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光テラス No.48 

3月17日
 結婚2周年の記念に瀬戸内観光をしてきました。瀬戸大橋を見下ろせる展望台やオシャレと言ってしまうのはもったいないほど、上質な音楽と歴史観のある喫茶店などをめぐり、思い出ができました。
 様々なところを巡っている車内での会話の中で、結婚式の日付を3月11日にした経緯について振り返ることになりました。
 この日に決めたことで、回りの人たちが3月11日を言うときに、「3.11(サンテンイチイチ)」と言うのを控えるようになりました。
 3月11日に生まれた人もいれば結婚した人も、受験に合格した人もいます。時にどのような意味を付けるかは本来自由です。大震災が起こったことは消すことはできません。しかし、その日を喜びの日として意味を付け加えることもまた自由にできます。
 同じ時のしおりに、悲しみと喜びがともに記されていること、それが私たちの生きる現実です。完全に上書きされることも、消し去ることもできません。それでも、喜びが悲しみに勝り、乗り越えることはできます。私たちの結婚式を通して、苦しさや悲しみだけに意味づけされた思い出に、喜びと感謝の意味を付け加える希望がキリストによってあることを証したいの願いを込めて、この日付にしたことを思い起こしました。
 同じように、主の十字架の死という悲しみと、罪を贖ってくださったことへの感謝と、復活の喜びはいつも1枚のしおりに記して心にはさんでおきたいと改めて感じた結婚記念日でした。

    泣くのに時があり、笑うのに時がある。
    嘆くのに時があり、踊るのに時がある。
              伝道者の書3:4

光テラス No.47

3月10日
 学びの後におしゃべりをしていた時のことです。実家から遠くの家族にお米を送ることについての話題が挙がりました。私の実家が仕出し屋でお米を買っていることや姉夫婦が農家ということもあり、気軽に頼んでいいよと声をかけてもらうのですが、毎回送ってもらうのもなんだか申し訳なく感じるという思いを話していました。
 すると、その場にいたある方から、「どんなお米を送ってもらっているの?農薬とかはどうだい?」という質問が出されました。今まで考えてもいなかったのですが、「商品としては出しにくくても(粒の大きさが足りないものや形が整っていないなどでも)いいものを送ってくれていると思います。」と答えることしかできませんでした。
 そこに、別の方から、「そりゃ安全でいいものを送っているよ。」と答えが飛んできました。彼はまさに農家としてお米を作っている方でした。「家族に送るものなんだから安全なものを送るし、いいものを送りたいって思うものだ。」という言葉を聞きながら、私はとても大切なことを忘れていたことに気づかされました。
 私はお米をもらうことに負担や感謝を感じていましたが、本当にもらっていたものは家族からの愛情だったのです。お米はその気持ちの現れです。それなのに、その形と手段という表面ばかりに気をとられていて、大切な中身を疎かにしていました。
 翌日、実家にビデオ電話して感謝を伝えると、信仰で悩んでいる母がそこにいました。私は今度こそ「母」を見ることにしました。

    彼らはいつも、使徒たちの教えを守り、交わりを持ち、
    パンを裂き、祈りをしていた。          
                       使徒2:42

光テラス No.46

3月3日
 水曜日のプランター(祈りと学びの時)に、宣教を終えて帰国された先生がいらっしゃり、聖書の話と宣教の報告を聞きました。そして教会の活動が終わった後、食事をともにする機会が与えられ、宣教地での暮らし、特に信仰生活について様々な話を聞くことができました。
 最も印象的なことは、宣教師の家族、特に子どもにとって宣教地での教会の礼拝は「黙って座っている時間」にしかならないという事情です。なぜなら宣教師は外国語で現地の方々に向けて聖書の話をしますが、子どもにとっては理解できない言語となってしまうからです。しかし子どもが礼拝堂の外で遊んでいるという状況はほぼできず、周囲の目線もあり、一緒に礼拝する以外にないというものでした。
 そこで宣教師家族が大切にしたことは、家庭礼拝を充実にするということでした。教会での働きを終えた日曜日の夕方、子どものために礼拝の場を整え、牧師として子どもたちに向けた話を行い、晩御飯の場を用いた愛餐会が行っていたそうです。
 この話を聞いたときに、ふと自分の家族を思い浮かべました。海外である、日本に暮らす自分の妻のために夫としてではなく、牧師としてできることをしているのだろうか。私には妻の母国語で語る語学力はないけれども、一人の信仰者のために備えるべきものがあることに気づかされました。

