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みことばはみがき No.89

    詩篇 19:13
あなたのしもべを 傲慢から守ってください。
それらが私を支配しないようにしてください。
そのとき私は 大きな背きから解き放たれて
全き者となるでしょう。 
 
 キャンドルサービスとクリスマス礼拝を迎えました。育児中心の生活の中で迎えるクリスマスに、果たして十分な役割と働きができるのか不安もありましたが、多くの人の祈りと支えによって祝福にあふれる礼拝となりました。

 周りを見る余裕が失われ、自分や家族のことを考えるばかりの私の状況を非難することなく、温かい言葉をかけてくださる人、ゆっくりと話をする機会もなかなか持つことができない中でも息子の誕生を喜び、お祝いの気持ちを届けてくださる人。
 牧会者でありながら、私や家族が支え守られていることを実感しました。このような状況でも信仰を決心する人がいて、洗礼式を迎えられました。これは私が導いたのではなく、神の計画の中で信仰を導かれる御業を一番間近で味わわせていただいたのです。

 そして、その中で自分がいかに傲慢であったのかを思い知ることとなりました。「できるだろう」と考え、あきらめて断らないばかりに多くの人に負担を強いることになっていた自分の愚かさと見積もりの甘さによって働きにも気持ちにも余裕と配慮に欠けていたことを知りました。


    最大限の結果を求めれば愛が失われ
    最大限の配慮を求めれば愛が生まれる

みことばはみがき No.88

   マタイ 11:28
   すべて疲れた人、重荷を負っている人はわたしのもとに来なさい。
   わたしがあなたがたを休ませてあげます。
 
 子育て真っただ中のクリスマスを迎えることになりそうです。思えば3年前はクリスマス礼拝を終え、夕方に早めのキャンドルサービスをするために一度部屋に戻ろうとしたところに娘の誕生の知らせが舞い込んできました。
 今年は誕生した息子も加わり、なかなか家族で礼拝に出られるような状況にならず、夫として父として、そして牧師として家族が礼拝に出られるようにと祈りながら過ごしています。

 私自身もみことばと向き合う機会が限られている中で迎えたオープン礼拝。自分以外の方のメッセージを聞ける貴重な機会の中で語られた御言葉の意味と信仰者としての思いによって大きな励ましと刺激を受けました。
 そこには子育ての重要性や祝福の前に、一人の人間として神が私を憐れみ、自分では乗り越えられない大きな困難でさえも、神の御業を通して向き合い、進められていく歩みがありました。

 家では親や夫として。階段を下りれば牧師として、ありのままの自分を失わないように、私の源である主に心を向けて憩いと休む時を持ちたいと思いました。


    役割から離れることは責任放棄ではなく
    ありのままの自分を取り戻すリスタートである

みことばはみがき No.87

   ルカ 6:42
   あなた自身、自分の目にある梁が見えていないのに、
   兄弟に対して『兄弟、あなたの目のちりを取り除かせてください』と、どうして言えるのですか。
   偽善者よ、まず自分の目から梁を取り除きなさい。
   そうすれば、兄弟の目のちりがはっきり見えるようになって、取り除くことができます。  
 
 妻の負担をできるだけ軽減できるようにと過ごした10日間、息子と丸一日過ごすこともあり、自分では気づかない間に「疲れ」が襲ってきていることが、妻の指摘でわかりました。
 子どもの世話という目の前のことに心を配り、抱っことミルクと寝かしつけを繰り返しているうちに、時間の感覚や昼夜の生活リズムが崩れ、子どもの世話の合間に適当に自分の食事や身支度をする。そのような生活が続いてきました。

 子どもが0~3か月の頃なんてみんなそう。とはよく母親たちの間で言われていますが、一体どれほどの働く男性がこの事実を味わってきたのかと考えることもありました。
 子育てを「手伝い」や「体験者」ではなく、「主催者」として関わりを持つことで始めて分かる苦労や辛さがあります。それに加えて、妻から見た夫への不満さえも知ることができました。

 信仰生活も神さまへの手伝いや体験者ではなく、神の計画と働きをともに担う主催者として携わるなら、その辛さは大きいものとはなりますが、信仰の醍醐味を味わうことができるでしょう。


    中心にいる者の辛さや苦しみは
    自分も中心に向かわなければ味わえない

みことばはみがき No.86

   ローマ 5:3-4
   それだけではなく、苦難さえも喜んでいます。
   それは、苦難が忍耐を生み出し、忍耐が練られた品性を生み出し、
   練られた品性が希望を生み出すと、私たちは知っているからです。
 
 教会に赴任して初めて、完全オンラインの礼拝を持ちました。予め日にちを定めて行ったものではなく、コロナ禍での急遽の対応となりました。

 クリスマスの集会もある中で判明した事態に一時頭も混乱したが、長老や執事の方々の迅速な対応もあり、滞りなく連絡や対応することができました。
 オンラインで出席することが難しい方がおられることもわかっていたため、心苦しい部分はありましたが、できる範囲で精いっぱいのことをしました。

