3月1日
クリスマス前に生まれた娘を迎えにソウルに行ってきました。新型コロナウィルスの感染に対する恐れと不安が広がっている中、幸いにも渡航中止や入国拒否とならず、無事に家族全員で帰ってくることができました。
生まれてすぐに会って1週間ほど過ごすことはできましたが、以前は施設内で、時々一緒に過ごせる程度だったものが、赤磐に戻ってきてからは24時間一緒にいることもできるようになりました。
私にとっては、妻と娘が韓国にいた約2ヶ月間の離れた生活が終わり、いよいよ家族としてスタートできる喜びでいっぱいでした。妻にとっては喜びと寂しさが混在する状況となっていました。赤ちゃん用品や遊具を通して、韓国で子育てをしていた生活が思い出され、原家族と離れてしまう寂しさがこみ上げてきていました。現家族の生活が取り戻せる・自分の居場所に帰ることができる喜びも確かにあるという感覚に混乱することもありました。
韓国の義両親にとっては、生まれてからずっと一緒だった孫と最も愛情を注いできた娘を婿が日本に連れて行った、奪って行ったような感覚にさえ陥っていたかもしれません。私たちが去っていった部屋にはさっきまで使っていた赤ちゃん用品だけが残っているのです。その寂しさや悲しさは愛情を注いでいた証だと思いました。
また、(イエスが息を引き取る)この光景を見に集まっていた
群集もみな、これらの出来事を見て、
悲しみのあまり胸をたたきながら帰って行った。
ルカ23:48
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光テラス No.97
2月23日
早朝に電話がかかってきました。体はまだ起ききっていない状況でしたが、教会の方に何かあったのかもしれないと思い、短く祈って受話器を取りました。
初めて聞く声で、「キリスト教に入信したい」と語り出しました。葬儀連絡ではないことにホッとしながらも、なぜこの時間に教会へ電話しようと思ったのかと考えながら、私は話を聞くことにしました。
これまでのことなどを語りながら、教会に行くから聖書を教えてほしいと仰ったので、「10時頃に教会へいらしてください。12時までは必ずいますので。」
と答えました。するとその方も「必ず行きます。」と言い、電話を切りました。
しかし時間になっても、その方は来ません。名前だけは聞きましたが、電話をかけることも、訪問することもできません。ただ、「必ず行きます」と言ったことばだけを頼りに、物音がする度に振り返り、窓の外を眺め、ひたすら待ちました。11時が過ぎ、12時が過ぎ、とうとう13時を過ぎていきました。
結局来ることはありませんでした。長時間待つ自分の姿を、幼い頃に読んでもらった『靴屋のマルチン』の話に重ねながら、神様にそっと語り掛けました。
「神様、どうかふさわしい時に来てください。私はまた、あなたを待ちます。」
あなたがたはも今は悲しんでいます。
しかし、わたしは再びあなたがたに会います。
そして、あなたがたの心は喜びに満たされます。
その喜びをあなたがたから奪い去る者はありません。
ヨハネ16:24
光テラス No.96
2月16日
教会内の教育部門についての研修会が行われました。昨年度の報告と新しく始める活動、内容と形態を変更して行うことを説明し、実際に試しに行ってみました。限られた時間の中ではありましたが、感想や意見を出し合い、交わりも与えられた研修会となりました。
新しい形態で行おうとしていた成人科は、誰かが講義するのではなく、テキストを読みながら問いに答えていく形式で互いに意見や経験を語りながら、祈りあうことを目指して準備しているところで、模擬体験をすることになりました。
A4一枚程度の文章を読んだ後、問いに対してそれぞれの経験を踏まえて分かち合いが始まりました。淡々と語る人もいれば、熱が入る人や意外な発言をする人もいて、今までとは違った印象を持つこともありました。信仰の交わりをした上での祈りの時間、これまでとちょっとだけ違った感覚があったことを覚えています。
テキストは学ぶための道具ではありますが、信仰は学びで終わるものではありません。聖書の学びや信仰の分かち合いを通して、神様や信仰の家族を今までとちょっと違った角度から見ることで、新たな一面が発見できたとき、新たな関係が築かれることもあります。
学びと分かち合いは私たちと神様をつなぐ上での触媒であり、自分を表現することで別の人や部分に作用したり、新しい関係を掘り当てる可能性を秘めた鉱山の採掘だと感じました。
あなたがたは、聖書の中に永遠のいのちがあると思って聖書を調べています。
その聖書は、わたしについて証しているものです。
ヨハネ5:39
光テラス No.95
2月9日
新型コロナウィルスの影響が各国で出ており、多くの報道を通してその危険性と対策が日々報じられています。これまでにはなかったウィルスであるからこそ、どれくらい脅威で移りやすいのか、どのように治療したらよいのか、どのように予防できるのかを大急ぎで研究し、周知させることが求められています。
先日、中国人の医師が亡くなったことを悼む報道が出ているのを目にしました。昨年12月にいち早くこの状況に気づき、警鐘を鳴らしていましたが、虚偽の報告として社会の秩序を乱し、混乱を招いたとして処分されました。そして彼自身が新型ウィルスに感染し、命を失うこととなりました。
