pastor のすべての投稿

光テラス No.78

10月13日
 教団主催の伝道懇談会・松原湖研修会に参加してきました。昨年はマイコプラズマ肺炎になっていけなかった研修会でしたが、今年は夫婦で参加することができました。
 日曜日の礼拝後に出発し、名古屋まで行き、大須教会の夕礼拝に参加しました。商店街の真ん中にある教会で、大須観音の参道という特殊な立地や限られた敷地の中で地域とともに生きる教会の在り方を常に探りながら、福音に魅力的に生きている牧師の姿に励まされました。
 伝道懇談会では、教会の自立というテーマで、信仰的・組織的・経済的な課題を学びながら、他の地域の教会の教職者たちとの交わりのときを持ちました。そこで大切にされていたのが、思いを形(文字)にすることでした。一般には理念と言われています。教会が何のためにあり、どのような姿勢で人々と、社会と関わっていくのかということを明確に打ち出し、定期的に原点に立ち返る決心のしるしです。
 そして松原湖研修会。聖書信仰とその時代をテーマに、今を生きる自分や他者の感情をどう理解し、付き合っていくかを学びました。神学校で私の論文の指導教官でもあった講師が、このように語りました。

 「感情は決して悪ではなく、神からの賜物です。」

 研修会を振り返ると、救われた喜び、赦された平安という感情も、神からの贈り物なのだと感じました。どんな方法も手段も、神に与えられた喜びがなければ何にもなりません。しかし、その熱意があるならなおさら、冷静に思いを形にしなければ届かない「今」があると知った1週間でした。

    たとえ、山を動かすほどの完全な信仰を持っていても、
    愛がないなら、私は無に等しいのです。
                       2コリ13:2

光テラス No.77

10月6日
 妻の出産準備を兼ねて、韓国へ行ってきました。両親を中心に多くの人の意見を参考にし、産婦人科や出産後のケア施設などを見た後、夫婦で相談して韓国で出産することを決断しました。
 出産・産後環境が良い場所で産めること、親のサポートを得ながら過ごせることに感謝な一方、夫婦が離れ、出産に立ち会えず、子どもとすぐには一緒に過ごせないことをとても残念に思っています。
 韓国で出産することは妻の母からの言葉が初めにありました。

「これから長く教会で働くのなら、出産を経た体をしっかりケアして、
 しっかりとした状態に戻すことはとても大事だよ。」

 妻の体のことをおもんぱかる母の言葉には母としての愛と牧会者としての姿が映し出されていました。

 決断する前の水曜日の夜、私たち夫婦はその母が働く教会の礼拝に出て、説教を聞きました。私自身は半分もその内容を理解することはできませんでしたが、時々開かれる聖書の箇所を追いながら今後のことを考えていました。
 そして、次のパウロが語った言葉が、まるで子どもと会える日までの私の指針を示しているように感じ、決断することとなりました。

    あなたは、年が若いからといって、
    だれにも軽く見られないようにしなさい。
    むしろ、ことば、態度、愛、信仰、純潔において
    信者の模範となりなさい。
    私が行くまで、聖書の朗読と勧めと教えに専念しなさい。
    …働きをあくまでも続けなさい。
    そうすれば、自分自身と、あなたの教えを聞く人たちとを、
    救うことになるのです。
                第一テモテ 4:12~13、16

