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光テラス No.58

5月26日
 先週行った、高校生のためのキリスト教集会hi-b.a(ハイビーエー)の集会の終わりに互いに祈りあうときを持ちました。それぞれの祈祷課題を伝え合うとき、私は同世代の男性と気軽に話ができ、信仰について語ることのできる友達が与えられるようにと伝えて祈りました。
 集会を終え、教会員を訪問して家に帰っていたとき、災害支援の奉仕で知り合った同い年の男性から「今度ご飯一緒にどうですか」とメッセージが入りました。私は「祈りが聞かれた」という思いと「早いな!」というツッコミを神に対してしていました。本当に驚きです。
 週明けに彼と会って食事をしていると、職場や立場や周囲の関係を気にしないで(緊張せずに)何でも話せる友達がほしかった、と彼が言いました。そこで私は先週の光テラスの御言葉を思い返しました。
 私の祈りは確かに聞かれました。しかし、この御言葉は彼の思いと信仰によって聞かれたものでもあるのです。むしろ彼の祈りに私が用いられたと思ってもいいかもしれません。
 神は決して一人だけの祈りを聞かれる方ではありません。御心にかなったものを、そして心の深くにある本質的な願いを探り、かなえてくださるお方だと思いました。だからこそ帰り際に、私はこの出会いに関して、互いに魅力ある存在としてほめあうのではなく、引き合わせてくださった神に感謝し、神をほめたたえました。

(前回と同じ御言葉です)
    あなたがたがわたしを捜し求めるとき
    心を尽くしてわたしを求めるなら、
    わたしを見つける。
             エレミヤ29:13

光テラス No.57

5月19日
 岡山駅周辺で月2回行われている高校生のためのキリスト教集会hi-b.a(ハイビーエー)の集会に見学参加してきました。3月から新たに岡山地区で集会が開催されることになり、教会に来ている人も参加しているということもあり、一度直接見に行こうと思っていました。
 会場にはこの集会を楽しみに毎月来ている人、時々来ている人、初めて来た人もいました。特に一人は、聖書に興味を持ち、先日初めて教会を訪ね、まだ礼拝に出席したことのない人でした。
 そんな彼が同世代の仲間たちを気軽に話しながら新しい関係を持ち始めていました。一方で賛美が始まると、これまでに想像していたであろう音楽とのギャップに戸惑ってしまう場面も見られました。それでも担当の牧師が「歌詞に注目してみて」と声をかけたのを機に、その良さを味わっていました。初めての曲で聞き慣れていなくても、「僕のソロかな?」と笑いながらギターを弾いている姿を見ながら、どんな人でも触れられる賛美の恵みがあることを改めて感じました。
 集会をプログラムに表すと、ゲーム・おやつタイム・賛美・メッセージ・賛美です。しかしそこにはプログラムには表すことのできない彼らが安心して友達関係と信仰を育める居場所がありました。私たちには信仰だけでなく、信仰による関係も信仰を育める居場所も欠かせないと感じた時間でした。

    あなたがたがわたしを捜し求めるとき
    心を尽くしてわたしを求めるなら、
    わたしを見つける。
            エレミヤ29:13

光テラス No.56

5月12日
 先月に続いてジョイフルホリデーが開催されました。先月来た人、クリスマスに来た人、初めて来た人。特に礼拝という形に戸惑う人もいました。それでも聖書の話をみんなで話し合い、ゲームを通して打ち解けあい、最後には工作で作ったもので遊んでいる姿を見て、子どもだちにとって、教会は決して怪しいところでも変なところでもなく、既に受け入れていることを実感しました。
 たくさんの感動がありました。先月初めて歌った歌を元気に歌っていた姿、クリスマスに渡したパズルのピースを大事にしまっておいて持ってきたこと、最初は引き気味に参加していても、最後は積極的に関わっていたこと。驚きと喜びに溢れた時間でした。
 目の前に与えられたものを一つ一つ考えたり試してみたりしながら取り組む様子に、私自身も信仰によって歩む大切なヒントがあると感じました。
 それは、参加者が打算的にどれほどのメリットがあるかを考えようとせずに活動に取り組むことで、素直に楽しるということでした。打算的に考えて取り組むのではなく、まず受け入れ、自分なりに工夫(応答)してみるのです。メリットや意図は企画者を信頼してお任せです。そうすればその活動に集中してたくさん応答できます。
 私も打算的に考えずにいのちの企画者である神にお委ねして、与えられた人生の中でたくさん応答したいと、子どもたちを見ながら決意を新たにしました。

