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光テラス No.38

12月30日
 クリスマスイヴの夜、教会ではキャンドルサービスが行われました。多くの人が教会に早くから集まり、迎える準備や賛美の練習をしながら、その時を待っていました。日が落ちると周辺はすっかり暗くなりました。その中でキャンドルサービス仕様にした教会のイルミネーションが一際輝きを放っていました。
 普段の礼拝とは違い、キャンドルの灯りによって優しく照らされた礼拝堂。そこに一人、また一人と集ってきます。いよいよ始まりです。始まりの賛美を歌い終わると、照明が落とされ、そこは静かではありながら、落ち着いた優しい空間へと変化していきました。
 聖書箇所や歌のスライドを見て、話を聞くシンプルなひと時。クリスマスの日の温もりはもしかしたらもっと静かだったかもしれません。家畜小屋に電気はなかったかもしれません。きっとマリアとヨセフのために、家主はろうそくを灯してくださっていたことでしょう。彼らはろうそくの光がなくなることではなく、与えられたことに感謝していたことでしょう。
 その時でした。私はあと何分、あと何分と時間に囚われている自分に気づかされました。いつしか他のことを考える余裕がなくなり、今ここにともに生きる恵みを味わうことを失ってしまっていたのです。
 小さく動揺しながらもなんとか進行していきました。ふと、暗くなった礼拝堂でキャンドルの灯火を見た時、キリストが私たちと一緒にいてくださる温もりを改めて感じました。お祝いはその相手と一緒に喜び、楽しまなければ、お祝いにならないと感じたクリスマスでした。

    恐れることはありません。見なさい。私は、この民全体に
    与えられる、大きな喜びを告げ知らせます。
                        ルカ2:10

光テラス No.37

12月23日
 赤磐市内の福祉施設へクリスマス訪問賛美奉仕をしました。予め施設と日程を組んだ後、教会でメンバーを募って参加できる10名で6~7曲を歌い、ショートメッセージを交えながら約30分間の交わりを楽しみました。夏に一度奉仕をした施設と、今年初めて伺う施設の2箇所を回りました。どちらも親切に受け入れてくださいました。
 賛美の歌を聴きながら手拍子をする人、じーっと見つめながら聞いている人、目をつぶって聞いている人。聞き方は人それぞれですが、賛美を終えた後、一人ひとりに回って挨拶をしていると、「また来てね」とか「よかったよ」と声をかけてくださる方もいらっしゃいました。クリスマスに何かできることをと思い、奉仕をしようと考えましたが、利用者やその家族からの一言に私自身が嬉しくなりました。
 他の奉仕者もところどころで笑顔がこぼれ、生き生きと歌っている姿が印象的でした。礼拝の厳かな雰囲気の中で歌う賛美の魅力と伝道の場に出て歌う賛美の魅力。2つは違う魅力ですが、どちらも大切な役割を持っています。信仰は告白すること初めてその信仰が伝わります。礼拝の賛美は神に対しての信仰の告白であり、伝道の場での賛美は人に対しての信仰の告白です。
 信仰をもってクリスマスを祝うなら、それはすばらしい告白です。イエスが救い主であり、罪人である私たちのために、確かに神から与えられたことを、喜びをもって多くの人に伝えられますように。

    それゆえ、主は自ら、あなたがたに一つのしるしを与えられる。
    見よ。処女が身ごもっている。そして男の子を産み、
    その名をインマヌエルと呼ぶ。
                          イザヤ7:14

