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光テラス No.18

8月12日
 倉敷市真備町の被災地支援ボランティアに教団の災害支援チームのリーダーとして行ってきました。これまで岡山県は災害が少ない町と言われてきましたが、赴任して4ヶ月でこれほどの災害が起こるとはまったく予想していませんでした。今回の災害を機に「岡山県宣教の集い」は岡山キリスト災害支援室(略称:岡キ災)を立ち上げ、倉敷市の社会福祉協議会と連絡を取り合いながら、活動していました。
 これまで、私自身は大きな災害に遭ったことはなく、映像やニュースで他人事のように見ながら自然の猛威に圧倒されながらも、自分にはあまり関係のない話だと思っていました。
 しかし、いざ現場に行くとき、橋を超えて浸水地域に入ると、そこは褐色の地となり、色が失われた世界が広がっていました。一方で川の反対側の商業地域はいつもと何も変わらずに営業し、そこには災害があったような雰囲気は何もなく、募金箱さえ見当たりませんでした。
 それでも日本各地・世界各国の人々が集まり、声をかけあいながら一緒に作業をしていくと、復旧作業によって徐々に本来の色を取り戻していく建物や地面に感動を覚えました。
 その時、私自身がキリスト色を失っていないかと思い返しました。一歩外に出るときは何事もなかったかのように振る舞う自分。心の橋の向こう側ではあるべき自分の色を失いつつある自分。そして信仰の復旧作業の必要性を見て見ぬふりをしてきた自分に気がつきました。
 何もできないかも、でもボランティアとして仕えたい。そう思って向かった真備の地で、私は自分自身を復旧していたのだと思います。

私は行いによって、自分の信仰(持ち色)をあなたに見せてあげます。
                        ヤコブ2:18

光テラス No.17

8月5日
 親教会が主催する小学生キャンプに参加してきました。普段から教会学校やチャーチスクールで一緒に過ごしている子どもたち同士に緊張感はなくとてもリラックスしていました。一方で私たち夫婦はどんな雰囲気なのか気にしながら、初めての奉仕にドキドキしていました。
 非日常の空間でいつも以上にじゃれ合い、いたずらし合う男の子たちはいつの間にか度が過ぎてケンカに発展することもしばしば。誰かがやりすぎて、泣かせてしまったとき、今まで心の中に潜んでいたものが見えてきました。遊んでいた仲間たちが一斉に、「僕じゃない、あいつがやった」「あいつがやりすぎたからいけないんだ」と弁明を始めます。その姿は神様を賛美していた姿とはまるで違いました。
 彼らを集め、信仰によって答えてほしいと言い、4つの質問を一人ずつにしました。「あなたは不完全な人間か」「あなたは不完全な人間を赦すか」「あなたはこのメンバーが仲間だと思うか」「あなたは仲間でい続けるために努力するか」彼らは一人ひとり「はい」と答え、和解し、祈って部屋に戻って行きました。本当に大切な友はケンカをしない人でなく、ケンカをしても逃げても赦して受け入れてくれると確信を持っている友なのかもしれません。

 イエスはシモン・ペテロに言われた。「ヨハネの子シモン。
 あなたは、この人たちが愛する以上に、私を愛していますか。」
 ペテロは答えた。「はい、主よ。私があなたを愛していることは、
 あなたがご存知です。」
 イエスは彼に言われた。「わたしの子羊を飼いなさい。」
                      ヨハネ 21:15