    自分の家庭をよく治め、十分な威厳をもって子どもを
    従わせる人でなければなりません。
    自分自身の家庭を治めることを知らない人が、
    どうして神の教会を世話することができるでしょうか。
                     テモテ3:4-5

光テラス No.45

2月24日
 被災地における心のケアの学びに参加してきました。主に傾聴に関するセミナーでした。その初めの話題に「怒り」の奥に隠れている本当の気持ちを探ることの大切さについて取り上げられました。
 心にぽっかりと穴が開いた喪失状態になったとき、心や体に大きな変化が訪れることは決して特異なことではなく、正常な反応であり、丁寧に対応することが大切だということです。
 グループで話し合う中でこのような意見が出ました。「怒りの矛先は他人ではなく、自分の話しを聞いてくれる相手を選んでいる。」「そこには一つの甘えたい気持ちがある。」「ただ、怒りを悪い感情と思い、怒りをぶつけてもいいと自身を持って言える相手を見つけることができず、蓋をしてしまう。」と言ったものでした。
 この話を聞きながら、私は祈りの大切さを感じていました。この辛さや怒りを神様にぶつけられたらどんなにホッとするだろうかと思うと、私のつたない祈りを黙って聞いていてくださる神様へ感謝が湧いてきます。不完全で失敗をして臆病で逃げ出したくなるときもある自分を優しく包み込みながら、居場所として一緒にいてくれる存在に、どんなに励まされてきたかを思い出しました。
 失われた生活の基盤はたくさんのサポートを受けながら少しずつ復興していくのが目に見えます。一方で、失われたいのちのかけらの回復は時間がかかります。キリストが傷ついた私たちを迎え入れてくださるように、私自身もともにいる居場所でありたいと思いました。

    するとイエスは言われた。あなたも行って、
    同じようにしなさい。          
                 ルカ10:37

光テラス No.44

2月17日
 「神の国の宣教」セミナーと座談会に出席してきました。ゲスト講師と主催する教会の牧師を交えながら足掛け3日に及び、神の国に生きる主の民とはどのようなものなのかを知ることができました。その座談会の中で大きな学びとなる視点を与えられました。
 それは、クリスチャンたちがキリスト教に「入信」しているのではない、という視点です。私たちはキリスト教の神の世界に入ったのではなく、ノンクリスチャンと呼ばれる人も神の国の世界に入っていないというわけでもない、ということです。
 創造主なる神は私たちの世界を創造し、私たちにいのちを与え、私たちが神を知る前から絶えず働いてくださっています。ですから、私たちはすでに神が造られた世界に生きているのです。しかし、そこに気づかずに、自分の秩序にならって(思うように)生きています。
 私はクリスチャンが神の国に入れ、信じていない人は入れないという理解が誤解をしていました。神は人間が罪を犯してもなお、すべて人に神の造られた世界・神の国に住むことを赦されたのです。その上で、神と共に生きること、神の国を建て上げる働きに加わることを望んでおられたのです。神の国に入れるかどうかで悩む必要はありません。私ももっと早くこのことを知っていたら、もっと早く信仰決心できていたのかもしれません。

   「『見よ、ここだ』とか、『あそこだ』とか言えるようなもの
    ではありません。見なさい。神の国はあなたがたのただ中に
    あるのです。」
                        ルカ17:21