結果として彼が伝えた内容が正しく、発言が匿われたことによって世界中で猛威を振るうまでに社会の秩序を乱し、大きな混乱を各地で招いたのは周知の事実となりました。
聖書の預言者や登場人物たちも自分たちに不都合な状況を、勇気をもって人々に伝えていきました。それが彼らにとって最も大切な使命だったからです。イエスやパウロも伝えれば伝えるほど、自分のいのちが脅かされる状況であることはわかっていながらも、そのいのちを惜しまずに、人々に必要なことを伝え続けました。
どの時代も、喜びだけでなく、不都合な真実を伝える人が与えられるのと同様に、その報告を受け入れる土壌が成熟していなければ、結果として回復が遅れてしまうのだと気づかされた出来事でした。
そしてイエスは言われた。
「聞く耳のある者は聞きなさい。」
マルコ4:9
光テラス No.94
2月2日
プランターの学びの中で、「接ぎ木された枝とはどんな枝ですか?」という問いについて出席者の方々と意見を出し合いながら一緒に考えていたときの話です。
聖書についての学びだからこそ、クリスチャンであることという意見や永遠のいのちを受けることという答えもありました。また、接ぎ木ということに注目して、イエスさまと密接につながっていることや枝そのものが新しく生まれ変わるという答えもありました。
これらに加えて園芸を楽しんでいる方ならではの意見が出ました。接ぎ木された枝だけでは咲かないこと、枝自体には力がないこと、そして接ぎ木された枝からは幹の実ではなく、その枝の実がなるということでした。
園芸は身近に感じていながら詳しいことがわからなかった私にとって、園芸を通して見る聖書の言葉はとても新鮮です。これまで、イエスを信じている人は結局同じ実がなるのだと漠然と考えていた私に対して、「あなたの枝の実がなるんだよ」という言葉は同じ種類の実がなるとは限らない、むしろ全然別の実がなることが当然だったのです。
ただ、どんな枝でも同じ木に接ぎ木されているのなら、全部同じ木からなった実であるとも確かです。
キリストが私たちの「いろいろな実」を「同じ木の実」として力を与えて収穫してくださるのなら、周りの枝の実と同じ味ではなく、その木らしい味わいを醸し出す生き方をしたいと思いました。
御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、
善意、誠実、柔和、自制です。
ガラテヤ5:22~23
光テラス No.93
1月26日
晩ご飯を作る気にならなかったので、外食をしようと考えていると、「回転寿司に行ってお魚食べたら?」という勧めもあり、一人でしばらくぶりに回転寿司に行きました。お店に着くと、たくさんの家族連れが順番を待っていて、私もしばらく時間がかかるなぁと覚悟しながら案内を待ちました。
数十分後、一人ということもあり、カウンターの一番奥に促され席に着くと、以前はあった回転寿司のターンテーブルがベルトコンベアに取り替えられていたことにすぐに気がつきました。
タッチパネルで注文をすると、ベルトコンベアの上に乗せられた寿司皿が自分の席の前に運ばれてきます。ITの機能も進化して、とてもスムーズに運ばれてきます。便利な機能に感心する一方で私は寂しい思いも湧き上がってきました。
『回ってくるネタにわくわくしたり、まだ来ないなぁとか、
何か好きなのないかなぁと眺めながら待ったりすることもないんだぁ。
これじゃ、後払いの自動販売機と変わらないんだよなぁ。』
安くておいしい食事は確かにうれしいもの。でも食卓に求めるものはそれだけではありません。
きっと主の食卓も材料に関するコスパよりも、主とともに食卓を囲める喜びや安らぎ、そして交わりの思い出に心が温まることでしょう。
イエスは五つのパンと二匹の魚を取り、
天を見上げて神をほめたたえ、パンを裂き、
そして人々に配るように弟子たちにお与えになった。
また二匹の魚も皆に分けられた。
彼らはみな、食べて満腹した。
マルコ6:41-42
光テラス No.92
1月19日
昨年も参加したまびくらのお餅つきと、hi-b.a.の活動に参加してきました。お餅つきは昨年ひょろっと参加した地元の方々が、今年は朝から気合を入れて準備をされていました。
誰でも歓迎されるお餅つきにただ食べるだけでなく、もちをつく側としても歓迎されたことをきっかけにまびくらとの距離を少しずつ縮め、今年は予め期日などを確認して予定を合わせて来ていました。
「始めましょう!」との掛け声がかかると、『さぁ俺の出番だ』と言わんばかりに気合を入れて積極的にもち米を杵でこねて、つき始めていきました。元気な掛け声とともに笑顔があふれた時間でした。
お餅つきが終わる一足先に私は抜けて高校生の集会へ向かいました。初めての場所で初めて会う人もいるなか、まったりとした時間の中で、賛美をしたりゲームをして遊んだりしながら過ごし、最後に御言葉を聞きました。
集会の帰り際、参加した人たちと話しながら歩いて車に向かいながら、教会ではなかなか同世代の人と交わりの機会がない人が多いことや、いても話す機会が少ないということを聞きました。
