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光テラス No.28

10月21日
 妻が神学校時代の同級生二人が韓国から訪ねてきました。良い機会なので、通常の学びの時間を変更し、証し会にすることにしました。
クリスチャンの家庭に育った友人は信仰の決心にそれほど大きなきっかけがなかったと語り、熱心な仏教の家庭に育った友人は尊敬する知り合いの佇まいや接し方からその人の信仰に興味を持ち、礼拝に出席するようになったという話をしてくれました。
 特に仏教の家庭の中で信仰を持った友人は、学生時代に日曜日に教会へ行くとき、親の反発を免れるために、勉強しに行くとか遊びに行くと言って家を出たそうです。話を聞きながら、後ろめたい気持ちではなく、信仰を守るという目的を持って折り合っていた姿はクリスチャンホームでは味わうことのできない戦いだと感じました。
 神様が私たちを導き、守ってくださるという言葉は、ある時は家族の信仰によって守られた中で育まれるという形でもあり、またある時は家族との関係を維持しながらも自分の信仰を貫くための知恵が与えられるという形でも実現されていました。
 そんな背景も経験も全く違う二人ですが、神様に仕えたい・聖書をもっと学びたいという思いから、同じ神学校へ同じタイミングで学ぶことになりました。今は別々の道へ歩んでいますが、用いられていく様子を聞きながら、私自身も彼女たちと全く別の信仰の背景でありながら、ここに遣わされているのだと、再認識することになりました。

    イエスは彼らに言われた。「わたしについて来なさい。
    人間をとる漁師にしてあげよう。」
    彼らはすぐに網を捨ててイエスに従った。
                   マタイ4:20-21

光テラス No.27

10月7日
 西日本青年宣教大会に奉仕を含めて参加しました。関東や関西では高校生伝道のための団体「hi-b.a.(ハイビーエー)」が活発に活動していますが、中四国地区ではまだ活動してませんでした。今回は大学生・社会人の青年たち向けの宣教大会の裏企画として、中高生に向けて、hi-b.a.のスタッフが企画をしてくださいました。
 私自身はこの団体のイベントには参加したことはありませんでしたが、初めて会う中高生たちであっても、彼らの目線に立って気さくに声をかけ、話を始めるスタッフの姿が輝いているように思いました。それだけではありません。そのスタッフにと話している中高生の姿もまた輝いているように見えました。彼らの目は何かを期待しながらスタッフへと注がれていました。
 企画内容そのものが特別な魅力を放っていたというわけではありません。ゲームをしたり賛美をしたり団体の紹介があったりと一般的なものと言ってもよいでしょう。それでも大きな違いを感じたのは、スタッフの意識が、中高生たちの内なるものを神と向き合わせようと意識し、配慮しながら過ごしていたことでした。
 「自分」を出すことが人たちの気持ちや思いを促すために、あえて質問を投げかけるのです。「神様中心のお付き合いって何ですか?」と・・・。正解のない問いを考える中で、神を強く意識して悩んでいる中高生の姿は、光に照らされて輝き始める原石のように見えました。

    このように、あなたがたの光を人々の前で輝かせなさい。
    人々があなたがたの良い行いを見て、
    天におられるあなたがたの父をあがめるようになるためです。
                       マタイ5:16

光テラス No.26

10月7日
 先週の肺炎から復帰して、家から出られることを感謝しながら、過ごしている中で私は信仰から逃げている自分を見つけました。
 昔、通っていた教会の先生から「サタンは神を信じようとする人やその働きを担う人を攻撃する」と言われたことを思い出しました。あぁ、もしかしたら肺炎も私に対する一つの攻撃なのかなぁ、と感じていましたが、その中で自分の状態のことばかり気にしている自分に気付かされました。「まず体調を治すことが大事」「教会のことできないから何とかしないといけない」「説教の準備も今は控えておこう」体調の余裕のなさから、自分の対応ばかりに目が行ってしまっていました。
 それは肺炎が終わった後も続きました。「今はこれをしなきゃ」「あっちがまだ終わっていない」「休んでいたからできなかったけど、これがしたかった」と、残っていた仕事や自分のやりたいことをしていた時、疲れていた顔をしながらもいつも「頑張ってね」と声をかけてくれる妻の姿がありました。
 その時、自分の中にいたサタンを見たような気がしました。サタンは私の体を攻撃するのではなく、体調を崩した状態の私を神様から自分へと心を向けさせ、周りの愛や恵みを受け取らないようにしました。この働きこそ神の働きを妨げるものでした。私の肺炎はそのきっかけに過ぎなかったのです。弱さの中でこそ自由に神との対話を楽しむか、それとも弱さに甘んじて自己中心へと陥り、神との関係を崩すか。私は今一度神への立ち返りたいと願っています。