光テラス No.76

9月29日
 一週間に2組のゲストを迎える、忙しくも恵みの時間を過ごしました。前半の友人は水曜日のプランターでの証をし、前回の光テラスで内容を記しています。後半の友人たちは日曜日の礼拝に出席しに来てくれました。どちらも信仰の交わりが豊かなひと時でした。
 しかし、思いがけない出来事が起こりました。前回の光テラスを読んだ方が、友人にその話を聞かせてほしいと頼んでいたのです。私は慌てて「彼らはプランターの証の人と別人なんです」と答えました。
事情は理解してくれましたが、話を聞いてみると、せっかくの機会で、私も証を聞けるのを楽しみにしていた、ということで急遽、信徒主催の証会が設けられることとなりました。
 少し外から眺めていると、友人の証に呼応するように、それぞれの信徒が自分の証をし始めていくではありませんか!そしてさらに深く信仰のことや生活について尋ねている人もいました。
 私はまさに信仰の交わりを目撃していたのです。証によって励まされ、養われ、主を求める人々が起こされていったこの機会は、パウロが町々の会堂が議会で、自らが経験したこと、キリストについての知識を伝えていった宣教と重なるものがありました。
 「証」はクリスチャンなら誰もがいつでも携えている最良の交わりの道具です。証を求めることは神を求める者の特権であり、証を語ることは神を確信した者の特権です。神を求め、神を見出すことができる力を、与えられていることを私は主に感謝しました。

    それは、神を求めさせるためです。
    もし人が手探りで求めることがあれば、神を見出すこともあるでしょう。
                            使徒の働き17:27

光テラス No.75

9月22日
 岡山に赴任する前に所属していた教会から友人が私たちを訪ねて来てくれました。8月の教団の集会で、少しだけ話すことはできましたが、お互いに奉仕があり、話す時間がほとんどとれなかったため、久しぶりにゆったりと分かちあう時間を持つことができました。
 過去の教会での過ごし方、今現在の働き、そして将来への展望など、互いに教会に仕え、働くものとしての気持ちや考えていることを話しながら、祈ることができました。
 せっかくなので、教会の活動であるプランターで、証をお願いしました。テーマは「私の罪と救い」としました。自分の弱さや負債についても主が働かれることについて語ってくれたらいいな、と思っていました。しかし、そこで友人が語ったことは、親に対して赦せない、和解できない自分の素直な姿でした。
 神を信じてイエスキリストにあって、自分は神と和解ができましたが、この地において自分は和解しなければならない相手を赦せないでいる。御言葉に生きようとするがゆえの彼女の葛藤が証から溢れていました。彼女の苦難と忍耐は、神と向き合わざるを得ない証という機会を通して光に照らされることとなりました。
 主を信じているからこそ、通らなければならない道が示されることがあります。しかし、その道を避けずに通るなら、そこに働かれる神への確信と希望が与えられることでしょう。

    苦難が忍耐を生み出し、忍耐が練られた品性(確信)を生み出し、
    練られた品性(確信)が希望を生み出すと、私たちは知っているからです。
                               ローマ 5:3~4

光テラス No.74

9月15日
 桜が丘に来てから初めて、記念会にて奉仕を行いました。この世の命を終えられ、天の御国で過ごしている家族を思いながら、親族が集い、ともにおられる主に祈りをささげ、御言葉によって慰めや励ましを受けるときが記念会です。実家の家業である仕出し屋の影響もあり、仏式の法事の様子は数え切れないほど見てきましたが、実は私にとっても記念会はほとんど経験がありませんでした。
 神学校にいた時に、葬儀や記念会に重荷を持って牧会されていた牧師からこのように言われたのを思い出します。

「葬儀や記念会は、伝道の格好の場かもしれないが、ぜひ故人の証を大切にしましょう。
 御言葉を通して、故人に証をしてもらいなさい。
 家族は故人の思い出を通して主と出会うことができるような場に整えましょう。」

 記念会に来た人の顔を見ると、教会への違和感はなく、家族が再会し、子どもたちが成長し、新しい命に感動し、みな笑顔で過ごしていました。その場に呼び集めたのは記念会の中心となる故人です。死を迎えてもなお、記念会を通して、多くの親族が主の前に呼び集められたことは、地上の歩みがいかに愛に満ちておられたのかを感じました。
 その愛を見たとき、それが信仰によるものであること、その信仰によって、天に希望を持ってこの地を旅立たれたことを思うと、主の恵みが変わることなく、私たちに与えられているのだと再確認しました。

