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みことばはみがき No.119

   1ペテロ 1:7
   試練で試されたあなたがたの信仰は、
   火で精錬されてもなお朽ちていく金よりも高価であり、
   イエス・キリストが現れるとき、称賛と栄光と誉れをもたらします。 
 
 北海道に行ってきました。仕事ではなく、完全に家庭の事情によるものです。第三子を迎えるにあたり、1歳に満たない第二子を祖父母・姉家族に預けてサポートしてもらい、出産直後の時期を乗り越えるという計画でした。

 しかし、突然の展開が訪れました。検診に行った妻から電話が入り、すぐに入院するとの連絡がありました。岡山から北海道に子どもたちと来て、妻もゆっくりできると考えていたにも関わらず、妻も家から病院に出ることになってしまったのです。
 
 何もできず、そばにもいられない状況にかなり動揺しましたが、主は味方であり、最も良い実りを与えてくださると信じ、その後の処置や検査などを委ね、祈りました。
 妻は教会員に連絡を取り、病院まで送ってもらうことができました。息子を北海道へ残し、娘と飛行機で岡山へ戻りました。夕方に家につき、夜にはなってしまいましたが、病院へ行き、私も娘も妻と面会することができ、ほっとしました。

 2カ月後にはそれぞれの地から再び家族が呼び集められ、5人で新しい形での生活が始まります。待ち望みつつ備えます。


    神がいのちを与えたからこそ生かされ
    神が呼び集められたからこそ家族とされる

みことばはみがき No.118

   詩篇 37:3-5
   主に信頼し 善を行え。
   地に住み 誠実を養え。
   主を自らの喜びとせよ。
   主はあなたの心の願いをかなえてくださる。
   あなたの道を主にゆだねよ。
   主に信頼せよ。
   主が成し遂げてくださる。 
 
 息子の保育園登園が最終日を迎えました。これまでの感謝を伝えるため、夫婦で行きました。
 育児と仕事の両立に難しさを感じている中、1歳に満たない息子を保育園に送ることにとても悩みましたが、決断して約2か月、保育園で過ごす息子の楽しそうな姿とその間、教会の働きに従事できたことは大きな実りでした。

 子どもと離れることは子ども以上に親にとっての成長の機会であることを、身をもって経験した2か月でした。どんなに大切であっても、子どものことで頭がいっぱいで他のことが手につかなくなってしまうなら、仕事も家事も、その他の人間関係も、そして神との関わりも疎かになる危険性が高いでしょう。

 全ての不安要素をなくそうと動けば、本来なすべき歩みから大きくずれることも分かりました。不安をなくすための行動ではなく、委ねるべき相手に委ね、主に守りと助けを祈ることこそ、信仰であり、主に求められていることだと知りました。
 そしてまた、しばらくの別れを経て、成長した姿を息子に見せたいと思います。


    神は子どもだけでなく大人をも成長させる
    神にとってはみな子どもだからだ

みことばはみがき No.117

   創世記 15:5
   そして主は、彼を外に連れ出して言われた。
   「さあ、天を見上げなさい。星を数えられるなら数えなさい。」
   さらに言われた。「あなたの子孫は、このようになる。」

 教団青年部の西地区が主催する青年キャンプに奉仕してきました。私は初めての宿泊型行事の責任者ということもあり、施設側とのやり取りや会計、受付、青年たちとの全体的な関わりをしてきました。

 キャンプ当日の直前、講師である聖約教団の牧師から、責任者であるということで呼び出され、このような言葉が伝えられました。「今朝、父が天に召されました。」
 前日に危険な状態だと連絡をしてくださったことで、大きな動揺をせずにキャンプを始められましたが、岡山県内で私が生まれる前から伝道をし、多くの人々を愛しておられた懐の広い父牧師は私のことも、新任時から優しく励まし迎えてくださりました。

 蒜山のキャンプ場の夜は天の川が見えるほど満点の星空となりました。その下で、多くの青年たちが焚き火をしながら、話に花を咲かせていました。
 後日、キャンプの感想で、先生方が楽しそうにしていたから、私も楽しめたという言葉を聞き、私もまた、神の懐の一部を担うことができたのかなと感謝しました。


    神が喜びをもって受け入れたからこそ
    人は安心して神の懐に飛び込めるのだ

みことばはみがき No.116

   伝道者の書 3:13
   また、人がみな食べたり飲んだりして、
   すべての労苦の中に幸せを見出すことも、
   神の賜物であることを。

 北海道から母親が孫に会いに岡山まで来てくれました。特に私と妻の誕生日ということもあり、みんなで何かおいしいものでも食べようということになりました。
 「何食べる?」と聞かれ、日曜日の夕方、オープン礼拝が終わってからとなると、それほど遠くにはいけないし、時間帯によっては混むかもしれないと考えた私は豚カツと答えました。