    地の果てのすべての者よ。わたしを仰ぎ見て救われよ。
    わたしが神だ。ほかにはいない。  
                     イザヤ45:22

光テラス No.25

9月30日
 先週から体調が悪く、連休明けの火曜日に診断に行ったところ、マイコプラズマ肺炎と診断されました。ウィルス性の肺炎で、移る可能性もあるということで、必要な時以外は外出を避け、できるだけ人と会わないことを告げられ、1週間の自宅謹慎となってしまいました。
 会議や研修会、集会や礼拝、ありとあらゆることが脳裏をめぐり、「どこにも行けなくなってしまうのか・・・」と意気消沈。一度始まると辛い咳の影響で、ほとんど何もできない日が3~4日続きました。
 ベッドで安静にしている時、1階の掃除機の音が聞こえてきました。何もできない状態の時でも、教会が支えられていることに感謝と感動を覚えました。妻は体調の悪い中でも家事をしてくれました。私は本当に多くの方に祈っていただき、支えられていることを実感しました。
 今は大分回復し、医者の外出・面会許可を待っているところですが、まだ教会に来る方とお話できないのは残念です。でも、少しだけ前向きに考えることにしました。話はできなくても一緒に礼拝を捧げたい。そこは諦められません。ふと見上げると、講壇から一番遠いところにバルコニーがありました。ここならほぼガラスに覆われて、肺炎が移ることもない!私が赴任してからまだ一度も使っていなかった場所が用いられる時が来たのだと思いました。病を与えられたからこそ、今まで気づくことのなかった場所と光を見ることができた瞬間でした。
    イエスを死者の中からよみがえらせた方の御霊が、
    あなたがたのうちに住んでおられるなら、
    キリストを死者の中からよみがえらせた方は、
    あなたがたのうちに住んでおられるご自分の御霊によって、
    あなたがたの死ぬべきからだをも生かしてくださいます。
                        ローマ8:11

光テラス No.24

9月23日
 教団が主催する開拓ビジョンセミナーへ行ってきました。講師は夏休みに北海道へ帰省した際にお会いした牧師でした。様々な方に声をかけられており、忙しそうにしていたため挨拶だけでしたが、久しぶりに顔を見れて私たち夫婦も嬉しかったです。講演では先生ご自身が携わってきた教会開拓の経験談と聖書的な土台を中心に、使命やその喜び、牧師の役割などについて語ってくださいました。
 午前の講演の最後に、教会開拓者の心構えというテーマで語っていたときのことです。先生が、「失敗はたくさんしました。だから失敗やその結果を受け入れる覚悟をしなければなりません。」と語ったとき、私は神様のことを受け入れない人がいるのは当然のこと。だから失敗するのだって当たり前のこと。それなのに失敗を恐れて大切なことを伝えないなら何も伝わらない大失敗になってしまう、と感じました。
 よりはっきりとした真理を説教で語るなら、それを受け入れられない人もいることは仕方ありません。しかし、全員が受け入れられるような説教にしても、真理を語っていないなら、何の意味もない。
 牧師が好かれる嫌われるの評価以上の価値と役割が説教にあることを再認識しました。そしてその真理と戦う人たちを牧師が励まし、支えていくのだと学びました。

    こうして、キリストご自身が、ある人たちを使徒、
    ある人たちを預言者、ある人たちを伝道者、ある人たちを
    牧師また、教師としてお立てになりました。
    それは、聖徒たちを整えて奉仕の働きをさせ、
    キリストのからだを建て上げるためです。
                    エペソ4:11-12

