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みことばはみがき No.99

   ヨハネ 21:24 
   これらのことについて証しし、これらのことを書いた者は、その弟子である。
   私たちは、彼の証しが真実であることを知っている。

 教会総会の準備と町内会総会の準備を行う、総会準備週となりました。どちらも取りまとめと印刷を行いましたが、製本作業よりも印刷速度の方が遅かったため、ゆったりと話をしながら過ごす交わりの時間となりました。

 資料印刷はその印刷よりも内容の作成に多くの時間を要します。それは単なる事務作業ではなく、報告書を記入している時間はその一年を振り返る時間に、計画書を記入している時間はこれからの一年に期待を膨らませる時間となりました。一年間の礼拝記録を思いながら、様々な状況にありながらも礼拝や奉仕が守られてきたことは大きな恵みであり、神の守りの証だと感じています。

 町内会の総会資料に目を通すと自分の知らない部門にも多くの働きがあることに気が付きました。知らないところで動いていることに不満を持つどころか、自分の手の届かないところで多くの人が奉仕していることに感謝の気持ちが湧いてきました。
 総会資料を単なる分厚い記録冊子から、人々の働きの証へ、主の働きと恵みのしるしへと受け取ることができるのは、神に対する信仰によるものだと振り返りながら感じました。


    活字に意味を見いだすのは読解力
    活字に恵みを見いだすのは信仰

みことばはみがき No.98

   ピリピ 4:6
   何も思い煩わないで、あらゆる場合に、
   感謝をもってささげる祈りと願いによって、
   あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい。

 私から始まった体調不良が子どもたちに回り、対応に追われる一週間となりました。様子を見ても症状が良くならない状況で、心配だけでなく不安も募っていきました。
 少しでも前向きに冷静にいようとするために、とっさに口に出る「少しだけ熱が…、まだなんとか大丈夫」という言葉によって、「そんなわけないでしょ?」と余計な苛立ちを与えてしまうこともありました。

 自分の力や努力ではどうしようもない時、焦らないように、動転しないようにセルフコントロールが働きます。その言葉は外に向けられているようで内に向けられています。

 信仰もまた、神の驚くべき働きによって自分の力ではどうしようもできなくなった時、神の力や働きを認める前に起こりうる合理的、感覚的な原因を探ろうとしてしまうのは、人間の弱さゆえに起こりうることでしょう。

 目の前の状況をありのまま受け入れることはどれほど難しいのでしょうか。しかし己の弱さを受け入れ、神の働きを知る時、祈りという選択肢が生まれてくるのです。


    己の弱さにふたをするよりも
    己の弱さを恵みで満たしてもらう方がいい

みことばはみがき No.97

   ルツ 2:16
   それだけでなく、彼女のために束からわざと穂を抜き落として、拾い集めさせなさい。
   彼女を叱ってはいけない。
 
 ジョイフルホリデーも卒業の季節。2名の子どもたちが小学校の卒業を迎えました。彼らが初めてジョイフルホリデーに参加したのは小学校2年生の時で、5年も続けて活動に参加したことは彼らにとって宝となり、神さまの宝として磨かれたことでしょう。

 一方で先月から参加した子も自分の意見をしっかりと語ってくれました。ルツに対してボアズがなぜこれほど親切にしていたかという問いに対して、他のところでいじめられないようにすると答えました。また、ルツが自分で落ち穂を拾うことの喜びを知ることの大切さを同じグループの友達と分かち合いました。

 信仰生活においては何歳になってもこの事実は変わることがありません。神さまはいつも、私たちが求めているものをご存じであっても、すべてを先に与えるようなことはなさりません。時には何カ月も何年も待って、与えることもあります。

 それは意地悪ではありません。与えられた喜びと感謝があふれ、与えられたことの意味がわかる時を選んで、神さまが待っておられたからです。求めて求めて、その後に与えられたなら、私たちは心から感謝することを知っておられるのです。


    ポケモンは人からもらうより、
    自分で見つけて捕まえた方が、愛着がわく

みことばはみがき No.96

   1ペテロ 5:2
   あなたがたのうちにいる、神の羊の群れを牧しなさい。
   強制されてではなく、神に従って自発的に、
   また卑しい利得を求めてではなく、心を込めて世話をしなさい。

 子どもたちや教会外で人と会って話す時間を持つことのできた交わりの一週間でした。妻の体調が優れない時に子どもたちを連れてお茶を飲みに行くと、猫と遊んだりおいしいパンを食べて満足そうな顔をしていたり、いろいろな人に抱っこしてもらう様子を見ながら、笑顔が止まりませんでした。