    神は、みこころの良しとするところにしたがって、
    私たちをイエス・キリストによってご自分の子にしようと、
    愛をもってあらかじめ定めておられました。
                         エペソ1:5

光テラス No.55

5月5日
 ビクトリー2019に参加しました。今年は運営委員として会場や広報を担当し、チラシやニュースレターの編集や発送などを行ってきました。昨年は一人の参加者としてステージを眺めながら、様々な形で表現される賛美の豊かさを味わいましたが、今年はその場を整える働きを担い、下から・外からこの集会を見ることができました。
 何ヶ月も前から練習や調整を重ねてきたバンドメンバーや音響・映像スタッフ、限られた時間の中でできる限りのサポートをする実行員や運営委員の方々、そして前夜に到着し、わずかな時間しかないにも関わらず、よい賛美集会にしようとアイデアを発し、奉仕者一人ひとりを励ますゲスト講師の先生。そこには、仕事では味わうことのできない、豊かな信仰の「空間」が形作られていました。
その舞台に立つのはゲストの講師だけではありません。あらかじめ応募していた様々な教会からのチームたちも同じ舞台にたち、バンドやフラダンス、コーラスを奏でます。確かに全ての出演者たちが完全に聞き心地がよいとはいえないでしょう。
 大きな音やゆったり過ぎるリズム。聞き慣れないていなければ受け入れられないようなジャンルの曲もあると思います。しかし、そこで聴いている人たちはまるで自分たちの家族が発表をしているかのように温かく受け入れている会衆の人たちの様子がありました。
 この様子を遠くから見ていた私もまた、神に感謝と賛美をささげました。

    ハレルヤ。
    わがたましいよ 主をほめたたえよ。
    私は生きているかぎり 主をほめたたえる。
    いのちのあるかぎり 私の神にほめ歌をうたう。
                    詩篇145:1~2

光テラス No.54

4月28日
 久しぶりに映画を見ようと思い、織田信長の後継者争いを背景とした映画のDVDを借りて見ました。すると、武家社会独特の文化が様々な部分に影響を及ぼしていることに気がつきました。
 敵地域の武士同士が道端で出会ったなら、すぐに名乗り、それから一騎打ちをすることが原則で、それを断るなら「御免」と言う姿は、現代では考えられない状況だと感じました。一方で、武家に生まれた女性は、父や夫に逆らうことはできません。そのようなことを考えてもいなかったかもしれません。しかし、女性は限られた方法の中で、自分が思い描いている未来へ近づけようと策略を練っていました。
 その大きな転換点となる要素が子どもでした。『後継者争いに勝ち、立場が変わることで自分の地位や名誉が、さらに高いものとなる』と考えていた人は当時の武家社会には多かったことでしょう。
 映画を見た後、聖書を開いたときに読んだ箇所に、ユダヤ人たちの中で誰が一番偉いのかという話がありました。イエスの弟子たちもまた、自分たちの地位が高くされ、この世の働きが報われる方法を探していたことでしょう。しかし、彼らに与えられたのは自分の子どもではなく、神の子イエス・キリストでした。そしてキリストを通して、ユダヤ人も私たちも天の御国を受け継ぐ者とされました。そして私は「あぁ、天国はふさわしいものが入るところではなく、恵みによって入れてもらうところなんだなぁ」と感謝しました。

    またキリストにあって、私たちは御国を受け継ぐ者となりました。
    すべてをみこころによる計画のままに行う方の目的にしたがい、
    あらかじめそのように定められていたのです。
                            エペソ1:11