 近場のお店で済ますという言い方では妥協したような印象になりますが、しばらく行けなかった、ディナーに行くには安くはないイメージのお店という言い方にもなるでしょう。

 自分の誕生日だけれども、息子を抱きかかえ、娘の話し相手になり、妻の体調に気にかけ、母親の様子を見ると、ほとんど自由にはならないものです。
 しかし自分の思うように動くよりも、家族とみんなでおいしい食事がとれることがとても幸せなことだと感じるひと時でした。私と一緒に食事をするために抱きかかえられ、連れて来られ、身重のからだで頑張って立ち上がり、北海道からわざわざ来てくれていたのですから。


    自分に何が与えられたかよりも
    自分のために動いてくれる人がいることに感謝

みことばはみがき No.115

   詩篇 149:3-4
   踊りをもって 主の御名をほめたたえよ。
   タンバリンと竪琴に合わせて 主にほめ歌を歌え。
   主はご自分の民を愛し
   貧しい者たちを救いをもって装われる。

 珍しく水曜日のプランター以外、会議や集会のない週の前半でした。子どもたちを保育園などに送り、教会に戻ってくると、こんなにも静かな朝だったのかと我に返りました。

 電話もほぼない中で御言葉に向き合い、仕事を進めることができることがこれほど感謝なことなのかと感じました。
 また、水曜日の朝に、タイ語の賛美と導きの動画を数年ぶりに見ることにしました。そこには私がタイで洗礼を受けて、神学校に通っていた時に触れたワーシップソングを歌うタイの賛美リードの方の姿が映っていました。

 タイに留学するまで、賛美歌しか知らなかった私ですが、タイ語のワーシップを耳にしたとき、洗礼を受け、献身を決意し、歩み始めた頃の信仰の情熱が再び沸き起こってきました。

 聞き慣れない音色、手をあげたり叩いたりする振り、どれもがカルチャーショックでありながらも新鮮なものでした。違和感を覚えながらも賛美している人々の表情や歌から伝わるその信仰の熱い思いは確かなものだと受け取れたことで、私自身の賛美も熱いものへと変えられましたことを思い出した出来事でした。


    歌やスタイルは表現の一つの方法であり
    歌や手にのせた信仰の告白が賛美である

みことばはみがき No.114

   ローマ 10:17 
   ですから、信仰は聞くことから始まります。
   聞くことは、キリストについてのことばを通して実現するのです。

 交換講壇に行ってきました。教会に招かれることは個人的にとてもうれしいことで、とても新鮮な気持ちになります。牧師もそうですが、礼拝に集う信徒にとっても、いつもと違う説教の形や展開に、新しい刺激を受けたことでしょう。

 礼拝後、青年から声が掛かり、「先生、あの話、僕もそう思ってたんです。」と反応してもらいました。私は「なるほど、そういう悩みや状況があるんだ」と知れました。聞き手が変わったから与えられたものだと感じています。

 一方、家庭集会で説教の感想を分かち合った際に、「私はあの先生の経験談にとても共感して、身近に感じました。」と語ってくださる方がいました。あぁ私だけでなく、あちらの先生にとってもとてもよい刺激と機会になったのではないかと思いました。
 
 礼拝の後、訪問先の教会の活動の様子を聞いた際に、新しいチャレンジをすることを知りました。その活動が用いられてほしいと願うのと同時に宣教への情熱の火が私の心にも灯されました。
桜が丘での礼拝後の交わりも、ほぼすべての方が加わり、豊かな時間だったと報告を受け、喜びと感謝を主にお伝えしました。


    説教は神のことばへの解き明かし
    神のことばへの正直な応答が心を動かす

みことばはみがき No.113

   ルカ 15:20
   こうして彼は立ち上がって、自分の父のもとへ向かった。
   ところが、まだ家までは遠かったのに、父親は彼を見つけて、
   かわいそうに思い、駆け寄って彼の首を抱き、口づけした。

 いよいよ交換講壇を迎えました。昨年初めてお声かけいただいて実施した東岡山キリスト教会との牧師の交換講壇は、礼拝の説教のみならず、朝のプランターの時間や礼拝後の交わりの時間までお迎えでき、素晴らしい交わりとなりました。

 期待をしながら打合せをしようとした矢先、私の体調が崩れ、寝込んでしまいました。何をするにも頭痛があり、ようやく水曜日のプランターの準備を終え、水曜日を迎えて出席しました。
 そして土曜日。多少の筋肉の痛みは残っていましたが、その他は普段の状況に戻ってきていました。数か月ぶりに東岡山キリスト教会に伺い、近況を伝えあうことができた喜びと安堵は、まるで久しぶりに教会に来た信徒と同じ気持ちでした。

