する全員に笑顔がこぼれました。
 神と交わり、仕えるために力が与えられ、人と人とが励ましあいながらその力を用いたり借りたりすることは、人間として造られた大切な目的を果たすものだと感じました。

    ですから、だれでもこれら(不義)のことから離れて
    自分自身をきよめるなら、
    その人は尊いことに用いられる器となります。
    すなわち、聖なるものとされ、主人にとって役に立つもの、
    あらゆるよい働きに備えられたものとなるのです。
                       2テモテ 2:21

光テラス No.107

5月3日

 日常の娘の世話について夫婦で話し合う時を持ちました。育児と家事と仕事のバランスが崩れていた私と育児と家事だけでもハードな生活だった妻。娘が夜中大泣きし、何時間も眠れない夜を1週間ほど過ごした影響で、二人とも心身ともに疲れ切ってしまいました。
 疲れからイライラが溜まり、感情のコントロールが難しくなっていると妻は私に話しました。また、私も家事と育児で疲れてしまい、仕事に手が回らなくなっている状況を抜け出せないまま、何週間も過ごしていることを伝えました。

 「あれほど待ち望んで預かったいのちなのに」
と思いながら、
 「この子がいなければもっと楽になるのに」
と考えてしまうほど、実は自分は弱かったのだと知りました。

 そんな私たちに神が娘のいのちを預けた意味と目的を考えながら、話し合いを続けていたときに、次のような答えにたどり着いたのです。

   『自分の家族を守るため、自分の弱さを認め、
    主導権を相手に渡し、相手に指導される覚悟を持ちなさい』

 この言葉は育児だけでなく、信仰についても同じでした。父親として過ごしてきたたった2ヶ月の歩みや、教師として歩んだ2年の経験に固執し、弱さを隠して進もうとしては何も実りません。私に求められていたものは、自らの弱さに敗北したと明らかにし、身近な人から学ぶことがどれほど多いのかを悟ることだったのです。

    あなたがたの従順は皆の耳に届いています。
    ですから、私はあなたがたのことを喜んでいますが、
    なお私が願うのは、あなたがたが善にはさとく、
    悪にはうとくあることです。
                    ローマ 16:19

光テラス No.106

4月26日
 正教師試験の課題が公示されたので、必要な情報をプリントして確認しました。課題の提出までは約7ヶ月ですが、教会の活動の合間を縫って取り組むことになるため、どのようにスケジュールを組み立てていくかを考えようと思ったからです。

 昨年度から試験内容が変更され、昨年の受験者たちはどのような形で提出すればよいか見本がない中で模索しながら取り組んでいました。そして実施した感想や評価を行う中で、今年度は予め回答形式の見本を提示して、その形式に則って提出する旨が示されていました。

 そして必要書類の中にその見本があり、目を通して見ると、今まで自分が行っていた説教準備の形式と異なる部分や事柄か、具体的に記されていました。読みながら私は、「なるほど、こういう整理の仕方があるのかぁ。」「このようにまとめていけばよいのか」と多くの発見をしました。数学の証明問題の回答と解説を見ているかのような、頭の良い友達のノートを見せてもらったときのような感動でした。

 『見て聞いて、今度は自分が試行錯誤し、その結果仕組みが分かり、自分も人に伝えられるようになる』ことは学ぶことの基本的な目標です。イエス・キリストも弟子たちに見せて聞かせて学ばせた偉大な教師です。その弟子たちが今度は各地に宣教に行き、人々に伝え、教会を建て上げ、新たな弟子を生んだのだと思いました。自分もまた、そのような弟子になりたいと決意し、感謝しました。

    わたしは心が柔和でへりくだっているから、
    あなたがもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。
    そうすれば、たましいに安らぎを得ます。
                         マタイ11:29

光テラス No.105

4月19日
 娘の予防接種に行ってきました。注射で暴れたりしないように体を抑える必要もあるということで、私も同行しました。
 私自身は小さい頃から注射や薬に慣れていた記憶があり、きっと娘も強いかもしれないと思いながら、妻も一緒に診察室に入りました。
 予防接種の日程の確認の後、すぐに注射を取り、小さな腕に針が刺さりました。
数秒間の出来事でしたが、驚いた娘は案の定、大泣きでした。医師が娘に
 「終わりましたよ~」
と語りかけた声を聞き、泣いている娘に、
 「痛かったの~。でももう終わったよ~。」
と声をかけました。するとすぐにキリっとして落ち着きを取り戻しました。
その間たったの10秒。強いなぁと感心して妻の方を振り返りました。

 そこには、娘よりも痛そうな顔をした妻がいました。
 「あの、終わったよ、注射。」
と冷静に声をかけると、
 「え、あ、はい。」
と申し訳なさそうな顔で答えていました。
2~30分ほど様子を見て異常がなかったので、安心して家に帰りました。

