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光テラス No.68

8月4日
 最近の暑さなのかぐったりした日が多くなってきました。それの影響なのか、自分の気持ちもなんだか重たくなってしまうことも増えてきてしまいました。時間が経っても思うように進まない仕事を見て、自分に嫌になってしまうこともありました。
 そんな時、気分転換にカフェに行って作業することもあります。ある日、カフェで作業を終えて、聖書を開きました。普段は読まない箇所を開いてゆっくりと読んでいくと、いかに自分が信仰よりも思考(認識)にばかり囚われていたか、と感じることになりました。
 主人は意図を持って雇い人を動かすが、雇われた人は主人の思いをすべて知ることはできないし、教えてもらえないことがあります。そんなとき、雇われた人に求められるのは理解ではなく、従順です。指示された内容や意図が理解できなければ動けないのではなく、理解できなくても従うことを求められていることは「わかる」なら、主人のことばを信じて動くことが正しい応答だと気づきました。
 私は、なぜ自分が動けないのか、その原因を理解しようとし、その原因を解決できるなら、動けるようになると思っている自分がいました。気づくと、与えられた役割ではなく、自分の動けない原因探しに目を奪われていました。
 わからないなら、わからないなりに、言われた通りに前に進めばいいんです。私にはキリストという最も信頼できる主人が導いてくださっているのですから。

    あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。
    ですから、自分のからだをもって神の栄光を現しなさい。
                       1コリ6:20

光テラス No.67

7月28日
 近隣の教会に韓国からの宣教チームが来たため、妻の期待もあり、一部の行事へ参加してきました。教会での交わりといっても外国の地方で、同じ国の方と母国語で会話ができることは簡単なことではありません。いろいろな話ができることを楽しみにしていたようです。
 料理を準備してくださり、食事をともにした後、ゴスペルやメッセージ、ゲームなどを行って過ごす中で、何気なく会話ができることや片付けの時間に部長の先生と宣教のことについて深い話を聞くことを通して、私も妻もとても励まされました。
 思えば私が4年前に韓国の地方へ宣教師として1年間派遣されたとき、前任者である先輩が「何もできなくても、いるだけでも十分」と言っていたこと、そして実際にその地で信徒の方に「先生とこうやって日本語で信仰の話ができることがうれしい」と言われたこととよく似た光景でした。
 このことばを思い出したとき、存在の素晴らしさは関係が育まれることで初めて気づくのだと感じました。どのような方がどのような活動をしたから素晴らしいのではなく、「ここに」「私に」会いに来てくれたことに感動します。そして関係をもってくれたことに感謝します。そこには自分にふさわしい資格や努力の実績があるわけではありません。だからこそ大きな愛と恵みを感じるのだと思いました。

    「ザアカイ、急いで降りて来なさい。
     わたしは今日、あなたの家に泊まることにしているから。」
    ザアカイは急いで降りて来て、喜んでイエスを迎えた。
                        ルカ19:5~6

光テラス No.66

7月21日
 2階で作業をしているとき、一息つこうとして下へ降りていくと、妻が傘をさして道路脇に立っていました。よく見るとその傘は自分ではなく、一人の女性の上にありました。大粒の雨が降りしきる中、傘をさしながら、その女性の話を聞き、見守っている姿がありました。
 戻ってきた妻に話を聞くと、その女性は認知症の高齢の母親と一緒にバスに乗ろうとしたけれども、カバンの中に探し物をしていて目を放した隙にいなくなっていたそうです。周りを見渡してもいないおらず、周辺の人に尋ねて得た情報を頼りに坂を上ってきたそうです。
 玄関先で散歩をしていた妻は誰も坂を歩いて上ってきていないことを知っていました。女性に尋ねられたときに、傘をさしながら、女性のそばに寄り添い、話を聞いていました。そしてどうすることもできない彼女に「警察に言ったほうがいいですよ」と提案したそうです。
 彼女が警察に連絡するとまもなく、バス停近くのコンビニで見つかったと連絡が入り、教会の駐車場まで迎えに来ました。
 彼女を見送って戻ってきた妻に尋ねました。
「どうしてずっと隣で傘をさしていたの?」
 すると妻はこのように答えました。
「彼女は震えていて一人にしておけなかった」
 焦りと不安で落ち着くことのできない人の隣にいる人としての愛と憐れみ、そして他者を頼る判断が、親子を再会へと導いたのでした。

    あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい。
    わたしは主である。
                 レビ記19:18