光テラス No.53

4月21日
 受難週の1週間をかけて、祈祷会を行ってきました。受難週の祈祷会はイエスキリストの十字架の恵みと復活を覚えて心を合わせて祈り、感謝するときです。祈祷会を告知するに当たり、コンセプトを「できるときに祈る」と設定し、呼びかけてきました。教会が設定した時間帯に来れない人がいれば1年間、受難週もしくは受難日の祈祷会がお預けとなってしまうのはもったいない!そう思ってできる限り日程を合わせられるように「1週間のいつでも、どこでも」できるように準備しました。
 その結果、8件の応募があり、合計22名の方と共に祈りの時を持つことができました。複数の祈祷会に参加した方もいらっしゃいました。私が桜が丘に来てから初めて一緒にお祈りをし、信仰の交わりをする方もいて、ドキドキとワクワクがたくさんありました。
 そして何よりも豊かだったことは1週間続けて手を止めて主の前に祈ることができたことです。慌しく過ぎてしまうことや気分や体調によって祈りの時間が左右されてしまいがちです。しかし、同じ祈りの課題について1週間を通して祈り続けた結果、今の私はいつも以上に身近にいることを実感しています。神様に愛され、赦され、導かれていることを感じながら過ごした1週間は本当に平安です。そしてこのことを多くの人と共有できたことは幸いです。

    何も思い煩わないで、あらゆる場合に、
    感謝を持ってささげる祈りと願いによって、
    あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい。
    そうすれば、すべての理解を超えた神の平安が、
    あなたがたの心と思いをキリスト・イエスにあって守ってくれます。
                          ピリピ4:6~7

光テラス No.52

4月14日
 昨年の4月に赴任してから初めて、教会外で説教をすることになりました。毎年4月末に行われているVictoryという超教派の賛美の集会の決起集会「プレビクトリー3」での奉仕です。
 説教のテーマは何でもいいよと言われましたが、さてどうしたらよいかと悩み始めました。今年度のテーマとにらめっこしながら、どの聖書箇所がよいのか、どのテーマや角度で話したらよいのかを考えていくうちに時間ばかりが刻々と過ぎていってしまいました。
 さらに、主日礼拝の説教との大きな違いに気が付きました。それは、聞く者が見えないということでした。毎週顔を合わせる教会の人たちとは違う、学生や若い社会人が会衆の中心ということを予想しつつも、しばらくその世代へアプローチがなかったことが思い起こされました。
 満足と言えるほどの完成度にはならなかったものの、なんとか説教の奉仕を終えて教会に戻り、この日の奉仕について振り返っているときに、主の計画の中にあったということに辿り着きました。
 この奉仕を通して、私がいかに礼拝に来る人たち「会衆」の祈りとみことばに対する態度によって支えられ、説教台の前に立つことができるのかを大いに感じ、さらに主が私を練るために、普段関わることのできない場へと引き出してくださったのだと感じました。
 祈りと信仰によって与えられた機会は決して私への壁ではなく、主の計画と御心による成長の過程であることを知った奉仕でした。

     私たちはこのキリストを宣べ伝え、あらゆる知恵を持って、
     すべての人を諭し、すべての人を教えています。
     すべての人を、キリストにあって成熟したものとして
     立たせるからです。  
                       コロサイ1:28

光テラス No.51

4月7日
 ジョイフルホリデーが始まりました。小学生3人と幼児2人が教会に集って礼拝と活動をしました。昨年の夕すずみ会で教会に子どもたちが来たのをきっかけに、神様と子どもたちがつながり、子どもたちに信仰の大切さを知ってほしいという願いが募っていきました。
 それから何度も教会で話し合いを進め、この4月から定期的に活動できるように学びと準備をしてきました。奉仕をする人たちがどうすれば子どもたちが聖書のことばを身近に感じることができるだろうと試行錯誤しながら、この日を迎えました。
 ドキドキしながら準備していると、元気な声が聞こえて来ました。クリスマスに来てくれた子どもたちが来てくれたのです。私自身、とてもうれしかったのと安心したことで笑顔が自然とあふれて来ました。
 礼拝のとき、イエスがぶどうの木で、私たちがその枝ですという聖書の話をしました。聞いていた子どもたちが、おはなしクイズに考え答え、グループでの話し合いのときに、だれから生きる力をもらっているという質問に「イエスさま」と答えたことに驚きました。その答え私は、神様に感謝しました。
 「あぁ、神様。確かにここに福音の種が蒔かれています。
  クリスマスで話したイエス・キリストの誕生を通して、
  この子たちがあなたとつながり始めたのです。」
 神の御業の目撃者となれることは牧会者にとっての最高の恵みです。