 その夜、病院の様子を振り返って
「どうだった?」
と聞くと、
「私、注射怖くてダメなんだよね。」
そう答えた後、
「でも、あのお医者さんが注射の後に娘に使っていたうちわの柄があのアイドルグループのものだったね。」
と続けたのです。目の前にいた私には娘の表情は鮮明に覚えていましたが、うちわを使っていたことさえ覚えていませんでした。
しかし妻には注射は見れなくても、うちわのことははっきりと覚えていることに、驚いたのでした。

    彼女はこう言ってから、うしろを振り向いた。
    そして、イエスが立っておられるのを見たが、
    それがイエスであることが分からなかった。
                 ヨハネ20:14

光テラス No.104

4月12日
 生後100日を過ぎた子どもを連れて記念写真を撮りに行きました。このために私たちの両親から赤ちゃん用の着物とチマチョゴリを用意していただいたこともあり、親孝行を兼ねたものとなりました。

 韓国で生後50日を撮影していたり、離れていたときにビデオチャットで話していたこともあったため、カメラ目線は得意だろうと思っていましたが、実際は簡単にはいきません。日常とはまったく違う雰囲気に戸惑ったり、興味を示したり、泣いたりして、なかなかカメラに目線を送ることができません。
 そんな時、カメラマンの方はカメラのレンズの前に立ち、タンバリンなどの鳴り物で気を引いて、顔と目線が向いた一瞬に身をよけてシャッターを切ります。サポートで入っているスタッフもその一瞬に至る直前まで、体を支え、撫でたり、首の向きを変えたり、機嫌を取ろうと働きます。そして出来上がった写真には笑顔の娘が写っています。

 たった一人の一瞬を切り出すために多くの人々が支え働く姿は、写真には写っていませんが、私の目の中には確かに映っています。

 聖書の中には大きな出来事が描かれています。歩みや働きが目立つ人々が幾人も記されています。しかし、そこに至るまでに、周りの人々が支え、文字で表しきれない働きもまた数え切れないほどあったことでしょう。聖書記者たちの目には、スタジオのカメラマンやスタッフのように仕える弟子たちの姿が映っていたことでしょう。

 表立たず仕える人々の尊さは誰にも何にも劣ることがありません。

    人の子も、仕えられるためではなく仕えるために、
    また多くの人のための贖いの代価として、
    自分のいのちを与えるためにきたのです。
                   マルコ10:45

光テラス No.103

4月5日
 携帯電話のSNSにしばらくぶりに連絡が届きました。その内容は会いませんかというもので、私は快く引き受けました。しばらくぶりで嬉しさのあまり、こちらからの話がこぼれてしまうので、その場を妻に委ね、私は晩御飯の準備をして心を落ち着かせることにしました。
 食事もひと段落し、楽しい話もしながらではありましたが、なぜ連絡を取ったのかという「本題」に触れていなかったので、聞いてみました。すると、このような答えが返ってきたんです。

 「洗礼を受けようと決めたんです。」

 私は思わず立ち上がりたくなるほどの喜びが湧き上がってきていました。福音の訪れを感じないわけにいきませんでした。洗礼に導くのは牧師(牧会者)の務めとも言われるかもしれませんが、この一言について私は何も関与していないのです。ただただ、遠くからその時が訪れるのを祈りながら待つしかありませんでした。
 前日の学びで学んだ箇所が頭をよぎります。

『キリストが私を用いて成し遂げてくださったこと』

 その言葉には私の成果ではなく、私がキリストの働かれる現場で目撃者となり、証しする事柄を与えてくださっているということが表されているのだと理解しました。福音の救いの訪れ、神の国の到来の目撃者になれることは、至極の喜びであり幸福です。

    キリストが私を用いて成し遂げてくださったこと以外に、
    何かをあえて話そうとは思いません。
    キリストは、ことばと行いにより、
    また、しるしと不思議を行う力と、神の御霊の力によって、
    それらを成し遂げてくださいました。
                     ローマ15:18-19

光テラス No.102

3月29日
 予定していたキリスト教の超教派イベントが中止となったこともあり、手続きのために担当の牧師に会いに行ってきました。手続きはサインと印鑑だけ。たったそれだけの内容でありながらも、少しばかり話を始めました。

 「コロナの影響は先生の教会はいかがですか?」

 このような質問が、最近は誰かと会うたびに挨拶代わりの言葉になっていると感じました。
 そして「いや~うちの教会も・・・」と。

 他者の影響を受けて苦労しているという世間話はどの時代でも多く話されてきたものでしょう。しかし、いつの間にか自分も同じように被害者アピールをし、大変さを見せてしまっているなと気づきました。

 家に帰り、「疲れた~」と一息吐くと、嘆き叫ぶ声で妻が、

 「疲れたなんて言われたら、私は何もお願いできないじゃない。
  私だって疲れてるのは同じなの!」

 私にとっては単なる言葉だとしても、それが相手にとってみれば思っても見ない影響を与えているのだと気づかされた瞬間でした。妻に謝り、改めて自分で気づいていなかった弱さについて考えました。