光テラス No.23

9月16日
 地域共生サポーター研修会に行ってきました。7月にあった講座の次の研修会です。外国人と地域とのつながりを作るための一歩を踏み出すために、どのように準備をし、働きかけたらよいのかを具体的に学ぶことができました。
 実際にラジオ局に働きかけて5年間多文化・多言語番組を行った方の話を聞いていると、いくつかポイントとなる点がありました。
 ① 目的や計画を言葉にし、文書として提出する。
 ② 当事者に聞き、ともに歩む。
 ③ 自分にも対象にも協同者にもメリットがあること。
 このとき、私は神様について語る者の姿を思い浮かべました。イエス・キリストは神様について語り、その御言葉が福音書として残りました。弟子たちはキリストに聞き、キリストともに歩みました。そして天に戻られてから、弟子たちはキリストを語り伝えました。
 神の目的や計画は聖書にあり、私たちの目的は福音を述べ伝えることです。福音の当事者はキリストです。それに加えて、つながりを作った使徒たち、弟子たち、現代まで伝えたキリスト者たちもまた、その全員が当事者です。そして私も・・・。
 説教準備の中で、御言葉の意味と私や周りにどのように影響しているかを黙想していると、福音は文化も時代もすべてを超えた、神に共に生かされる最高のつながりだと感じました。

    キリストは苦しみを受け、三日目に死人の中からよみがえり、
    その名によって、罪の赦しを得させる悔い改めが、
    あらゆる国の人々に宣べ伝えられる。
                     ルカ24:46-47

光テラス No.22

9月9日
 北海道胆振東部地震が起こりました。私の故郷も震源地からほど近くにありました。深夜の災害のために、知らせを聞いたのは朝でした。当日、研修中だった私は、教会に戻ることも現場へ向かうこともできず、心が落ち着かないまま、研修を続けるしかありませんでした。
 祈りながら、家族の安否や現状を把握するために携帯のアプリで連絡を取り合っていました。ふと、そこに地元の同級生のグループ(連絡板)があることを思い出しました。「みんな大丈夫?」と書き込みをすると、「今、停電」「昨日の台風で屋根飛んでいったけど、地震は大丈夫」「断水するかもしれないから、水は貯めておいてね」という書き込みが続き、被災地にいる友人同士での連絡が始まりました。
 特にコンビニで働く友人が「早朝からお客が殺到し、1日分の売り上げを数時間で超えてしまうほど忙しく、倒れそう」と語っていました。そこには災害時のコンビニの重要性と、被災中であるにもかかわらず、従業員たちの献身的な働きと疲弊が伝わってきました。
 幸いなことに私の実家は当日の夜に電力が復旧し、実家の仕出し屋も営業を再開して注文も受けていると聞いていたので、「うちのお店もやってるよ」と友人たちに伝えました。翌日、母から連絡がありました。「コンビニの友達から注文を受けて、今売るものが無くなってコンビニを閉めて、取りに来てもらったところです。友達も従業員もみんな疲れていたようでした。」その連絡を聞き、私を通して主が働き、友人に安息を与えてくださったことに感謝しました。

    義の実を結ばせる種は、平和をつくる人々によって
    平和のうちに蒔かれるのです。
                    ヤコブ3:18

光テラス No.21

9月2日
 夕すずみ会が日曜日の夜に行われました。ここでも夏の夜を教会にきている人、その家族とも楽しみ交わりたい、子どもたちが教会に来て過ごしてほしい、そのような願いを祈りながら計画を進めてきました。試行錯誤しながら計画を練り、なんとかチラシを作って、配布しましたが、情報が少なく、不安な面も出てきました。それでも諦めるのでも責めるのでもなく、仕える人を大切に準備してきました。
 金曜日の夜には絵本の読み聞かせをしてくださる奉仕者の方が教会に来て、物の配置などについて入念に打ち合わせをし、当日の動きや必要なものを確認しました。土曜日には、私がここへ赴任する前まで所属していた教会の友人が訪ねて来てくれたので、日曜日は朝の礼拝から夕すずみ会へ一緒に参加することになりました。
その彼が趣味で練習していたけん玉が当日は大活躍、始まるまでの間や終わった後にも子どもたちと楽しみ、真剣にチャレンジしている人は帰り際にけん玉がほしくなっていました。
 外へ出て花火が始まると、自然と大人たちが道路へ子どもたちが出ないように自然と入り口に立って、見守っていました。子どもたちと一緒に花火をしている人もいれば、終わっていないにもかかわらず、家に帰らなければならない参加者を家まで送ってあげる人もいました。そして花火が終わって室内に戻ってくると、物の配置が元通りになっていました。気がつくと、ここにもそこにも主が働き手を備えてくださり、愛と配慮と楽しみが満ち溢れた夕すずみ会となりました。 感謝!
   アブラハムは、その場所の名をアドナイ・イルエと呼んだ。
   「主の山には備えがある」と言われている。
                      創世記22:14