光テラス No.43

2月10日
 携帯電話の契約特典で、2月の金曜日は牛丼1杯がタダで食べられるということを知り、牛丼屋へ出かけてきました。しかし、特典を受けられるお店はこの周辺にはなく、車で20分ほどかけて隣町へ行くことになりました。
駐車場近くまで行くと、とても多くの車があり、駐車場の入り口には警備員が配備されていました。私たちも指示に従い、ゆっくりと駐車しました。店の中には持ち帰りの列と店内で食べる列が並んでいて、店内で食べようと考えていたので、5分ほどで案内され、無事に牛丼を取ることが出来ました。
 安く食事を取ることが出来たため、近くの本屋やカフェでお茶をして帰ることにしました。お客でいっぱいだった牛丼屋からゆったりとしたカフェで過ごせ、良かった良かったと思いつつ帰宅しました。
 しかし、帰ってから出来事を振り返ってみると、タダで食べられる、安く食事を済ませられると言って外出したものの、終わってみれば、普段の外食と同じか、少し高い出費となっていました。「あら、結局お金遣っちゃった」と反省させられてしまいました。
 節約を理由に出かけることは悪くありません。でも、いつの間にかその目的を忘れ、周りの影響を受け、結果も達成されない。そんな自分に問いかけることになりました。あなたが出かけたのは、初めから牛丼を食べる理由がほしかっただけではないのか、と。
  
    主イエス・キリストを着なさい。
    欲望を満たそうと、肉に心を用いてはなりません。
                   ローマ13:14

光テラス No.42

2月3日
 教会総会の投票によって私たちの教会に、6名の執事が任命されました。伝道所として歩んできた29年の歩みの上に、新たな一歩が刻まれました。任命式にて、選ばれた執事の肩に手を置いて祈るとき、心から喜びと感謝が湧き起こりました。
 執事とは、教会の働きの土台を支え、その計画を運営していく信徒のリーダーです。これまで、「世話人」として教会の働きを助けてきた立場から、今度は自分たちがその働きを考え、新しい働き人を導いていく立場となりました。
 このことを思うとき、昔は親の料理のお手伝いをしていた子どもが、自分でメニューを考えて料理に挑戦する姿に似ていると感じました。親の料理を手伝うとき、できる・安全な範囲を託されていた人が、自分でできることを見極めてレシピを見ながら調理します。
 経験地が少ないために煮崩れしたり、焦がしたりすることもあります。基本を踏まえながら何度も試行錯誤しても上手くいかないこともあります。煮詰ってしまった時にはどうしたらおいしく出来上がるのかを親や先輩に聞きながら、腕を磨いていけばよいでしょう。
 このように研鑽を積んでいくうちに、いつしか家庭の味となっていくように、信仰もより味わい深くなりたいものだと感じました。
 天国の味わいを地上でもいただけるのなら幸いです。

   信仰が試されると忍耐が生まれます。
   その忍耐を完全に働かせなさい。
   そうすれば、あなたがたは何一つ欠けたところのない、
   成熟した、完全な者となります。
                    ヤコブ1:3~4

光テラス No.41

1月20日
 教団宣教区主催の新年聖会が行われました。桜が丘からも5名が参加し、講演と成人祝福式を通して多くの交わりと学びがありました。
 そのときに講演してくださった先生の言葉の中に、「グチを言い合える、赦し合える関係」というものがありました。教会に来て聖書を学ぶと信仰が深められ、成長していくと困ることもなくなり、平安で過ごせるとイメージされがちですが、実際にはそういう状況はまれです。
 信仰の確信は得られても、経済的には変化ありませんし、これまでの社会的な人間関係が劇的に変化することはないでしょう。ですから、新しいいのちを得て、新しい価値観の中で実践しようとすれば、混乱や衝突が起こることもあります。そのような中で、改善できない関係に焦りを感じたり、感情的に傷ついてしまったりすることもあります。
 そんなときに、あるべきクリスチャン像によってグチを言い合ってはいけないんだと自分を縛り付けるのではなく、配慮を持って相手を選び、感情や思いを素直に伝えることは決して罪ではありません。イエス・キリストも弟子たちの失敗を目にしながら、温かく迎え入れてくださいました。
 この話を聞きながら、衝突はしないけれども、正直に話を打ち明けることのできない家族や友人よりも、時には失敗しぶつかりながらも、それでもなお受け入れて関係を保とうとする家族や友人がいることの方が幸せなのだと感じました。