 キリストは、信仰についてははっきりと伝え、人の弱さや病などには寄り添いました。どんなに不条理であっても、相手を責め、弱音を吐くことはありませんでした。
 私も弱音や不安を吐く前に、目の前にいる人に寄り添う者でありたいと反省しています。

    誘惑に陥らないように、目を覚まして祈っていなさい。
    霊は燃えていても肉は弱いのです。
                      マタイ26:41

光テラス No.101

3月22日
 入院中だった妻が退院し、サポートで着ていた母が家へ帰っていきました。限られた時間でありながら、親子クラスでの交わりやプランターでの学びをともにすることができて、母親もとてもよい教会の時間だったと語っていました。
 帰る前、家族で話していたときに礼拝の説教についての話題になりました。聖書にも似たような内容が書かれていますが、息子として母親が説教を聞きにくいのではないのかと思い、このことについて質問をすると、母がこのように語りました。

 「私は息子が説教をしているときに、
  息子が話しているという意識は全然していません。
  牧師が語る説教というのでもなく、
  説教は神様の御言葉として聞いていると思います。」

 このことばを聞いたとき、神の言葉を聞くことにおいて親子というフィルターをかけずに、自分と神の関わりとして直接その言葉を受け取っていく母の信仰を改めて尊敬しました。
 しかしそれ以上に、息子の言葉としてでも牧師の解釈としてでもなく、神の御言葉として受け取られるということが、御言葉を取り次いで語る側としてどれほど大きな責任なのかも感じることとなりました。神の前に自分自身が立って応答しない限り、説教で語られる言葉が偽善になってしまうのだと感じながら、また今日も日曜日を迎えます。
    キリストは肉において苦しみを受けられたのですから、
    あなたがたも同じ心構えで自分自身を武装しなさい。
    肉において苦しみを受けた人は、罪との関わりを
    断っているのです。
                      Ⅰペテロ4:1

光テラス No.100

3月15日
 毎週記してきた光テラスが100号を迎えました。そして夫婦としての生活も3年を迎えることとなりました。神とともに生きることを感謝しながらも、辿ってきた道のりを思い返すと、神に支えられていなければ続けられなかった険しい道のりだと感じることが多くあります。
 4ヶ月もの間、離れて暮らした日々はとても長い時間に感じていましたが、いよいよ家族全員集合となり、ようやく大きな壁を乗り越えたと思った矢先の妻の入院と手術は、まさに青天の霹靂でした。
 手術の翌日、回復室から一般病棟に戻ってきた妻はまだ痛みが残り、お腹の違和感を持っていた状態でした。

 そこで
 「3年間、結婚生活ありがとう、よく生きてました」
 と声をかけると
 「こんなの最悪や~」
 と返事が来ました。

 結婚も人生も、何かを成し遂げたかどうかではないのだと強く感じたひと時でした。本人にとっては、何もできてない、迷惑をかけて申し訳ない気持ちでいっぱいかもしれないけれど、その人を大切に思う人にとってはともに生きてくれたことが何よりも嬉しく、ありがたいことなのだと思います。
 家庭とは形は異なりますが、教会に生きる人もまた、神の温もりの中で、ともに生きている神の家族です。神を信じるもの同士が毎週集い、顔を合わせるとき、何をしたかではなく、神とともに、私たちとともに生きていて嬉しい、ありがとうという気持ちになります。
 神と再会したとき、どんな声をかけてくださるのか、ちょっとだけ楽しみになりました。

   主イエスの恵みが、すべての者とともにありますように。
                       黙示録22:21

光テラス No.99

3月8日
 コロナウィルスの感染拡大を懸念する中、私の家族に緊急事態が訪れました。それはウィルスに感染したというものではありません。ただ、状況はよいものではありませんでした。
 お腹が痛いと言ってクリニックに連れて行った妻が精密検査のために大きな病院へ行き、結果的に入院することになったのです。
 首が据わっていない気管支炎の子どもを抱え、車も運転できずに、家に戻るしかなかった数日前の状況を鮮明に覚えています。妻に寄り添いたいと思いながらも、ミルクや排泄物の処理、洗濯や食事など、隙間なく詰まっている状況に、私の首が回らなくなってきました。
 家事と育児と仕事という3つの天秤が完全にバランスを失っていたことを、身をもって感じたため、まず仕事・教会の諸所のことについて助けを請いました。するとすべての人が愛と憐れみをもって助けてくださいました。次に育児について親に助けを求めました。すると母親がすぐに駆けつけてくれました。そしてついに、子どもの病院にも妻の病院にも行くことができました。
 病院に着くと、クリニックに行く前に妻と神に助けてくださいと祈ったことが思い出されました。私たちが助けられたのは病がなかったものにされることではなく、人の愛をもって病とこの状況に立ち向かう力と家族でした。

    しかし主は、
   「わたしの恵みはあなたに十分である。
    わたしの力は弱さのうちに完全に現れるからである」
    と言われました。
    ですから私は、キリストの力が私をおおうために、
    むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう。
                    2コリント12:9