光テラス No.36

12月16日
 西日本豪雨被災地の倉敷市真備地区へ4ヶ月ぶりに行ってきました。今回は岡山キリスト災害支援室(岡キ災)が「まびくら」を開所し、新たなコミュニティースペースや活動拠点としての働きを始めたということを聞き、その状況と必要を知るための視察と思って行きました。
 8月にボランティアに行ったときには想像以上の洪水の被害で、手をつけられていない被災物だらけの状態でしたが、今回真備に入ったときにはあたかも「日常」的な風景が広がり、落ち着いているようにも感じました。たくさんのボランティアの手によって片付けが進んでいる一方、誰も住んでいない取り壊しを待つ家屋も目立ちました。
 その中に、モットーである「まびに暮らしのぬくもりを」からまびくらが名付けられ、開所しました。月曜日の午後に行ってみるとまさに今からがスタート!という様子で、私も加わって畳や道具を頂きに行きました。そして物品に名前を書いたり、扉前の看板を準備したり、地元の復興に合わせるように、まびくらも歩みを始めました。
 常勤スタッフはたったの二人。施設ももともと被災したものを直して借りており、ここにある希望が神の憐れみと恵みだと確信してスタートしています。教会に集う人々の救いと町の復興は似ています。希望の灯火があり、そこに集まる人々によって祈りの輪が広がり、聖書の御言葉が道しるべとなって、なすべきことを伝えていきます。まびくらもまた、人々が集まり、祈りの輪が広がり、町の復興と心の復興が行われるエクレーシア(キリストの群れ:教会)となりますように。

    ノアは息子たち、彼の妻、息子たちの妻たちとともに外に出た。
    ノアは主のために祭壇を築き、祭壇の上で全焼のささげ物を献げた。
                         創世記8:18、20

光テラス No35

12月9日
 12月8日、教会で子どもクリスマス集会が開催されました。14名の子どもたちと一緒に賛美をし、聖書の話を聞き、クイズやゲームをして、クリスマスを一緒に楽しみました。
 日曜日には小学生以下の子どもたちがいない状態が続いています。それでも子どもたちが教会に集い、イエス・キリストを知ってほしいという思いから、慌しい準備となってしまいましたが、このクリスマス集会の実施が実現されました。
 「クリスマスと言えば?」という質問に「サンタクロース」と答えていた子どもたちが、キリストの降誕の物語を聞き、クリスマスがイエスさまの誕生を祝いに博士たちや羊飼いたちが会いに行ったことを学びました。その後のクイズではみんな全問正解でした。
 後半のゲームでは「イエスさまに会いに行こう」をテーマに、さまざまなブースを設けました。ゲームをクリアしてスタンプをもらい、最後にイエスさまがどこにいるかを聞いて回っていた子どもたちは、まさに羊飼いたちのようでした。そしてゲームを担当していた大人たちもまた、子どもたちと同じくらい輝いていました。
 クリスマスは子どもたちだけのものではなく、すべての人のためのお祝いの記念日です。そこにはキリストの誕生の光に照らされて、輝いてる人たちが集います。この桜が丘もまた、大きな光に満たされた時となりました。

    すべての人を照らすそのまことの光が、
    世に来ようとしていた。
                ヨハネ1:9

光テラス No.34

12月2日
「ティーンズの性を考えるセミナー」と題して、子どもたちに対する、恋愛・結婚・異性とのコミュニケーションについての学びが同盟教団家庭教育部の主催で行われました。このセミナーでは台湾発のチャンピオンズ教育協会が思春期の子どもたち向けに提供する5つの教育プログラムのうち「愛を守る人」をテキストの内容を学び、教育者を養成するものでした。
 このセミナーの目標は、「健全な価値観と品格を確立し、正しい知識を持ち、自分で正しい選択を選び取ることができるようになる」ことです。この土台に聖書があります。
 文化や家庭の習慣によってコミュニケーションの方法は多種多様です。その土台となる「私」という価値が誰によって与えられているかを考えるとき、私の価値を決める相手こそが私が従う相手になることにセミナーを通して気付きました。
 自分自身の価値観がどのように形成されてきたかを振り返ってみると、両親や友人の言葉、そして学校や社会の目線が自分の行動や価値観に影響を与えてきたことに気付きました。また、情報が少なさゆえに正しい選択ができず、罪に陥ったことも多くありました。
 それでも神はなおも、私を見放さずに私を大切なものとして守り導いてくださっています。だからこそ、これからは自分で御言葉を選び取り、神から与えられた新しい価値観を生きたいと感じました。