   イエスはすぐに手を伸ばし、彼をつかんで言われた。
   「信仰の薄い者よ、なぜ疑ったのか。」
   そして二人が舟に乗り込むと、風はやんだ。
                マタイ14:31~32

光テラス No.40

1月13日
 4月から始まる子ども向けの定期集会「ジョイフルホリデー」に向けての第1回奉仕者研修会を行いました。教会で行い子どもたちへの教育活動とはどのような目的があり、その大切にする理念などを学び、現在の教会の状況を踏まえながら、地域や親御さんに受け入れられる活動の在り方を考えるときとなりました。
 教育活動と聞くと「先生と生徒(児童)」という印象が大きくなりますが、聖書では真の意味での先生は神お一人だと書いてあります。しかし実際には使徒たちやたくさんの弟子たち、奉仕者たちが教育活動に携わっていました。
 つい先日、小学校からボランティアを募るお知らせが届いていました。学校での教育活動も、決して授業を担当する先生たちだけでは成り立ちません。地域の方々の支えがあり、家庭での親子の教育があり、それらの連携が取れて初めて成り立つものです。
 教会は家庭でも地域でもその愛の土台を伝える最もふさわしい場所です。私たちは神が私を愛してくださっていることを、聖書を通して知り、信じることで、自分が愛されている者か、愛される価値があるかどうかを疑うことから開放されています。
 神から愛されていることを知っている人と子どもたちとの交わりが生まれるとき、そこには愛されることを知り、愛することを学ぶ場が生まれることでしょう。その愛の連携が教会から家庭へ、そして地域へつながって行くなら、多くの人に平安が訪れることでしょう。
   私たちは自分たちに対する神の愛を知り、また信じています。
   神は愛です。
                      第一ヨハネ4:16

光テラス No.39

1月6日
 元旦礼拝のあと、スーパーに出かけました。そこは新春セールの真っ只中でした。入り口から並べられているセール品の数々。たくさんの人を掻き分けて進むと、福袋が並べられていました。
 初めは必要なものだけ揃えればいいと思っていた私も、あまりにお得な品々を目にして、「今のうちに」という気持ちになり、普段は手に取らない商品をも手に取り、カゴの中に入れていた自分がいました。
 買い物が終わって家に戻ると、「今これが安いんだけど、どうかな?」と相談し、次の日も買い足しに出かけることになりました。
普段の割引ならば、きっと状態が悪くなったり売れ残ったりしたために、早く処分したいという売り手の印象を受けていました。しかし新春セールの場合、悪い商品という印象はなく、むしろ売り手が気前良くいいものを安く提供している印象を受けました。その気前のよさに自分の財布のヒモも緩んだのだと感じています。
 福音を信じるだけで救われるという言葉は決して福音の安売りではありません。罪のないキリストを差し出したのは状態が悪くなったどころか、汚れ一つない完全な状態です。完全に神の気前の良さと恵みの現れです。その気前の良さに心のヒモを緩め、受け入れた人々はセールのお客さんとして見られるのではなく、神の家族として受け入れられることは、この上ない幸せです。

    あなたの分を取って帰りなさい。
    私はこの最後の人にも、あなたと同じだけ与えたいのです。
    自分のもので自分のしたいことをしてはいけませんか。
    それとも、私が気前がいいので、あなたはねたんでいるのですか。
                       マタイ20:14-15