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光テラス No.88

12月22日
 いよいよ出産予定日が近づいてきました。11月に妻と離れてから長いようでとても早く過ぎてきた日々。私自身は離れていることもあり、なかなか実感がわきにくかったですが、金曜日の深夜、ふと目が覚めて頭の中に思い巡らされることがありました。

 『神様、どうか私たち夫婦が出会うその時まで、子どもの誕生を待ってくれませんか。
  でも神様の御心とご計画があると思います。
  ただ、子どもを生む前に夫婦で一度声をかけて、祈りたいんです。
  私は離れている間、何もできていないんです、
  お腹の子どもに声をかけることさえも・・・。』

 そんなとき、ふとクリスマス会での出来事が思い起こされました。

 『誰かが人生で初めて祈った経験、それはとても尊い瞬間。
  なぜなら、それは隣にいる人の祈りが聞かれた瞬間でもあるから。』

 私は自分の子どもの誕生に対しての思いと全く同じように、神はご自身のいのち、新しいいのちに生きる子どもが芽生えていることを喜んでおられるのだということを知りました。
 振り返ると先週、礼拝では洗礼式があり、新しいいのちの誕生を目の前で見ていました。そして祈り会で新しいいのちの芽生えを見ました。さらに今度は肉体のいのちの誕生に立ち会えるかもしれない期待が与えられていることに気がつきました。
 私は改めて、神様に感謝をしました。主よ、この人生でいのちの誕生に立ち会える感動に勝るものはありません。

愛する者たち、私たちは今すでに神の子どもです。
                      Ⅰヨハネ3:2

光テラス No.87

12月15日
 クリスマスの月ということもあり、ジョイフルホリデーも、いつもより多くの参加者があったらいいなぁと思いながら準備していました。はじめは習い事をしている子たちは来れないのではないかと思い、少ない人数での活動にもなるかもしれないと予想していました。
 しかし、習い事をしている人のほとんどが出席できることがわかり、去年の人数くらいの子どもたちが集まるかもしれないと期待が膨らんできました。
 当日、15人だろうと考えていた私の予想をはるかに超える、25人の子どもたちとその保護者、奉仕者を合わせて40名での活動になりました。礼拝堂にイスを並べててもスペースがないほどの状況に、少し焦りながらも、喜びが溢れてきました。
 近くの教会でもクリスマスのイベントが行われる中、食事もない、おやつもない、御言葉と交わりのクリスマス。私にあるものは情熱と愛とイエスさまと生きる喜びでした。普段、子どもたちとの接点がない私にとっては、このような状況は神様の招きとそれに応答する人たちの結果、与えられたものだと感じました。

 『神様、私は人を招くことができませんでした。
  だからこそ、改めて確信します。
  主がその民を招いてくださっているのですね!
  そして招きのために人を遣わしてくださることを感謝します!』

    わたしがあなたとともにいるので、
    あなたを襲って危害を加える者はいない。
    この町には、わたしの民がたくさんいるのだから。
                         使徒18:10

光テラス No.86

12月 8日
 教会の活動のために買出しに行き、息抜きがてら作業をするためにカフェに行きました。店内はたくさんのお客さんで賑わっていました。あぁ、金曜の夜という時間帯が悪かったかな、と思いつつ注文をすると、客席のセッティングがいつもと違うことに気がつきました。
 店員から声をかけられ、今日はオープンから7周年ということで毎年この日に感謝の気持ちをこめて店員たちがミニライブを開いているとのことでした。店内は温かい眼差しを送る客と、集中したいのにできないと残念そうなお客さんに二分されていました。
 なるほど、このミニライブを見にお客さんが集まってきたというよりも、同じバイト仲間や、友人を招き、せっかくだからと残った人たちによってこの人数になったのだ、と考えながら席に着きました。

 『さて、私はどちらのお客になるのだろうか』

と迷っているうちに1曲目が始まりました。曲目は「Amazing Grace」、私は思わず窓に向かっていた体を振り返らせ、その曲に聴き入りました。
 プロのような演奏ではありませんが、日本の街中のカフェでクリスマスを控え、Amazing Graceを演奏しようと勧めた人がいたということに私は心から感動しました。

『あぁ、ここにも神様の恵みを証したいと願う人がいたんだ!』

 もし提案した人に伝わるなら私はその人に伝えたい。あなたの証し、届いていますよ。たとえあなたが応答を得られなかったとしても・・・。

    あなたがたも証しします。
    初めからわたしと一緒にいたからです。
               ヨハネ15:27

光テラス No.85

12月1日
 韓国で出産を控える妻と一時的に連絡が取れなくなりました。いつもなら携帯のメッセージのやりとりに数時間も待つことはありませんでしたが、この日は出かけたっきり、全く返信がありませんでした。
 しばらくして、会議で外部に出かけているときに連絡がありました。

『胃の調子が悪くて病院に行って点滴を打ってもらいました。』

 以前にもこのようなことがあったため、心配していましたが、ついに来たかと思っていました。
 家に帰り、すぐにビデオチャットで様子を伺おうとすると、痛そうに苦しんでいる妻の顔がありました。まずその場ですぐに祈りました。それでも状態は悪化していくため、妻は教会から戻ってきた妻の母と一緒に病院へ再度行くことになりました。