 私が仕事で時間が必要な時は妻が子どもたちを連れて出かけることもありました。静まった部屋で一息ついた時に、いかにこの時間を得ることが難しく、そして尊い時間なのだと感じました。

 たった2週間前、家には自分以外誰もおらず、時間を使いたい放題であったのに、小さい子どもがいるとこれほど時間の価値は変わるのだと実感しました。だからこそ、時間を作ってもらったことさえも感謝となりました。

 中高生の集会、韓国からの宣教チームとの交わり、食事をしながら行った青年との洗礼に向けた学び。教会に集い、ともに主に仕えるからこそ、多くの交わりが与えられていることに気付きました。信仰があるからこそ生まれたグループ・共同体。キリストはその中心できっと笑顔で見ていることでしょう。


    大切な存在が幸せな顔をしているのなら
    自分という存在もまた、幸せなものとなる

みことばはみがき No.95

   ヨハネ 15:2
   わたしの枝で実を結ばないものはすべて、
   父がそれを取り除き、実を結ぶものはすべて、
   もっと多く実を結ぶように、刈り込みをなさいます。
 
 しばらく実家に帰って行ったと思っていた妻と子どもたちが帰ってきました。急遽帰って来る日時を告げられたとき、あまりも時間が迫っていたこともあり、驚き半分慌ただしさ半分でした。

 直前の変更でご迷惑をかけてしまった方々には申し訳ありませんでした。実際に帰って来ると驚きはなくなり、慌ただしさは2倍になりました!

 一人で考え過ごしていた時間が嘘のように、考えるヒマもなく家族と向き合う時間でいっぱいになりました。しかし、そこには時間の不自由さを補って余りある笑顔と喜びがありました。
 ただ、予定していた働きの予定を完全には変更できません。延期できないものはなんとか家族の協力を得て、実施できるように調整しました。

 家の内側ばかりに心を向ければ、実りの数は増えるどころか減ってしまうかもしれません。その恐れが私を襲っていたました。しかしそれでも精いっぱい愛情を注ぐなら、数少ない実りでも甘みがいっぱいの豊かな実内になるのだと信じています。そして愛情を注ぐ私自身もさらに甘みと深みのある者になりたいものです。


    身内に愛情を注ぐならその実内は豊かになり
    キリストの身内に多くの実を結ぶ

みことばはみがき No.94

   ルカ 1:58
   近所の人たちや親族は、
   主がエリサベツに大きなあわれみをかけてくださったことを聞いて、
   彼女とともに喜んだ。

 妻が子どもたちを連れて、実家に行きました。夫婦関係の問題ではなく、孫の顔を見せるために行きました。

 数か月ぶりに一人の時間ができてホッとするかと思っていましたが、実際には家族ロスと保留にしていた働きが詰まっていることに気が付きました。
息子が生まれてからほぼ毎日一緒に過ごし、娘の遊び相手や話し相手として過ごし、子どもたちが寝静まってから、妻と励まし合っていた生活から一度に離れたことで、戸惑う自分がいました。

 妻や子どもたちがいないことは確かに仕事や自分に費やすことのできる時間は増えますが、これまでの形の生活のメリハリが失われ、新しい形でメリハリをつけられないまま、ダラダラと過ごしてしまう日もありました。

 一人になって改めて感じたこと。それは自分の目指している生活よりも、自時間の使い方に不自由を感じながらも、愛し愛される者が身近にいることの方が、活き活きと過ごせると言うことでした。幸せは掴むものではなく与えられるものだと感じながら、帰って来る日を待ちながら毎日を過ごしたいと思っています。


    自分で掴む幸せは満足する
    他者から与えられる幸せは感謝する

みことばはみがき No.93

   2コリント 8:3-4
   私は証しします。彼らは自ら進んで、力に応じて、また力以上に献げ、
   聖徒たちを支える奉仕の恵みにあずかりたいと、
   大変な熱意をもって私たちに懇願しました。
 
 岡山に来てから最大級の寒波が押し寄せました。夜通し降る雪を見ながら、どこまで積もるのだろうかと思っていました。北海道出身の私にとっては朝方に見た雪景色を懐かしく思う一方で、やっぱりここはこれくらいしか積もらないのだと感じました。

 しかし、教会の目の前の道を恐る恐る下っていく車が渋滞となっていること、坂を上ろうとして前輪が空回りしてほとんど進んでいない車が何台も、歩いている人に抜かされながら通り過ぎていく様子を見て、交通が大混乱していることを理解しました。
 そうしているうちにインターホンが鳴り、話を聞くと、道が混んで全く進まないから、駐車場に車を置かせてほしいとのことでした。安全に職場に辿り着ければいいなと思いながら、すぐに了承しました。