光テラス No.16

7月29日
 岡山県国際交流センターが主催する地域共生サポーター講習会に参加してきました。特に多文化共生を目指して市民がどのようにネットワークを作り、社会情報弱者になりやすい外国人在住者たちが暮らしやすくなるための学びとワークショップが行われました。
 多文化共生とはさまざまな文化背景を持つすべての人が、同じ地域で一緒に生きることです。しかし実際には言葉の壁や文化の壁、そして人脈の壁に阻まれて、地元住民と同じようには暮らせていません。日本語教育や学習支援、医療機関等の通訳サポーターが欠かせないという話を聞き、私も何かできないかと考えるきっかけになりました。
 ワークショップでは、外国人との出会いや交わりを深めるために、自分たちで何がしたいのか、何ができるかを話し合いながら、それぞれの特技や動機を大切にしながら、実現できる形を提案しました。
 キリストの弟子たちも漁師や徴税人や熱心党員など、多文化な人々の集まりでした。本来誰も頼らなくても癒しや御言葉の力を示すことのできるキリストは、あえて弟子たちの賜物を活かして、福音を告げ知らせることにしたのです。ここにキリスト教的多文化共生の原点があるように思いました。私たちはどんな背景であってもキリストによって罪を赦され、神と共に生きることのできる天の御国の民なのです。

  恐れるな。わたしはあなたとともにいる。
  たじろぐな。わたしがあなたの神だから。
  わたしはあなたを強くし、あなたを助け、
  わたしの義の右の手で、あなたを守る。
  イザヤ 41:10

光テラス No.15

7月22日
 ラベンダーで有名な観光地である富良野のファーム富田に行ってきました。すべてが満開というには少し時期が早かったですが、早咲きのラベンダーの景色と香りに魅了されました。
 7月中旬の平日ということもあり、場内にいる人のほとんどは中国・韓国・タイからの団体の観光客でした。いたる所で自撮りやライブ配信している人たちが見られました。それほどまでにラベンダーや色とりどりの花たちが連なる画は“インスタ映え”(※見るものを魅了)する綺麗でオシャレな景色でした。この無料で見られる景色を一目見ようと、海外から何万ものお金と数日のお金をかけて、観光客が集まっているのです。
 天国はどんな景色が広がっているのだろうと想像していると、いろんな色が浮かんできます。ラベンダーのように一つの色が広がっているかもしれませんし、彩り豊かな花が並んでいるのかもしれません。そのどれもが“キリスト映え”(生きるものを魅了)する神様が創造されたものたちなのです。しかも入園無料!ただし、チケット制です。
 悔い改めチケットを受け入れるなら誰でも手に入れることのできるワクワクを、少しだけラベンダー畑で味わえました。いつかみんなで一緒に御園で会える日が楽しみです。

心の貧しい人は幸いです。
天の御国はその人たちのものだからです。

マタイ 5:3

光テラス No.14

7月8日
 岡山市の国際交流センターが主催するタイ人留学生との交流会に参加してきました。私にとっては数年ぶりに生のタイの雰囲気を味わう機会でした。まだ大学生だった頃、タイの留学生が大学に来て、1週間~3ヶ月間、一緒に大学で過ごしたり、京都市内の観光に行ったりしました。一人暮らしで時間に融通が利いたこともあり、ほぼ毎食共にするほど、彼らと濃密な時間を過ごしました。そのうち私も彼らと同じ言葉で話したいと思い、タイ語の勉強を始め、いつしかタイ語で普通にいろいろなタイの方と話すようになっていました。そしてタイへ留学し、バンコクの日本語教会で洗礼を受けることになりました。
 今でも、当時なぜあんなに熱心にタイ語を勉強し、タイ人と交流していたのか、上手く説明できませんが、その情熱は人生の中でも圧倒的なものでした。まさに若さと青春の時代でした。
 そんな大学時代から約10年。街並みや社会や生活はずいぶんと現代化している一方で、タイの留学生の心には変わらない大切なものがあると感じました。大学生だった私はその大切なものを探した結果、イエスキリストと出会いました。タイとの出会いはキリストとの出会いそのものでした。関心を持ち、前に向かってひたすらに走っていたように思っていたことさえも、神様は用いて信仰の決心も献身の思いも与えてくださったことに10年の時を超えて気付いた時間でした。

 私は、すでに得たのでもなく、すでに完全にされているのでもありません。ただ捕らえようとして追求しているのです。そして、それを得るようにと、キリスト・イエスが私を捕らえてくださったのです。
ピリピ3:12