    しかし今は、罪から解放されて神の奴隷となり、
    聖潔に至る実を得ています。
    その行き着くところは永遠のいのちです。  
                   ローマ6:22

光テラス No.33

11月25日
 人生で初めて弁護士事務所へ行きました。理由はともあれ、これまでに弁護士と関わったことがなかった私は、弁護士の相談はお金に余裕のある人や保険に入っている特約で行うもので、できれば人生の中でお世話にならなければいいな、と思っていました。
 ただ、テレビを通じて、法律相談やトラブルへの対応などで毎週のように話題が提供されている様子や法律事務所の数から考えると、私が考える以上に弁護士と関わりをもち、お世話になっている人がいるのだろうと考えていました。
 実際に行って話していくと、まるで教会のミーティングをしているかのような気持ちになりました。相談者の生活や状況を親身に聞きながら、現実的な解決方法を探り、必要な手続きについて代理人として対応する姿はまさに牧会者のようでした。
 相談者は自分の力では解決できない状況の中で、その判断と執行を代理人に委ね、弁護士が示した状況と対応受け入れて、物事を進めていくことで、これからの生活の厳しさに押しつぶされるのではなく、一筋の希望が照らし出されて、安心するのだと感じました。
この弁護士の姿こそ、聖書で示された「弁明者=友」であり、私たちを友と呼ぶキリストである、と私は知りました。私たちの人生で犯した罪を弁護してくださり、十字架によって刑を代行されたのはイエス・キリストに他なりません。キリストによって罪の裁きの厳しさから解放され、平安が与えられるのなら、喜んでキリストが示した状況と対応を受け入れて、人生を歩みたいと感じました。

    神の命令を守ること、それが、神を愛することです。
    神の命令は重荷とはなりません。
                     Ⅰヨハネ5:3

光テラス No.32

11月18日
 来年度の計画案を準備するために、今年の活動を振り返りました。昨年の今頃は補教師として教会に仕えることができるかどうかもわからず、不安を抱きながら教師試験の結果を待っていました。
 4月に赴任したときには教会の雰囲気や課題や歴史を知らず、周辺の教会との関わりもどうしてよいのかわかりませんでした。それでも1ヶ月が過ぎ2ヶ月が過ぎ、行事を通して顔を合わせ、奉仕を通して構成する組織や行事の枠組みがわかり、気軽に声をかけて下さる方々に助けられ、支えられて少しずつ適応してきました。
 教会員の葬儀や豪雨災害による支援も経験しました。緊急を要する事態になったときに初めて、想定の大切さと日ごろの準備(心備え)が大切であることを学びました。そして自分から動くことで生まれてくる憐れみや愛があることを知りました。
 会堂内を見渡すと、電子ピアノが新調され、賛美を楽しむ集いが生まれました。納骨室が設置され、地上での歩みを終えてもなお、ここで礼拝に出席できるように整えられました。
 私は神の働きのすべてを見ることも予め知っておくこともできません。しかし、この一年足らずの時間だけでも、神の大きな御業と力の中で、働きに加えられていることは明らかでした。だから私はこれから起こることがわからない、と不安を覚えるのではなく、祈って待って、ひたむきに歩んで行きたいと思いました。

    神のなさることは、すべて時にかなって美しい。
    神はまた、人の心に永遠を与えられた。
    しかし人は神が行うみわざの始まりから終わりまでを
    見極めることができない。
                   伝道者の書3:11

