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みことばはみがき No.129

   ローマ 15:29
   あなたがたのところに行くときは、
   キリストの祝福に満ちあふれて行くことになると
   分かっています。
 
 限られた環境の中で人に会える喜びを感じた一週間でした。
 初めに、急遽参加することになった教団の研修会では懐かしい先生方、ともに学んできた同期や先輩後輩、お世話になっている地元地域で牧会する先生、そして教団の理事の先生方と顔を合わせて挨拶することができました。

 コロナ禍で研修会がリモートになったり、子育てて参加することが難しく見送ったりしたため、面と向かって一言交わすのがこれほどワクワクするものかと思いました。残念ながら家族の体調不良で1日目の夜に会場を出て帰って来ることになりましたが、1日でもこの機会が与えられたことが本当に感謝でした。

 2つ目は韓国から義両親が来たことです。子どもたちの顔を見て喜ぶ二人、義両親と一緒にいることで笑顔になる子どもたちを見ていると、会って過ごす恵みは計り知れないと思いました。

 最後は、ミルトスの講演会にて、講演者である森下辰衛先生が語られた言葉です。「祈りは受け取る人のところまで届けられる」との出会いは私にとって忘れられない出会いとなりました。

 顔と顔を合わせて話す時間はわずかでも、そこで交わした言葉や思いはしっかりと伝わるものだと確信し、私もまた心に残る言葉と出会いを与える者になりたいと思いました。


    顔を確認することに喜びを感じるのではなく
    関わりを持てていることを確認できるのが喜び

みことばはみがき No.128

   マタイ 7:14
   いのちに至る門はなんと狭く、
   その道もなんと細いことでしょう。
   そして、それを見出す者はわずかです。

 子ども3人生活が始まってすぐ、妻の母が来てくれました。急遽のことで大した準備をすることはできませんでしたが、妻と上の2人の子たちは迎えに関西空港まで行ってきました。
 連休最終日ということもあり、きっと電車も混むだろうと予想しながら、岡山駅まで送り、帰りにショッピングモールによって買い物して帰ろうかと思っていました。しかし、交差点に差し掛かると駐車場に入るための長い渋滞が反対車線に見えたため、諦めて家に帰ってきました。

 昼に出発したため、帰りは夜になるとは思っていましたが、義母と合流後の電車の運行にかなりの遅れが生じて、予約していた新幹線にも乗れず、その後の便の自由席で子どもを抱えて立っていたことを後になって聞きました。
2
 2時頃にようやく家の前に到着したタクシーからは、起きそうにないほど深い眠りについていた子どもたちと、疲れ切って何とか辿り着いたという表情の妻と義母が降りてきました。

 本当はもっと楽に来させたいと思いつつも、孫に会いたい気持ちを最優先に、妻の配慮の中でみんなが頑張って過ごした姿がそこにはありました。


    いかに楽に辿り着くかを考えるのが配慮
    相手の喜びのために険しい道のりを歩むのが愛

みことばはみがき No.127

   ガラテヤ 3:26
   あなたがたはみな、信仰により、
   キリスト・イエスにあって神の子どもです。

 北海道に息子を迎えに行きました。二か月ぶりに会った息子の表情はとてもうれしそうでホッとした半面、ちょっと時間が経つとなんでいつもと違うの?という表情も表すようになりました。
 お世話になった家族と離れる時に悲しむほど、状況をよくつかむことはできていなかったため、意外と移動はスムーズでした。

 しかし、家に帰って来ると、その穏やかな状況は一変しました。そこには自分よりも幼い弟の姿があったからです。今まで生で見たことのなかった弟の存在と今まで自分中心に動いていたはずの親の様子に明らかに動揺していました。
 自分のことを見ていた両親が小さな子どもを抱っこし、自分が使っていたはずの哺乳瓶を加えて飲んでいる弟に、まるで何かを奪われたかのように大声を上げて号泣したのです。

 痛みではないものでこれほどまでになく息子を今まで見たこともなかったため、私も動揺しました。切替ながら、息子たちを別室にして寝かせることにしました。

 家族を受け入れることは、目の前も現実があっても受け入れることが困難な時期もあるのだと身をもって知りました。それはやはりこれまでの関係が変わってしまうからなのだと思いました。


    生まれれば家族となるわけではなく
    関係を受け入れることで家族となる

みことばはみがき No.126

   ローマ 16:3-4
   キリスト・イエスにある私の同労者、
   プリスカとアキラによろしく伝えてください。
   二人は、私のいのちを救うために自分のいのちを危険にさらしてくれました。
   彼らには、私だけでなく、異邦人のすべての教会も感謝しています。