光テラス No.13

7月1日
 草取りの際、緑のカーテンをしようということで教会のテラスに置かれたゴーヤたちがすくすくと成長しています。初めは20cmほどしかなかったものが今はネットに巻きついて150cmも超えているものもあります。1ヶ月ほどでこれほどまで大きく・高くなるなら、8月を迎える頃にはどれほど大きくなっているのか、想像できません。ゴーヤは今後もその歩みを上へ上へと進めていくでしょう。
 最近の私の日課は変な方向に絡まっているゴーヤの蔦を解いて、ネットに向かって土に挿しておいたポールに改めて巻きつかせることになってきました。味にそれほど興味がなかったため、おいしいものができるかどうかにこだわりは持っていませんでした。しかし、日々世話をし、様子を見ているとだんだんと愛着が湧いてきて、きれいな緑のカーテンとよい実を結んでほしいという思いも起こされてきました。
 ゴーヤの蔦の先に目を近づけてみると、単に巻きついているだけでなく、離れないようにしっかりと絡み、つながっていました。するとなんだか私はゴーヤたちに、「あなたは私をネットにつなげるように日々働いてるように、ここにいる人の絡みあった心を解いて、改めて神様につなげる働きもできるのよ」と応援されているような気持ちになりました。
 
 わたしにとどまりなさい。わたしもあなたがたの中にとどまります。
 枝がぶどうの木にとどまっていなければ、自分では実を結ぶことが
 できないのと同じように、あなたがたもわたしにとどまっていなけ
 れば、実を結ぶことはできません。
ヨハネ15:4

光テラス No.12

6月24日
 教会の目の前には大きな道路があるため、朝から晩までひっきりなしに車が往来しています。暑さをしのぐため窓を開けると大きな音が聞こえてきます。
 朝には通勤の車が勢いよく通過し、昼には買い物や用事を済ませたのでしょうか、車がゆったりと通り過ぎていきます。16時を回ると車ではなく学校帰りの中高生が友達と話をしながら自転車を押して坂を上っていく声も聞こえてきます。17時を過ぎると晩御飯前に犬の散歩をしている方が通っていきます。そしてなぜか20時過ぎによく聞く救急車のサイレン。22時を回ると重低音のリズムを効かせた車もよく通ります。しかしどうやら一番大きい音は深夜に鳴り響く寝ている私自身の…なのかもしれません。
 大きな音の中でも、耳を澄ませてみると、そこにはさまざまな音があり、違った人の営みが聞こえてきます。音が大きすぎるのは悩みの種になりやすいですが、音がない生活は本当に寂しいものです。誰でもじっくり耳を澄ませてみると、いつもは聞えてこない「音」を感じることもあるでしょう。そこに新しい気付きがあります。
 聖書には音が記録されていませんが、聖書の言葉に音を想像して加えて読んでみると、また違った味わいが出てくることでしょう。

 見よ、わたしは戸の外に立ってたたいている。
 だれでも、わたしの声を聞いて戸を開けるなら、
 わたしはその人のところに入って彼とともに食事をし、
 彼もわたしとともに食事する。
黙示録3:20

光テラス No.11

6月17日
 教団のイベントの講師に、私が通っていた教会で牧会をされ、先日卒業した神学校で女子寮主事として働かれていた先生が起こし下さり話を聞くことができました。
 そこで先生は、牧師夫人として一生懸命やってはきたが、自分が置き去りになってしまっていたということでした。すべてが旦那の決定に従う信仰で、召天後に自分が責任を持つようになると、どうしてよいのかわからなくなってしまった。そして寮主事のときに祈れなくなり、むしろ寮生に祈ってもらって、『先生の部屋の灯かりが点いているだけで安心する』という言葉に励まされた、と語っていました。
 私も韓国へ宣教に行くときに先輩牧師から「いるだけでいいんだよ」とかけられた言葉が、3ヶ月ほどしてその意味を深く味わうことになりました。努力しても前に進まない、進む気力が出ない、自分が空っぽになってしまう。そのようなどうすることもできない状況の中で、かすかな声で「神様、もう準備ができません、力を出せません、なんとかしてください」と祈り、ただ講壇に立ちました。そこで自分の口から語られた言葉を同時に自分の耳で聞き励まされたのです。
誰かを励ますことが働きなのに、何もできずに苦しんでいた私をも神様は用いてくださり、こんな私をも励ましてくれました。その神様の懐の深さと温かさの中で、自分の力だけで輝こうとしていたことに気づかされました。神様になら甘えたっていいんですよね。