 私は、自分にはどうすることもできない状況にただただ嘆くしかありませんでした。

『主よ、なぜ子どものいる身体に試練を与えるのですか。産む苦しみに加え、このような痛みを与えるのですか。私には何もできません。今は声をかけることも、背中をさすることもできません。』

 そしてこの時、私の人生で初めて心からこのように思いました。

『主よ、この痛みをどうか私の身に移してください。』

 愛する人のゆえに自分を差し出すことの意味を、身をもって理解することになりました。
その後、私は回復した姿を見てようやく落ち着きを取り戻しました。

    主よ なぜ あなたは遠く離れて立ち
    苦しみの時に 身を隠されるのですか。
                 詩編10:1

光テラス No.84

11月24日
 教会の信徒と食事の交わりをしに出かけたときのことです。いつも通っている料理屋に一緒に行き、お話でもしようと考えていた私に、

「この後時間ありますか、食後に散歩しましょう。」
と言われ、どういうことかよくわからないまま、

「あ、はい。」
と答え、思ったよりもだいぶ早く食事が終わりました。

 食事が終わると、コックの人たちに外国語で声をかけ、お店の裏の平屋のおうちへと回りました。するとそこには小さな子どもが一人でいました。その子どもの名前を呼び、一緒に出かけようとしたところ、その子の母親が戻り、先にご飯を食べてからということになりました。

 しばらくして、その子が外行きの格好に着替えてきたので、私が連れて行くように言われ、その子を抱きかかえて20分の道のりを歩いて公園まで行きました。
1時間ほど遊んだ帰り道、信徒になぜ散歩に行こうと誘ったのかと尋ねました。すると、愛のある笑顔でこう答えました。

「私が行ったときくらい、外に連れて行ってあげないとね。
 お母さんも言葉通じないから不安だけど、
 子どもだって思いっきり走り回りたいだろうし。」

 その子が一度交通事故になってから、言葉の通じない家の外へ連れ出すのが不安になっているお母さんと子どもを思いやる信徒の愛は言葉だけでなく、行いをも伴ったものでした。遊びまわるその子の笑顔が今でも、私の記憶に鮮明に残っています。

   「ザアカイ、急いで降りて来なさい。
    わたしは今日、あなたの家に泊まることにしているから。」
                          ルカ19:5

光テラス No.83

11月17日
 久しぶりに姉からビデオチャット(テレビ電話)がかかってきました。応答するとそこには甥っ子の姿がありました。どうやら甥っ子が画面をいじっているうちに、私に電話をかけてしまったようです。
 特に出産を控える妻のこともあり、せっかくなので、姉が出産した時の話を詳しく聞くことにしました。
 自然分娩なのか帝王切開なのか。出産後の大変さはどうなのか。生まれたての子どもの姿を見たときはどう思ったのか。母親にしか味わうことのできない経験をいろいろ聞くことで、妻に対して気を配ったり、現実的な課題を知ったりすることができた尊い時間でした。
 会話の後半になり、姉から私に向けて質問が投げかけられました。

「お父さんになる?というかお父さん?という感覚にいつなるの?」

 この質問をきっかけに私は、改めて妻のお腹の中にいる子どもとの関係について考えることにしました。妻は出産のためにお里帰りしていることもあり、今は私と子どもとの関わりはわずかになりました。
 一方で、お腹の中にいる子に呼びかけて反応が返ってきたときの喜びや、お腹に顔を当てて、子どもの動きを肌で感じていた記憶が思い出されてきました。そして私はこう感じました。

『あの子との交わりが恋しい。また直接声をかけて反応に喜びたい。』

 この気持ちは父親としてのものかはわかりません。しかし間違いなく、まだお腹の中にはいるけれども、わが子に対しての直接的な感情が芽生えた瞬間でした。今、改めて姉にこう答えを伝えたいです。

「生まれる前から我が子だと私は実感しています。」

    主は、生まれる前から私を召し、
    母の胎内にいたときから私の名を呼ばれた。
                  イザヤ49:1

光テラス No.82

11月10日
 親教会へ行った時、応接室に招かれていた信徒が部屋から出てきたときに「VIP待遇をしていただいて感謝でした」と語っていたことばが耳に残りました。
 その部屋はつい先ほどまで、私たちが会議で使用していた部屋であり、教職者や長老たちが座っていたイスがそのまま使われていました。伝道所の報告をする私にとっては、緊張の場所、働きを全うしているかどうかチェックされる場所でもありました。そのゆえ、私にはまるで審判の部屋のように感じたこともありました。同じ部屋・空間であっても入る人や目的によって受ける印象はまるで別物なのだと知った出来事でした。
 思えば、私たちがいのちを終えるときに、すべての人が主の御前に立つことになります。主を目の前にしたとき、きっと私たちは神に迎えられる喜びで、VIP待遇だと感じることでしょう。しかしその反面、主を目の前に、裁かれる恐れで満たされ、後悔する人も出てくるのかも知れません。
 神はその厳しさも優しさも変わることなく、一貫して私に向けられています。しかし、その奥にある神の愛情を感じることができたなら、きっと自分がどれほど温かく迎え入れられているのかを悟ることができるでしょう。
 そう思いながら、親教会の長老会に対して抱いていた審判の部屋という感覚がいかに失礼なことなのかと反省しました。ごめんなさい。