光テラス No.65

7月14日
 妻の母が韓国から来ました。短い時間ではありましたが、水曜日にはプランターの時間に証をしてくださり、家族としての関わりについて妻も交えいろいろと話をすることができました。
 自分の子どもが結婚して海外にいくというのは、いつの時代でも不安が大きさは変わらないでしょう。私の姉もまた結婚をして海外に住んでいるため、少しばかりはその気持ちに気づくことになりました。
 身近にいる親子であれば結婚をしても頻繁に会うことができる一方、海外まで離れてしまうと、顔を合わすのは年に1~2回あればいい方で、場所によっては数年間直接会えないこともあります。そんな時、親としては何もしてあげられない、申し訳ないという気持ちが沸き起こってくるのだと思います。
 ある平日の話、午前と午後の教会の活動や会議を終えて階段を登ってドアを開けると、とてもいいにおいがしてきました。料理をしていたのは妻の母でした。わざわざ娘に会いに来たけれども、妻がバイトでいない時間ができてしまったのですが、その間に娘のために母の味を残して置こうと手際よく調理していました。
 海を越えて娘に会いに来て、奉仕する母。休めばいいのにと思いながらも、限られた時間の中で娘のために何かできないかと勤しむその献身的な姿に、母としての強い愛と献身者としての模範を見ました。

    あなたがたは悪い者であっても、
    自分の子どもたちには良いものを与えることを知っているのです。
    それならなおのこと、
    天におられるあなたがたの父は、ご自分に求める者たちに、
    良いものを与えてくださらないことがあるでしょうか。
                           マタイ7:11

光テラス No.64

7月7日
 倉敷市真備町にある「まびくら」に訪問してきました。まびくらは、昨年の7月の西日本豪雨災害後、岡キ災が立ち上がり、支援活動を開始し、12月に地域支援と交わりの拠点として「まびにくらしのぬくもりを」をテーマに開設されました。
 私自身は1~2ヶ月に1度のペースではありましたが、継続的に足を運び、微力ながらお手伝いをさせていただいています。今回は教会の方々と一緒に訪問することができました。
 まびくらに到着すると、館内を見ながら、常任スタッフの方に質問したり、支援の記録に見たりしていました。すると、スタッフへの「なぜここで働くことにしたんですか」という問いをきっかけに証が始まりました。その証の中で私たちの心を打った言葉がありました。
 
「思いがけないきっかけではあったが、人助けをしていく中で、
 救われたのは自分でした。それは神様がいるとしか考えられない、
 奇跡の連続でした。」
 
 自分の歩みを振り返ったときに、否定できない奇跡のような道のりを受け入れた彼の表情は、まさに新しいいのちが与えられ、枯れることのない希望が泉のように溢れているようでした。
 彼にとっての支援とは他人を助け、救うものでありながら、自分を救いへと導く手助けでもあったことに、感動しました。

    真理を行う者は、その行いが神にあってなされたことが
    明らかになるように、光の方に来る。
                      ヨハネ3:21

光テラス No.63

6月30日
 教会の創立記念礼拝の後、一人一品の持寄りによる愛餐会があり、午後はティータイムを持ち、教会の現状と未来を考えて共有しました。近いうちに直面するであろう課題をともに考え、今わたしたちの信仰生活において足りない部分が見えてきました。
 ティータイムを終えて片づけをしていると、余っていたおやつをどうしようかと頭を悩ませている奉仕者の方々が4~5名いました。そこで私にこのように声をかけてくださりました。
 「先生、よかったらこのせんべいとクッキーが残っているので
持っていかれませんか?」
 持寄りの食事会をした後には、食べ切れなかったものを持ち帰るというのはよくある話です。私もどうしようかなぁと思っていると隣にいた妻がこのように答えました。
 「あ、このクッキー、先生が作ったものなのでうちはいいです。
  みなさんでよかったらどうぞ。」
 すると、直前まで誰か持って帰ってくれないかなと悩んでいた全員が、我先にとクッキーに手を伸ばしながらこう言いました。
 「あら、先生が作ったんですか!それはいただかないと!」
 単に私が焼いたということに気を遣ってくださったのかもしれませんが、クッキーに一つのストーリーが見出されたことで、それに対する見方が180度変わった光景に、驚きつつ笑顔になりました。

    わたしが与える水を飲む人は、いつまでも決して渇くことがありません。
    わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、
    永遠のいのちへの水が湧き出ます。
                              ヨハネ4:14

光テラス No.62

6月23日
 西日本宣教セミナーに参加してきました。中国地方5県の教職者連合会が主催する2泊3日のセミナーが米子で開催されました。教会や教団の研修会や神学校の関連ではない外部のセミナーに参加するのは初めてで、どのような方がいるのか、どのような学びがあるのかもさっぱり想像がつかない中、不安もありましたが、主任牧師も行くということで、挨拶はできるだろうと思いつつ、申し込みをしました。
 すると、岡キ災や委員会などで知り合った先生から一緒に行かないかという声をかけていただいたことで、会場に着く頃にはとても親しくお話ができるようになりました。一人ぼっちの心配はどこへやら。
 会場の教会へ到着すると、「礼拝」ではなく「おもてなし」から始まりました!毎回参加者たちの心をホッとするように準備し、その後の学びと交わりが豊かになるように配慮されたものが、このウェルカムタイムでした。この時間を通して、まだ大した話もできていない私が「どんな人であるか」を見て受け入れるのではなく、まず「この場に来ているあなたを歓迎します」と門を開いてくださったことで、先輩教師たちの輪の中であっても私自身の心の扉は完全に開きました。
 3日間のセミナーの後、来年度は山口県、再来年は岡山県が担当することになるというスケジュールを聞き、私の心はどのようなおもてなしを企画しようかという期待が膨んでいました。
 礼拝する人たちを迎える気持ちは自分自身が迎えられたことの経験から来る感謝と喜びからも湧き起こるものだと改めて知りました。