 そして肝心の我が家を見ると、風邪ひきさん一人、お疲れの方一人、お腹が痛いと体調不良を訴える方一人と家族もダウンの一日を過ごしました。その中で、私の家事や働きが少しずつでも守られていたことに感謝しながら、娘のために小さな雪だるまを作って、冷凍庫に忍ばせておきました。明日まであったらいいな。


    支えてくれる相手がいる幸せと同じように
    支えてあげる相手がいる幸せもある

みことばはみがき No.92

   マルコ 1:38
   イエスは彼らに言われた。
   「さあ、近くにある別の町や村へ行こう。
    わたしはそこでも福音を伝えよう。
    そのために、わたしは出て来たのだから。」

 教団の大きな大会の実行委員会の顔合わせと会議のため、出張してきました。子どもが小さいこともあり、今回は家族同伴で向かいました。息子は初めての遠出であり、初飛行機に初モノレール、初バスに初タクシーとあらゆる乗り物にも乗りました。

 子どものためにと思いつつも子どもを振り回してしまっていることに抵抗を感じながら、長旅を安全に終えることができました。
 そして実行委員会のメンバーとの顔合わせと会議が始まりました。自分が、どんなことに興味や関心を持っているかをはっきりと言うことは難しくても、少しでも役に立ちたいという気持ちから実行委員になることを受け入れたことを知りました。

 聖書においても、私たちが進むべき道筋を、律法を通して示したり、イエスさまご自身がともに歩み導いたりしてくださいました。そしてイエスさまは一人で歩むのではなく、あらゆる人にともに歩もうと招き、教え、励ましてくださいました。

 イエスさまが先頭を歩んで私たちを受け入れてくださるからこそ、たとえ力が及ばなくても、私を用いてくださるイエスさまに「力になりたいです」と歩み寄る者にならせてください。


    力があるから仲間とされたのではなく
    仲間とされたから力を出せるのだ

みことばはみがき No.91

   1ヨハネ 2:14
   幼子たち。私があなたがたに書いてきたのは、
   あなたがたが 御父を知るようになったからです。
   父たち。私があなたがたに書いてきたのは、初めからおられる方を、
   あなたがたが知るようになったからです。 
 
 姉と甥が北海道から訪ねて来てくれました。北海道の両親のもとで会うことはあっても、こうして岡山に来て、姉弟、いとこ同士で時間を過ごすことはこれまでありませんでした。年齢に違いはあれど、子ども同士で話をしたり遊ぶ姿が見られ、影響し合う様子を見られるのは親としてとても幸せな気持ちになりました。

 もちろん、影響し合うということは親が予想もしない行動やことばが出て来ることもあります。ショッピングモールの中でかくれんぼを始めた娘たち。迷惑がかかるため、子どもを注意し、お店に謝るこの役目が親なんだと、申し訳なさを感じつつも微笑ましい光景でした。

 それでも、これまで自分の力で生きてきた人がキリストと出会い、キリストと交わり、キリストに影響され、生かされた人の様子を見られるのは牧会者としてとても幸せなものなのだと気持ちを重ね合わせました。
 自分のことから、子どものことへ。親心を知ることで神の気持ちを知るなんて、これからも多くの経験から知ることのできる神の気持ちに期待が増してきました。


    子どもは親心を知らないのは当然であり
    愛さない者が神を知らないのも必然である

みことばはみがき No.90

   ルカ 9:23
   イエスは皆に言われた。
   「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、
    日々自分の十字架を負って、わたしに従って来なさい。」

 礼拝から始まる2023年。元旦が主日だからこそ特別な気持ちで年を越しました。特に久しぶりに夫婦で賛美の時間を持つことができたのはとてもうれしいひと時でしたが、多くの反省から始まりました。自分中心の考え方から抜け出せずに、周囲に迷惑をかけていることに気が付きました。ずる賢い私は自分自身をも欺いていて、気づかぬうちに同じ失敗を繰り返してしまうのです。

 そのような中で、たまたまお会いした方とのお話の内容にヒントがあることに気が付きました。
 私の親の世代には、働きに出る夫を見送り、子どもが元気に成長し、学校の話を聞かせてくれることを心から喜び、母として自分の時間を惜しみなくささげ、仕えている方が多くおられ、それを幸せと感じている人も多いことに驚きました。

 私はその「夫」のように送り出してもらいたいと考えていたのです。しかしそれは相手に奉仕を求めていたのです。この考え方から抜け出し、私自身も多くの人を送り出し、支えるために自分の時間を惜しみなくささげる者になりたいと願います。自分を磨く時間よりも相手を輝かせるために仕える年となりますように。


    自分を拭けば用いられた布は汚れ
    自分で拭けば拭かれたものは輝く