 主日礼拝に開拓宣教をされている先生をお迎えする機会をもてました。これまで、タイ宣教や東北宣教をされていた先生はリモートにて、台湾宣教をされていた先生は平日のプランターにお越しくださり、恵みと祈りを分かち合ってくださりました。

 宣教報告を分かち合える恵みは救いの喜びを分かち合うことのできる大切なひと時です。神に用いられていること、救いの現場に証人としていられる恵みは宣教者の使命を果たしていると感じるものでしょう。
 その一方で、宣教をしてもなかなか実りにつながらない時期に宣教報告を行うことの難しさも想像できます。何か良かったことを伝えたくても、受洗者や新規礼拝者がいない時期に喜びをもって実りを伝えることはなかなかできるものではありません。

 私たちの教会が、もし今の状況で他の教会の方々に宣教報告をするとしたらどんな点なのかと想像した時、きっと救いの実りだけでなく、豊かな交わりの感謝や一人一人が神との関わりを深めてきた恵みを伝えるのだろうと思っています。


    宣教報告は実りの結果だけでなく
    主につなげられ養われていた感謝の証である

みことばはみがき No.125

   1コリント 12:6-7
   働きはいろいろありますが、
   同じ神がすべての人の中で、
   すべての働きをなさいます。
   皆の益となるために、
   一人ひとりに御霊の現れが与えられているのです。
 
 妻と息子が産後ケアセンターに3泊4日でお泊りしてきました。一時的に子どもを預けて体を休めたり、ケアをしたり、自分らしい時間を過ごすことができたと聞いて、有意義な時間となったことをうれしく思いました。
 韓国には産後調理院と言って出産直後のからだを休ませて回復していき、誕生したばかりの赤ちゃんを専門的な管理のもとで1~2週間養育していく施設が浸透していますが、日本にはまだ少なく、今回訪れた施設も県内初とのことでした。

 二人が宿泊中、私は娘と二人の生活で家事や育児の負担が増えるものと覚悟していましたが、実際には朝のお弁当や晩ご飯を準備するくらいで、日中は静かな空間で過ごすことができました。
 さらに何よりも大きかったことが、夜にしっかり寝られたのです。ミルクのために2~3時間おきに起きたりあやしたりすることなく、体を休めることができました。

 施設を利用している妻もケアされつつ、このサービスを利用している私も間接的にケアされていたことを知りました。そしてこれは福祉的な制度として形にされた愛だと感じました。


    愛ある奉仕はその人に愛を与えるだけでなく
    周りの人にも愛を分け与えている

みことばはみがき No.124

   エレミヤ 29:11
   わたし自身、あなたがたのために立てている計画をよく知っている
   ──主のことば──。
   それはわざわいではなく平安を与える計画であり、
   あなたがたに将来と希望を与えるためのものだ。

 これまでに何度か「キリスト教に入りたい」という言葉を受けたことがあります。その言葉の裏には、「入っていた」宗教の在り方に疑問を抱いたり、組織の責任者によって苦しみを受けた経験を通して、その宗教から離れたいけれども何かにすがりたい思いはあるということなのだと理解しています。

 何かを信じていても報われない経験、そして信じていたものが間違っていたのではないかと知る経験。それらを想像すると何とも言い難い気持ちになります。
 それだけに、信仰は苦しみを取り除く道具ではなく、苦しみのうちに希望と平安を与えるものだと伝えなければなりません。

 どんなに苦しみを持ってキリストにすがりたいと願っていたとしても、主の前に背を向け、神に対して傷つけてきた自分自身の罪を認めなければ、神と和解することなどできません。

 救いを急いで求めている人に、悔い改めなさいと声をかけるなら、きっと驚かれ、嫌な顔をされるのではないかと想像してしまうのです。だからこそ主ご自身が働かれ、その方にキリストとの出会いが与えられることを祈りながら、語りたいものです。


    主の救いは苦しみからのものではなく
    神に対する罪からのものである

みことばはみがき No.123

   詩篇 130:1-2
   主よ 深い淵から私はあなたを呼び求めます。
   主よ 私の声を聞いてください。
   私の願いの声に耳を傾けてください。

 病院に入院中だった息子が晴れて退院することができました。予定より早く生まれ、体の成長がまだ整っていなかったこともあり、しばらくの間様子を見ながら、家に帰る時を待ち望んでいました。

 ミルクを届け、面会するために家と病院を往復する日々は終わりを迎え、いよいよ息子の育児の本番を迎えました。とてもうれしい反面、何かあってはと気を張った結果、寝言や泣き声に敏感になり、深くは眠ることができない日々を過ごすことになっています。これが育児ってもんです。