    わたしは門です。
    だれでも、わたしを通って入るなら救われます。
    また、出たり入ったりして、牧草を見つけます。
                   ヨハネ10:9

光テラス No.61

6月16日
 赤磐市の福祉施設「桃の里」さんへ訪問賛美に行ってきました。私がここへ赴任する前から訪問賛美が行われ、私自身も3度目の賛美訪問となりました。
 1時間ほど早めに教会に集まって練習をしていると、動きや歌いだしのタイミングに不安を感じ、心配そうにしている人が何人かいました。そこで、できるだけ単純でわかりやすい形で行えるように提案し、不安を覚えていた方も一安心して、施設へと向かいました。
 施設での賛美の時間は30分ほどでした。短い時間の中でも笑顔で歌っている姿がとても印象的でした。プロの演奏家や専門家たちによる歌声とは比べられませんが、心で歌う、笑顔になる賛美がそこには生まれ、施設の方々も一緒になって歌おうとされていました。
 最後の曲となり、1回歌って挨拶をしにいく時のことです。戻ってくるタイミングや歌のリズムなどに不安がと言っていた曲です。施設のご利用者の方に挨拶をしていると私じゃないところで「先生!先生!」と声がしてきました。振り返って見た先には、訪問賛美をしたメンバーとご利用者の方とは以前から知り合いで、趣味を教えていただいた恩師でもあったそうです。思わぬ再会に喜びが溢れ、うれしさいっぱいで終わりました。教会への帰りの車の中でこのように話してくれました。
「今日私がここに来たのは神様の導きでした。」

   「 この水を飲む人はみな、また渇きます。
しかし、わたしが与える水を飲む人は、
いつまでも決して渇くことがありません。
私が与える水は、その人の内で泉となり、
永遠のいのちへの水が湧き出ます。   」
             ヨハネ4:13~14

光テラス No.60

6月9日
 オリーブの活動が始まりました。デイサービスや介護施設に行くことのない孤立しやすい高齢者が集まり、交わる居場所として用いられていきたいとの願いと祈りをこめて計画し、備えてきました。
 教会に初めて来られた方と一緒にちぎり絵をしながらお話をして過ごしていると、あっという間に時間が過ぎていきました。何かをするために教会に来るのではなく、私たちがいる場所どこででも人と神様がつながることができるなら、本当に幸せなことだと思いました。
 次の週、妻と二人で、夜のカフェでお茶をしながら、聖書の内容について意見を交わしていると、一人の男性が私たちのテーブルに来られて、「興味深い話をしていたので、気になった。」と言ったので、話を聞くことにしました。
 話を聞いていくうちに、彼の悩み苦しみ、そして愛に対する実直さと不器用さが伝わってきました。私も話を聞きながら胸が苦しく、そして熱くなりました。そして私は初めて、「あぁ、神様。彼はあなたに救いを求めています。どうか私たちを用いてください。彼はまだ、あなたのことを知りませんが、彼こそ救われるにふさわしい信仰を持っています。」と初対面の相手に思いを抱きました。閉店時間を迎えたとき、彼と一緒に祈り、「来週、またこの時間に来ます」と告げ、別れました。
 名前も住所も年齢もわかりません。しかし、確かに神が招いた人であり、神に居場所を求めている彼とまた会うことができますように。

    人の子は、失われた者を捜して
    救うために来たのです。
           ルカ19:10

光テラス No.59

6月2日
 岡山県宣教の集いの講演会に行ってきました。今年度は九州キリスト災害支援センターから横山法路(ぽうろ)師が福音にふさわしい生き方と題して、災害支援の意義やキリスト者の信仰の在り方を語ってくださりました。
 その中で、キリスト者たちが、みなが共通に抱えている社会的な課題に対して、問題提起をするような方法で取り組んでいた歴史があることを語ってくださりました。疫病が流行っていた際に、いのちがけで看病し、神の愛を示してきた姿は多くの人の心を動かしました。一方で、このような行動ができるのは、キリスト者たちが永遠のいのちの価値を知り、愛を分かち合うコミュニティに属していたからだと説明しました。確かにキリストこそ、自分のいのちをいとわずに神に仕え、十字架にかかりました。その姿は無力でしたが、そこに最大限の神の働きがありました。
 講演後、横山先生に質問をしました。「災害を支援する者にとって、最も大きな収穫は何でしょうか?」すると、先生はこのように答えました。「自分が無力であることを知ること。そして無力である自分を用いてくださる神の働きを、身をもって実感すること。」
 先生の答えは、キリストの十字架上の姿と一致していました。そして、答えている先生の目は輝いていました。その時、災害支援先の人たちから「キリストさん」と呼ばれていた理由が少しだけわかりました。その瞳を通して、キリストの人格が見た瞬間でした。

    わたしを見る者は、
    わたしを遣わされた方を見るのです。
             ヨハネ12:45