光テラス No.20

8月26日
 神学校の後輩が月曜日にやってきたので、昼食を家で共にしてから3人で鳥取砂丘に行ってきました。勢いで行くとは言ったものの、車で片道2時間半の道のりをひたすらに運転することになりました。鳥取砂丘の近くの駐車場に車を置き、リフトで砂丘の入り口まで乗って進みました。時刻は既に16時30分、リフトの最終乗車時間は17時20分。リフトに乗って戻るには1時間もありません。
 リフトを降りるとすぐに砂浜が広がっていました。しかしそこにはまだ海はありませんでした。降り場から長い砂の坂を下り、さらに砂丘を一山越えたところに海はありました。写真を撮りながらゆっくり下っていると、目の前に大きな砂丘が近づいてきました。せっかくなので登ることにしました。それが後悔の始まりでした。
 砂丘の上るのは想像以上に難しく、上る度に砂が滑り落ちて、なかなか前に進みません。遠くから見えていた丘は近くで見ると山のようで、気がつけばふくらはぎがパンパンになっていました。
 それでも砂丘の頂上にたどり着くと、とてもきれいな景色に感動しました。あぁ、良かった。そう思っていると、すでに17時10分。なんとかリフトに乗ろうと必死に登ってきた道を下り、残すは初めに下ってきた坂を上るだけでした。ただ、それが想像以上に長い道のりでした。結局乗り場に到着したのは17時30分。私たち3人は汗だくで息が上がりながら、結局駐車場までまた歩くしかありませんでした。
計画がなければ困難の想像もできないことを、身をもって知りました。

   勤勉な人の計画は利益をもたらし、
   すべて慌てる者は損失を招くだけだ。
              箴言21:5

光テラス No.19

8月19日
 ティーンズバイブルキャンプへカウンセラーとして参加してきました。キャンプのテーマは「迷っちゃう、だって人間だもの。」私も中高生のときはいろいろと迷っていたなぁと思い返しながら出発しました。
 集会の始まり。暗い部屋の中で照らされているバンドチーム。そこに中高生たちが集まり、賛美が始まりました。リズムに合わせて手を上げたり合いの手を入れたり、飛び跳ねながら歌ったりと、自由に思いっ切り賛美している姿が印象的でした。メッセージの時にはメモを取りながら、講師の先生へと視線をまっすぐに向けていました。
 メッセージの後、彼らは自分の生活や性格と照らし合わせ、じっくりと考えていました。そんな彼らのまっすぐな信仰を見ながら、私も御言葉をそのまま受け取りたい、話したいと願うようになりました。
 キャンプの最後の夜に1対1で信仰やキャンプの感想などについて語り合う時間が設けられました。私は、御言葉を受け入れた確信を実生活に還元して、キャンプでの決心を忘れずに日常に持ち帰って活かしてほしいと思いながら話を聞いていました。
 1対1の対話が終わり、講師に報告して祈るときを持ちました。しかしそこで、思わぬ言葉が返ってきました。「御言葉がどのように落とし込まれたかが報告の中からは伝わってきません。」
 私はひどく動揺しました。自分の行っていた先が別の道だったことで、私自身が迷い子になってしまったような気がしたからです。そんな崩れた心ではキャンプの御言葉を改めて読むしかできませんでした。

  主によって人の歩みは確かにされる。
  主はその人の道を喜ばれる。
  その人は転んでも倒れ伏すことはない。
  主がその人の腕を支えておられるからだ。
           詩篇37:22~23