光テラス No.31

11月11日
 隣町にある樹齢100年を超えた楷(かい)の木が紅葉し、ライトアップされているということを聞いて、見に行くことにしました。国宝の講堂とともにライトアップされている姿は本当に幻想的で、時代をタイムスリップしたかのような勇厳な姿に感動しました。
帰ってからしばらくして、「なぜライトアップに惹きつけられるのか」ということを思い巡らしていました。昼間に見る景色と夜に見る景色。目に映る物は同じでも全く違う印象を持ちます。
 もし昼にライトアップがあったらどうかろうかと考えたとき、「それは意味がない」という声が隣から聞こえてきました。明るいものに光を与えてもほとんど変わらないし、気付かないと思う。そんなことする必要もない、ということでした。
 明るくても暗くてもその姿を見ることができます。ただ、わずかでも光がなければ物を捕らえることはできません。だから暗いときほど光を意識します。私たちは暗闇の中でライトアップされた自然や建造物を見て感動し、いつしか「ライトアップ」そのものに魅力を覚え、期待をしながらその時を待ちます。
 私が輝けるのは自分を磨くからでも、自分自身が光を放つのでもなく、私を照らしてくださる方がいらっしゃるからなんだなぁ、と思いながら、私を照らしてくださる方の魅力を改めて感じ、感謝しました。
   
    わたしは世の光です。わたしに従うものは、
    決して闇の中を歩むことがなく、いのちの光を持ちます。
                       ヨハネ8:12

光テラス No.30

11月4日
 教会主催で子育ての集いが開かれました。講師の先生の話を聞きながら、これから子どもが与えられることを期待する人、子育てを終えた方、孫育ての真っ最中の方など、多くの方が集まって話を聞きながら、感想や自分の経験を分かち合う時間となりました。そのお話の中で、2つのことが主に私の心に響きました。

① 母親は子どものキャッチャー
 子どもにどんな球を投げさせるのかを上手に伝える役割を持ちながら、そのすべてを受け止める役割。時には暴投(失敗・荒れ)もあるけれど、それを取りに行くのはキャッチャー。そしてピッチャーは暴投しても、キャッチャーは必ずピッチャーに球を返し、励まします。

② 待つ期間を持つ
 お願いされたことをその場で断るのではなく、猶予を設けて可能性を探る。3~4日先でも1年先でも、約束が守られるなら、期待をしながら待つことでしょう。もしそれが一時の欲求なら、待っている期間に熱が冷め、必要でないことに自ら気づくこともあるようです。

 この話を聞いて私は、私の祖母との経験の中で、母親に、「明日行くよ」より「来月行くよ」の方が祖母にとっては幸せだといわれたとき、待つことは苦しみに耐えるだけでなく、楽しみに期待している時間であるということを教えられたことが浮かんできました。
 地上で神様と歩む道のりは天国に行くまでの待ち時間だとしたら、これ以上ない楽しみの時間なのかもしれないですね。

まことに あなたの大庭にいる一日は
(この世の)千日にまさります。
               詩篇84:10

光テラス No.29

10月28日
 妻のビザの更新手続きの問い合わせのため、入国管理局の出張所へ行ってきました。日本人が一般的に国内で暮らしている上では一度も行く必要のない施設ですが、外国人にとってはとても神経質になりやすい場所でもあります。というのも、ビザとは在留許可証であり、ビザがなければその国に滞在することができないからです。日本のパスポートは世界のほとんどの地域をビザなしで訪問できますし、ビザの申請が必要な滞在になるような仕事は中小企業では多くはありません。
ただ、私たちには不安になる理由がありました。それは、結婚してから申請した配偶者ビザが許可されず、夫婦が約半年間離ればなれになってしまった時期があったからです。
 過去に傷を負ってしまっている状態ですから、その不安はなかなか取り除かれません。現在は牧師という「(※社会上は)職業」に就いており、生活も安定はしていますが、それでも二度と離れて暮らすことになりたくない思いから、気持ちが焦り、相手に刺々しい言葉をぶつけてしまうことにもなりました。
 入国管理局に到着すると、窓口の人に声をかけ、自分たちの状況を説明し、これでよいのかどうかを確認しました。最後に窓口の人が私たちに「時間に余裕もありますし、年が明けてからでも間に合います。遅れても更新申請者は滞在期限後2ヶ月はいれますよ。」と言ってくださったことで、私たちは落ち着きを取り戻し、安心して、家に戻ることにしました。私たちの不安は言葉によってかき消されたのでした。

地の果てのすべての者よ。
わたしを仰ぎ見て救われよ。
わたしが神だ。ほかにはいない。
                   イザヤ45:22