    あなたがたをいとおしく思い、神の福音だけではなく、
    自分自身のいのちまで、喜んであなたがたに与えたいと
    思っています。あなたがたが私たちの愛するものと
    なったからです。       1テサロニケ2:8

光テラス No.50

3月31日
 私が桜が丘に来て1年が経ちました。初めに来たときは右も左も分からずにただただ礼拝をして時間をどのように使おうか考えていたとき、毎週光テラスを書こうということを決断しました。お休みを頂いた週以外は毎週、その週の過ごしたことを振り返りながら、自分が愛され、叱られ、励まされて歩んできたことを思い出していました。
 先日、用事があって母校の神学校へ行ってきました。卒業から丸一年、離れていましたが実感としては3年ほど来ていなかったかのようでした。1年前に新幹線に乗って岡山に来たちょうどその日の新幹線で今度は関東へ向かうと久しぶりに会った人に対して、1週間前に会っていたかのように自然と話をする一方で、一時代を通り過ぎたかのような懐かしさと変化を覚えました。
 桜が丘に帰ってきて2日後、夏以来となるティーンズバイブルキャンプで子どもたちと再会しました。約半年離れていましたが、懐かしさはプログラムが始まる前だけで、一緒に過ごしていくと、友達のように、兄弟のように距離が縮まっていきました。
 たった1週間の間に二つのタイムスリップを経験したような感覚でしたが、キャンプから教会へ戻ってくると、桜の花が咲き始めていました。ともにいることは水を得ること、それは私と神様との関係でも同じでした。離れて水がなくなればそれは枯れて風化してしまい、みずみずしさが失われてしまいます。年を越しても花を咲かせられるような主の器でありたいと思いました。

    まことにあなたの大庭にいる一日は
    (この世の)千日にまさります。
詩篇84:10

光テラス No.49

3月24日
 教団総会が2日間に渡り、開催されました。私はインターネットを通じて会議を見ていました。そこには全国各地からの教団の牧師たちや信徒の代表の方々が集っていました。
 特に今年は天皇の代替わりを控えていることもあり、それを受けての日本政府が辿ってきた歴史的な歩みに対する教団の宣言文を公開するため、議論の場が設けられました。その中で一人の方がこのように発言していたように感じました。

 『日本が強制的にというのは何を根拠に言っているのか。
  韓国を併合したことを良かったと言っている意見だってある。』

 それに対して担当者の発言を聞いて、その真意を感じました。

 『私たちは戦争をして良かったという結論にならない。
  私たちの教会にはアメリカ人も韓国人もいる。
  さまざまな立場がある中で家族を再び傷つけてはならない。』

 支持する人がいたとしても、原爆が正しかったと聞いたらどれほどの人が傷つくでしょう。同じように韓国を奪ったことを正当化したらどれほどの人が傷つくでしょう。私たちは2000年も前の歴史を、福音書を通して学んでいると見ることができます。この歴史は神への背きと和解の歴史です。今、私たちは神だけでなく、人についても背きではなく寄り添いと和解のために適用できることを知っています。
 正しさというフィルターを通して見ることで、見失ってしまう目的。その目的がいかに尊いものか、改めて感じることになりました。

    あなたは正しすぎてはならない。
    自分を知恵のありすぎる者としてはならない。
    なぜ、あなたは自分を滅ぼそうとするのか。
                伝道者の書7:16