自分が活躍できる場を見つけて居場所となり、心を開いていった餅つきの方々と、自分が心を開く場を探しつつも、心の開くことに不安になる高校生たち。どちらも私たちの現実であるからこそ、話を聞く場、活躍できる場、一緒にいられる場の大切さを改めて知りました。
わたしが行って、あなたがたに場所を用意したら、
また来て、あなたがたをわたしのもとに迎えます。
わたしがいるところに、あなたがたもいるようにするためです。
ヨハネ14:3
光テラス No.91
1月12日
2020年を迎え、家族と離れ、桜が丘に戻ってくると、しばらく滞っていた仕事が溜まってしまっていました。大慌てで行おうとしてもなかなか捗らず、別の作業が舞い込み、思うように進まず、家族とも離れ、子育てにも協力できないことに意気消沈してしまいました。
土曜日のジョイフルホリデーでのこと。礼拝を終え、活動の前半は体を動かしながら参加者全員で楽しく遊びましたが、後半の活動は「にらめっこ」ということでしたが、時間が経つにつれて、一人の子どもの顔を見ると、明らかに元気が無くなっているのに気がつきました。
活動を終え、その人に話を聞きました。
「どうしたの?何がイヤだったの?話してくれる?」
すると、泣き始めながらもなんとか口を開いて教えてくれました。
「にらめっこ、イヤだった。」
「そうかぁ、イヤだったんだね。
でも、逃げ出さないでみんなと一緒にいてくれてありがとね。
準備したものが嫌いなものということあるよね。
変えることはなかなか難しいけど、
イヤだったっていう気持ちはちゃんと聞くし、
配慮したいから、我慢せずに言ってね。
頑張って言ってくれてありがとう。うれしいよ。」
その人に言葉をかけていた時、その言葉は私に向けられた言葉でもあったことに気がつきました。私にも、どうにもならない状況に直面したとき、ひとりで乗り越えなければならないのではなく、神が「どうしたの?話してごらん」と聞いてくださっていたんです。
あなたの思い煩いを、いっさい神にゆだねなさい。
神があなたのことを心配してくださるからです。
1ペテロ5:7
光テラス No.90
1月5日
2019年最後の大きな出来事は娘の誕生でした。クリスマス礼拝・キャンドルサービス後に出発し、出産した妻と娘に会いに行きました。父親の自覚というのはいつ出てくるのかという疑問も抱きながらも、生まれたわが子を見たときに、私自身が生まれた際に撮られた写真の顔とそっくりな顔に、すぐに愛着が湧きました。
生まれたての幼子の表情に一喜一憂する一方で、子育ての最初期において私ができることはわずかだということを一日一日が過ぎていく中で知ることとなりました。たとえオムツを交換しても、泣き叫ぶ子を抱いてあやすことができても、私にはどう頑張っても子を産むことも母乳を与えることもできません。
それでも、家族がそこに揃っているということが私たちにとって何よりも幸せな時間だということを確認することができました。
滞在中、私は妻が妊娠中に語っていた言葉を思い出しました。
『何もできなくてごめんね。邪魔になっていないかな。』
妊娠中、家事や仕事に貢献できずにいた妻が自分の価値を見出せずに悩んでいたように、私もまた子どもを生かすということに貢献できずにいることで、自分が情けなく感じてしまうことが重なっていました。それでも私は、個人ではなく、家族という単位でいられることに感謝しました。主が私を貢献ではなく、存在を受け入れてくださったからだということを、新しいいのちが教えてくださったからです。
夫たちよ。キリストが教会を愛し、
教会のためにご自分を献げられたように、
あなたがたも妻を愛しなさい。
エペソ5:25
光テラス No.89
12月29日
クリスマスの怒涛の1週間が過ぎました。もうすぐ年末です。今年を振り返ってみることにしました。
今年は新しいことがたくさん始まり、チャレンジの1年でした。まずは1月に執事が任命され、教会組織の土台が据えられました。学びとしては2月に成人科が始まり、3期まで行いました。4月からは念願だった子ども対象の活動「ジョイフルホリデー」が始まり、人数の浮き沈みは大きかったですが、12月の活動には25人もの子どもたちが教会に訪れ、一緒に聖書の話を聞き、活動を行いました。水曜日のプランターは6月からローマ書の学びを始め、御言葉に触れる機会が多く与えられました。時にはゲストの証を聞く機会も与えられ、たった一度になるであろう一瞬の出会いが、信仰の交わりへと変えられていきました。
災害支援でもまびくらを訪れ、被災地の実状を生で感じることができた一方、地域の人々とのつながりを深める訪問賛美や夕すずみ会がバージョンアップして行われました。
そしてイースターの前とクリスマスの前に行われた祈祷会・集会。祈りの輪が広がり始めてきたことに本当に感動しました。
一言では書ききれない恵みと祝福が溢れた信仰生活でした。来年はきっと新しいいのちに感動する一年になるのかと胸を躍らせながら、神に従っていきたいと思っています。
愛する者たち、私たちは互いに愛し合いましょう。
愛は神から出ているのです。
愛があるものはみな、神から生まれ、神を知っています。
Ⅰヨハネ4:7