    いつまでも残るのは信仰と希望と愛、これら三つです。
    その中で一番すぐれているのは愛です。 
                    1コリント13:13

光テラス No.73

9月8日
 補教師研修会のために浜名湖バイブルキャンプへ行ってきました。教団の歴史や礼拝についての学び、牧会での悩みや課題を分かち合い、先輩の先生方との話し合いなど、内容の濃い3泊4日を過ごしました。
 前半の講義の中で先生がこのように仰りました。「私たちはなぜキリストによって救われる必要があったのか、そして自分が救われたのかを聖書だけを使って説明できるようにならなければなりません。」
この言葉を聞きながら、私は次のことを思い巡らしました。
『一人ひとりの生い立ちの中で、さまざまな影響を受けているからこそ、それぞれの人生に共通した教え=聖書がなぜ必要で、すべての人が悔い改める必要がどこにあるのかを確信を持って伝えることができなければ、その人が信仰を持っているかどうか見極められないだろう。』
 牧師の責任とは洗礼を通して、その人の信仰に責任を持つことです。補教師である今のうちに私が学んでおかなければならないことがたくさんあることを知りました。信仰を決心する人に覚悟があるように、洗礼を授ける牧師にも、その人の信仰に責任を取る、証人となる覚悟がいります。その覚悟を持つためには心情や信仰だけでなく、知識を持って言葉で言い表せなければなりません。
 牧師になるまでの最短期間である3年のちょうど中間地点。これから歩む道のりと超えなければならないハードルの両方を与えられた研修会となったことに感謝しています。

    ですから、兄弟たち。
    自分たちの召しと選びを確かなものとするように、
    いっそう励みなさい。
    これらのことを行っているなら、
    決してつまずくことはありません。
                    2ペテロ1:10

光テラス No.72

9月1日
 御言葉を読んでいる時、私には悔い改めることがあることに気付かされました。思い出された場面は奨学金を借りていた神学生時代のある時期のことです。私は裕福な生活などできるわけもなく、節約をしつつも、奨学金で学費と生活費をまかなっていました。多額のお金を借りていたこともあり、献金をするにも、借りたお金から出すのなら自分が破綻してしまうのではないかという言い訳をしながら、献金をしていない時期がありました。ほかにも理由を挙げればいくつも思い浮かびますし、その時期が長かったわけではありません。しかし今、聖書を読んでいたとき、御言葉から問いかけられました。

「あなたはそのお金を主に仕えるために借りたのではないのか」

 私は自分の思いを主が責められたことに気付きました。私は主に仕えるために借り、献金できずにいたお金を、ストレスの発散や自分のケアという名の欲望にはささげていたことが思い当たりました。これらのことにお金を使う時、神を見ている自分がいなかったのです。
 教会で働いている現在でさえも、主に仕えるために備えるのではなく、ただ欲に負けて使ってしまう自分がいることに失望しました。献身をしたのに、何も変わっていない。主のために生きると決心したのに、それができていない自分が情けない、と恥ずかしくなりました。
 だから今、改めて私はこの罪を告白し、祈ります。主よ、私の罪を赦してください。あなたに向けるべきものを私へと向け、自分のものとしてしまっている私を赦してください。

    その人たちの最後は滅びです。
    彼らは欲望を神とし、恥ずべきものを栄光として、
    地上のことだけを考える者たちです。
                     ピリピ3:19

光テラス No.71

8月25日
 月曜日、夫婦で岡山市内へ買い物に行こうと車を走らせていると、前方で「カラカラカラカラ」という音が鳴っていることに気がつきました。一度車を停めてフロント部分を開けて確認したり触ってみたりしても、特に異常が見つかりません。そのため、翌日に車の点検のお願いする電話だけし、目的地に向けて走ることにしました。異音はしていましたが、走行には問題がなく、目的に着くことができました。
 午後9時頃、買い物や食事を済ませて帰ろうとしました。状態は相変わらずなので、なんとか家までもって点検に出したいと思いましたが、大通りから橋にかかる手前で異常のランプが点灯しました。そしてその後すぐにエンジンの異常を知らせるランプが点灯しました。橋の途中だと大渋滞となるため、橋から下った合流地点までは何とか移動し、車を停めました。
 修理屋さんへ電話し、レッカーを呼んで待っている間、何もできず、ただ、車が爆発や大きな故障がないように祈りました。そして30分ほどしてレッカー車が到着しました。運転手の奥さんも妊娠中ということで妻にも配慮してくださり、車を修理屋に運ぶだけでなく、私たちも家まで運んでもらいました。修理屋さんは翌日すぐに代車を用意してもらい、修理代も格安にしてもらい、かつ2日後には車はピカピカの状態で戻って来ました。レッカー代も保険に含まれたので幸いです。
 大きな試練は与えられましたが、沢山の人々の守りと献身に支えられていることを実感する経験となりました。