 あなたのみことばは私の足のともしび 私の道の光です。
詩篇119:105

光テラス No.10

6月10日
 家庭訪問に行ってきました。私にとっての初めてのお宅訪問はドキドキでした。何を聞けばよいのだろうか、どのような話をすれば良いのだろうか、失礼なことはないだろうかと、考えても何もわからないただ、車を走らせる前に「神様、どうか導いてください」と祈り、教会を出発しました。家庭事情もわからない中、教会の教師としてどんなことを聞かれるのか、質問に答えてくださるのかという不安はありました。私は何ができるだろうかと心配がぬぐい切れていませんでした。
 家族のこれまでの歩みや信仰の歩みを伺っている時、私の心の中にだんだんと深く突き刺さってくる問いが起こりました。「あなたは牧師として信徒のために何ができるのですか。」「牧師とは信徒にとってどんな存在ですか。」2つの問いのようでそれは1つの質問でした。
 家庭訪問の団欒の中で、私が口に出した、この問いに対する答えは、「自分と向き合い、神様と向き合う中で、人に言えない過去の罪や思い煩い、闇の部分を告白し、光のものとなるための相手になりたい。闇が光に照らされて光のものとされるための助け手となりたい。」というものでした。私自身が語ったこの言葉に思いもよらなかった導きがありました。何ができるのかと思い煩っていた私に、「私が光を照らすのだ。あなたは照らす場所にいればいい」と語ってくださる神様が家庭訪問のテーブルに共に座っておられたことに胸が熱くなりました。

 実を結ばない暗闇のわざに加わらず、むしろ、それを明るみに出しなさい。すべてのものは光によって明るみに引き出され、明らかにされます。明らかにされるものはみな光だからです。
エペソ人への手紙5:11、13~14

光テラス No.9

6月3日
 教団の中国・四国宣教区の開拓の働きである「徳島ツアー」に参加してきました。私にとっては初四国ということもあり、観光の気持ちも多少ありつつも期待をして行きました。
はじめにゆめタウンの屋上から宣教候補地を眺め、それぞれの地域的な事情や環境の説明を受けました。昼食に徳島ラーメンを食べた後、眉山という展望台のある山から町並みを見下ろしました。いよいよこれから教団の宣教が始まるのだと胸が高鳴りました。
そして徳島市内の教会を訪問し、徳島開拓の事情を話してもらい、質疑応答を交えて学びのときを持ちました。過疎化が進む四国の中でも活気が失われつつある徳島県において、教会は真理だけを宣べ伝えても歓迎してもらえない事情があり、地域に貢献する手がかりが必要だと仰っていました。
 その言葉に私は、「真理だけを宣べ伝えても」ではなく「地域に貢献することも真理」なのだと気づかされました。確かに信仰がなければどんな貢献をしても結局は虚しくなってしまいます。その一方で、不器用でも行動しなければ伝えられないものがあることもまた聖書に記されている大切な真理であったのです。

 兄弟か姉妹に着る物がなく、毎日の食べ物にも事欠いているようなときに、あなたがたのうちの誰かが、その人たちに、「安心して行きなさい。温まりなさい。満腹になるまで食べなさい」と言っても、からだに必要なものを与えなければ、何の役に立つでしょう。
ヤコブの手紙2:15~16