 直前まで連絡できずにいることは無礼ではありましたが、それ以上に喜びをもって迎えてくださるからこそ、遅くても勇気をもって連絡することができました。
 神もまた、この地上のいのちを終える直前まで悔い改めることがなくても、神のものへと帰ってくるものを喜んで迎えいれてくれることでしょう。


    安心して会ってくださる方だから
    諦めずに会おうとすることができる

みことばはみがき No.112

ヨブ 33:26
彼は、神に祈ると受け入れられる。
彼は歓喜の声をもって御顔を仰ぎ、
神はその人の義に報いてくださる。

 教団青年部主催の青年宣教シンポジウムが行われました。私も企画者として前日から大阪の蛍池聖書教会へ行き、準備・運営にあたりました。
 教会に青年たちがいない、少ない教会がほとんどの中、青年たちが集まり、信仰を育んでいくヒントを得ようと80名ほどの方々が集いました。

 午前と午後に共通して語られた話題で印象に残っている言葉がありました。「青年たちは信仰の答えを知っている一方で理解者かどうかを確認している」「青年たちは基本的に同世代で交わるが、世代を超えた交わりで励まされることも多い」「青年たちの居場所は受け入れる心でつくる」
 講演や分科会での語られた内容と、最近礼拝で語ってきた説教の内容が重なり合っているとひしひしと伝わってきました。

 この教会の青年も決して多いとは言えません。しかし時には別の教会の青年から相談ごとを受けたり、他地域の青年との交わりに加えられたりすることもあります。その時に、改めてこれらの言葉を思い起こしたいと思いながら、岡山へと戻ってきました。


    答えを知っていて悩む人への愛とは
    正しさへの導きではなく居場所を与えること

みことばはみがき No.111

   ガラテヤ 6:9-10
   失望せずに善を行いましょう。あきらめずに続ければ、
   時が来て刈り取ることになります。
   ですから、私たちは機会があるうちに、すべての人に、
   特に信仰の家族に善を行いましょう。
 
 久しぶりに行事がなく、落ち着いた土曜日を迎えたこともあり、家族で海散歩をしに出掛けました。
 土曜日ということもあり、どこも混んでいて一つ一つの寄り道に時間がかかり、海に着いた頃には正午を回っていました。しかし、そのおかげもあり、私たちも軽くご飯を食べ、息子はミルクを飲んでから海で遊ぶことができました。

 1時間もしないうちに気温も上がり、暑くなりそうだったので、引き上げました。帰りの途中には初めて行く公園に寄り、私と娘は遊具で一緒に遊び、妻は息子とお休みタイムの後、車内でゆったり過ごしました。
 何気なく寄って遊んだ遊具も初めは怖さを抱いていましたが、補助をしながら数回乗ると、今度は「手を放して」と自らチャレンジし、怖さを含めて楽しむ姿に成長と頼もしさを感じました。

 家に帰り、夕食の前の時間、子どもたちがテーブルの下で互いを見ながら笑い合っている様子を覗いたとき、子どもといる生活がこんなにも楽しく、幸せなものなのだと、この数分前まで疲れて寝てしまっていた私は感じました。


    関わろうとするから疲れ
    関わろうとするから感動し感謝する

みことばはみがき No.110

   2コリント  12:10
   ですから私は、キリストのゆえに、弱さ、侮辱、苦悩、迫害、困難を喜んでいます。
   というのは、私が弱いときにこそ、私は強いからです。
 
 先日TCU学園デーを行ったばかりだと思っていましたが、宣教区主催のレディースフェロシップが行われました。
 ドタバタした集会にならなければいいなと思っていましたが、前日から台風の影響が大きくなる予想が報道されていました。

 四国方面の先生方からは欠席連絡があり、当日も警報が出るのではないかと警戒しつつ、開催に向けて備えていました。幸いなことに台風の直撃は免れ、お昼には天候が快方に向かいました。安全に開催できることをにホッとしました。

 一方で、私たちの家族は安泰とはいきませんでした。息子の体調が良くなく、保育園から迎えに来るように連絡がきたのです。
 午前の集会の司会に当たっていた私は身動きが取れず、参加対象者であった妻に迎えに行ってもらうことになってしまったのがとても残念でしたが、そうするしかありませんでした。

 願っていた通りになかなかならない最近の集会や生活ですが、そこには自分の願っていた形ではない実りと交わりもあり、決して損をしたわけでも傷ついたわけでもなく、私はしっかりとその集会の恵みに与っていたことを忘れてはいけないと思いました。


    思い通りにいかないからといって
    受ける恵みが減るとは限らない