    試練に耐える人は幸いです。
    耐え抜いた人は、神を愛する者たちに約束された、
    いのちの冠を受けるからです。 
                     ヤコブ1:12

光テラス No.70

8月18日
 5年に一度の青年宣教大会「フロンティア2019」に参加してきました。日本全国から大学生・30代までの社会人に加え、中高生が集い、3泊4日のキャンプが東京で行われました。
 「CONNECTED(コネクテッド)~きっとつながるYou&ME」というテーマで神と深くつながり、信仰の仲間とも新しいつながりが生まれることを願いつつ、多くの祈りと準備によって迎えられました。
 語られたメッセージの中で、私がとても共感した話がありました。

『人を部屋に入れるということは、見せたくないものや片付けられていない状態を見せることになる。それが恥ずかしいと思うでしょう。キリストを招き入れるなら余計に「待ってください、今片付けますから」と言い、きれいな状態を見せたいでしょう。しかしその状態のまま迎え入れましょう。キリストはその部屋を見てがっかりして帰ることはありません。キリストはその部屋を一緒に片付けて、捨てるべきものを捨てられるように手伝ってくださいます。私たちは自分で片付けると言って今までできなかったことを認め、その部屋の扉を開けることにしましょう。』

 私は胸を打たれました。今まで、何かしらの理由をつけて「もうちょっと待ってください。今準備してますから」と言い続けてきた自分の態度が、門を叩くキリストを門前払いし、拒んでいたことに愚かさを感じ、反省しました。部屋がきれいなことよりも、部屋にキリストがいることの方が、比べる必要もないほど、幸いなことです。

   「ザアカイ、急いで降りて来なさい。
    わたしは今日、あなたの家に泊まることにしているから。」
                          ルカ19:5

光テラス No.69

8月11日
 我が家では現在、毎日の聖書の朗読とは別に、毎月1回家庭礼拝の時間を持ち、互いに聖書のみことばを分かち合いながら祈りの時間を持っています。あらかじめ準備しておいた話をするときもあれば、その場で分かち合いながら、思いを深めていくこともあります。
 今回は妻がこの家庭礼拝を準備し、語ることになっていました。1曲賛美して、みことばを読んで、妻の話を聞き始めました。
 初めは、なぜこの聖書箇所を選んだのか、最近私たちが話し合ったことをもとに選んでいるのか、それとも課題を示しているのかと思い巡らしながら話を聞いていました。
 その思い巡らしの中で自分に語りかけてくる声がありました。
「あなたの思いは正しいと言える。
しかしそれで人は傷ついていないだろうか。
いのちを失っていないだろうか。」
 思いはあってもその形式が御心に適わなければそれもまた罪。このことばに動揺を覚えました。「やり方」は正しくても行う人々の気持ちや信仰を傷つけていないだろうかと自問自答し始めました。そして、主日の朝の学びのクラスで初めて自分の救いと献身の証をしたときの気持ちがよみがえり、こう思いました。
 「あぁ、私は福音を教えよう、伝えようとはしていたけれども、
  主に救われた喜びを伝えていなかったなぁ」
 悔い改めるきっかけが与えられ、感謝な家庭礼拝となりました。

    私は福音のためにあらゆることをしています。
    私も福音の恵みをともに受ける者となるためです。
                    1コリ9:23