    善を行った者はよみがえっていのちを受けるために、
    悪を行った者はよみがえってさばきを受けるために出て来ます。
                           ヨハネ5:29

光テラス No.81

11月3日
 ジョイフルホリデーの活動のために人生ゲームのようなボードゲームを作ることになりました。サイコロを振って進んだマスの指示に従いながら、宝石や食べ物や薬を蓄え、災害や病気に備えつつ、家から旅立ちます。
 このゲームの大きな楽しみどころは、食べ物を手にすることができないとき、飢えてゲームオーバーになるのではなく、「悔い改め」コースに進んで、1からやり直せるようになっているところです。
 大金をもらって出発しても、備えをせずにお金だけ蓄えていれば病気や災害によって家を失ってしまうこともあれば、備蓄をしていても、災害によって失われてしまうこともあります。
 お店に行って修理することもできるかもしれませんが、失われたときに責め合ったり後悔したりするのではなく、悔い改めて、財産はないけれどももう一度やり直せることで、感謝しながら、よりよい歩み方を探ります。
 私たちもいつだって悔い改めて神のもとに帰ることができるという言葉は、私の人生にゲームオーバーがないことの希望です。たとえ満足できない日々が続いても、決して歩みを止めることなく、今日もまた、主の前に帰り、出発します。

    立って、父のところに行こう。そしてこう言おう。
    「お父さん。私は天に対して罪を犯し、
     あなたの前に罪ある者です。
     もう、息子と呼ばれる資格はありません。
     雇い人の一人にしてください。」
                  ルカ15:18~19

光テラス No.80

10月27日
 記念会の奉仕を相談する中で、奏楽の奉仕者が誰かいないかとなり、妻のお腹の様子も気がかりなため、「私がやります」と申し出ました。
 岡山に来てからはほとんどピアノに触っておらず、不安もあったのですが、準備時間もある程度あるため、引き受けました。主任牧師も、できなくても大丈夫と声をかけてくださいました。
 しかし、なかなか練習の時間を確保することができず、前日練習で妻にチェックをしてもらった時に、緊張と焦りから手が全然動かず弾けませんでした。その様子を見かねて、妻は私に「私のお腹の調子は落ち着いているから、私がやろうか。」と声をかけてくれました。妻への配慮と思い、自分がやると言った結果、妻に気を遣わせてしまった自分に情けなさを感じました。
 当日、直前にはなってしまったけれども言わないわけにはいかないと思い、主任牧師にこのことを電話で伝えました。そして電話先から怒りと悲しみを含めた声で「先生、言ったじゃないですか。できなくてもいいって。でももっと早く相談してもらわないと、準備をしている人たちに迷惑もかかるし、配慮の心を踏みにじることになります。」
 その言葉を聞きながら、私は自分の犯したことの重大さに気付かされました。配慮とは相手に何もさせないことではなく、相手の心境をおもんぱかり、心に安らぎが与えられるために気を配ることなのだと反省し、相手の平安を壊すような振る舞いがないかどうかを見る目を持たなければならないと心に刻みました。

    何をするにも、人に対してではなく、
    主に対してするように、心から行いなさい。
                 コロサイ3:23

光テラス No.79

10月20日
 プランターで学びをしているとき、あるテーマについて、「わたしにはその価値が分からない」という意見が出ました。すると、周りの参加者が、こういうこと、ああいうことと説明をしていきました。しかし、腑に落ちなかったのか、その方の表情がう~んといった様子のままだったこともあり、次から次へと、説明が始まってしまいました。そこまで来るともはや説明というよりも説得になってしまい、相手が「参りました」もとい「わかりました」と言うまで打ち合うことになりそうだったので、「説得させてはいけません、納得に値するその大切なものを『自分で』掴めるように、待ちましょう」とその場を制すことになりました。
 これほど強めに言ってよかったものかと心残りもあった翌日、礼拝からしばらく遠ざかっていた方と久しぶりに食事をしに行きました。何気ない会話の後、信仰生活が心配で、できればまた一緒に礼拝したいと願っていることを伝えました。そして次回の食事の日程を決めようとしたとき、その方が「先生、できれば私のことを心配してくださるのはありがたいのですが、保護者のような目線で食事するのは心苦しいです。お友達のように気軽に食事したいです。」と言いました。
 その時、前日に自分で言った言葉が思い返されました。『説得しようとするな』と自分で発した言葉でさえも、それを形にすることが何と難しいのかと反省し、主が働かれることを祈りました。

    私たちは自分自身を宣べ伝えているのではなく
主なるイエス・キリストを宣べ伝えています。
私たち自身は、イエスのために
あなたがたに仕えるしもべなのです。  
                   2コリント4:5