 そう考えると、私たち自身もわからないうちに主にSOSを送ったとしても、いつでも反応できるように、主は絶えず臨戦態勢でおられることに気が付きました。
 赤ちゃんは泣くことでしかSOSを出せませんし、それに応えることができるのは親や医師などわずかです。大人になれば、相談する相手があり、愛し合う家族や仲間もいます。しかし私自身のいのちの叫びは、いのちを与えてくださった神しか届けるところはないのだと学ぶ育児の始まりでした。


    育児から始まる育自
    養う者が養われる恵み

みことばはみがき No.122

   ローマ 12:4-5
   一つのからだには多くの器官があり、しかも、すべての器官が同じ働きをしてはいないように、
   大勢いる私たちも、キリストにあって一つのからだであり、一人ひとりは互いに器官なのです。   
 
 ジョイフルサマーホリデーが3日間行われました。昨年と日程や形式は変わりましたが、大人も子どもも一緒に遊び、食事をともにしました。それぞれが忙しい中でも準備し、献身的に奉仕し、子どもたちに寄り添いながら楽しんで姿に、心から喜びが湧き起こってきました。

 全体の計画をする人、子どもと遊ぶ人、料理のまとめをする人、材料を献品する人、調理の手伝いをする人、喜んで食べる人、嬉しそうに会話する人、片付けをする人。そして何より楽しそうに過ごす子どもたち。

 暑い中で疲れやすい状況の中、それでも教会に来て楽しみ交わり奉仕する方々は、神の国の民の姿なのだと感じました。それは教会が単に人々の居場所となるということを超えて、御国を味わう場所となっていたのだと思います。

 そんな御国を味わう教会に、もっとたくさんの人に来てほしい!そう強く願いつつ、祈りの足りなさを痛感した夏の後半となりました。活動を考え、仕える時間と同じくらい祈りに静まる決意をした、大切な機会となりました。


    神の国の半分は愛で
    もう半分は信仰で味わえる

みことばはみがき No.121

   ヨハネ 3:1-2
   さて、パリサイ人の一人で、ニコデモという名の人がいた。
   ユダヤ人の議員であった。この人が、夜、イエスのもとに来て言った。
 
 宣教区の有志の学び会が行われました。今回初めて私が学びを担当することになりました。
 学びのテーマは「青年の思考について」でしたが、牧会経験豊富な先輩教師たちを相手に私の経験だけで学びとなる材料を提供できるのかと不安になる部分もありました。

 しかしながら、せっかくいただいた機会を大切にしたいと思い、青年部としてこの数年奉仕してきた内容とキャンプを通して関わった青年たちの様子から、彼らのコミュニケーションの取り方や考え方、メディアへの関わり方などをまとめました。
 情報を伝えた後に、感想を分かち合う中で、大きな気づきを与えられました。それは「本当にコミュニケーションが内向きな青年はキャンプに行かない」ということでした。

 キャンプで交わりが少ない人や新しい仲間との世間話が苦手な人でも、キャンプの内容や出会いに期待しているからこそ参加したのでしょう。同じように教会に来てからが信仰生活の始まりではなく、教会に来ている人はすでに大きな壁を越えて信仰に歩み出しているのだと改めてその恵みに感謝しました。


    信仰の壁は神のことばにあるのではなく
    人が作ったものによって立っている

みことばはみがき No.120

   マタイ 25:25
   それで私は怖くなり、出て行って、
   あなた様の一タラントを地の中に隠しておきました。
   ご覧ください、これがあなた様の物です。
 
 
 入院していた妻が退院しました。それは第三子が生まれたと同時に、親子で退院することはできない状況でもありました。
 予定よりも1か月以上早く生まれたことで、息子はまだ入院中ですが、毎日少しずつ元気に成長していることを報告してもらう中で、だんだんと喜びが広がっています。

 一方で完全に喜べるかというと複雑な思いもあります。息子がまだ退院せず家に来ていないこと、上の息子が岡山を離れて北海道にいることで、家族が全員揃っていないためです。
 喜びが完全になるのは二人の息子が戻ってきたときです。ただ、それまで寂しさに打ちひしがれているわけにはいけません。私の家にはまだ二人の家族がいるからです。全員が揃う時まで、寂しさに負けないように励まし、支え合って前に進まなければいけません。

 いない人に目を向け続けるなら、目の前にいる人のいのちが疎かになってしまいます。一人にばかりに固執してしまうと、他の人の声が届かなくなってしまいます。家庭の舵を握る最も基本的な責任者として、まず前に進みたいと思っています。


    前に進まない船の舵を握ることは
    ままごとと一緒である