 なんとか礼拝を実施できたことは大きな収穫です。その一方で礼拝できなかった方々への手助けや礼拝内容の振り返りを思いつつ、どのように元の礼拝へ戻るか、延期した会議や行事をどのようにするかを、現在もなお考えていく必要があります。
 必要最小限の外出に留め、家の中で過ごしたこの一週間。経験したからこそ知る難しさの中に、多くの発見と配慮と感謝がちりばめられていました。


    困難を通して多くの恵みを知り
    立ち止まることで支えと励ましに気付く

みことばはみがき No.85

   2コリント 4:15
   すべてのことは、あなたがたのためであり、
   恵みがますます多くの人々に及んで感謝が満ちあふれ、
   神の栄光が現れるようになるためなのです。

 サッカーのワールドカップが開幕しました。日本代表の試合内容に一喜一憂した1週間となりました。それに加えて、育児をしながら他の国の試合も見ています。普段はJリーグの試合さえ見ない私ですが、まさに「にわか」ファンとなっています。

 自分の国である日本を応援するのはもちろんですが、馴染みのある国も応援する気持ちが生まれてきます。中東のある国の選手には教会に来ている人と同じ名前だということだけで親近感が湧き、オーストラリア所属で試合に得点した選手が岡山のクラブに所属していることを知ると、より応援したくなります。
 画面に映る、単なる一人のサッカー選手から、情報を知ることで心理的な距離が縮まる。見ず知らずであったけれどもすでに活躍していた相手を、「情報」を通じてつながる。

 聖書もまさに、初めからおられるキリストの情報を通じてつなげられる大切なことばだと、この出来事から学びました。私も言葉を通じて、人と人を、人と神とを身近につなげる者となりたいと思いを新たにしました。


    情報は相手と自分を近づける道具
    ことばは人と神とをつなげる存在

みことばはみがき No.84

   ヨハネ 15:16
   あなたがたがわたしを選んだのではなく、
   わたしがあなたがたを選び、あなたがたを任命しました。
   それは、あなたがたが行って実を結び、
   その実が残るようになるためです。

 教団の働きのために依頼されていた、インターネット上で共同作業のできるアプリを検索していました。数年前までは無料で使えていたものも、現在は無料でできる範囲は限定的で、より便利で広範囲にわたる機能を使うためには継続的な支払いが生じるもの、いわゆるサブスクがほとんどになりました。

 支払いを済ませれば一定期間、サービスを使い放題になるのでとても便利です。しかし、この仕組みには二つの壁があります。
 一つは支払いをしても、何も使わなかったり、使いきれないままその期間を終わってしまい、無駄遣いになってしまうこと。もう一つは、より多くの機能を使いこなすにはより専門的な学習も必要となり、時間もかかるということです。

 信仰をサブスクのような消費サービスのように考えてしまうなら、諦めて途中で解約してしまうかもしれません。しかし、神が一人一人にいのちを授けて福音を伝えるサブスクを契約していると考えると、人間はそのサービス(奉仕)を果たしていないことになるのだと感じました。


    人間は神の契約内容であり
    神の契約相手ではない

みことばはみがき No.83

   2コリント 13:5
   あなたがたは、信仰に生きているかどうか、
   自分自身を試し、吟味しなさい。
                 
 母親と父親が北海道から来て、短いながらも一緒に過ごす時間が与えられました。家の仕事が忙しい中でも、孫の顔を見て、抱いてあやして、ミルクをあげる姿に励まされる数日間でした。

 子育てと教会の働きの両立の難しさを話したことで、恵みと課題にどう向き合うのかについて考えるきっかけとなりました。
 その中で私にとって最も課題であり、手放すのが難しいことが、「立ち止まる」ことでした。これまで積み上げた歩みが立ち止まることによって「止まる」だけでなく「衰える」のではないかという不安が襲っていたのです。

 しかし、それは私の弱さであり、断片的な恵みの受け取り方であることに気付かされました。なぜなら、積み上げたものは自分の理想に近づく積み上げ方であり、実際にはもっと多くの切り口から恵みや実りを味わうことのできるものだったからです。

 赤ちゃんが泣くのは親を悩ませるのではなく、伝えたい意志の表れであるように、立ち止まって耳を傾けることで聞こえてくる小さな泣き声は積み上げることでは見えてこない神の恵みであったのです。


積み上げた先に見える実りもあれば
止まって下を向いたときに見える実りもある

みことばはみがき No.82

   使徒の働き 15:11
   私たちは、主イエスの恵みによって救われると信じていますが、
   あの人たちも同じなのです。

 宣教区会議が行われ、初めて奨励(聖書メッセージ)を行いました。内容は自由で、証を交えても構いませんとのことでした。そこで証を交えた、会議出席者に向けた奨励を備えました。

 教会という共同体に加わらずに礼拝だけをしていた子ども時代。教会の人間関係につまずいた大学時代。タイという異邦の地で様々な教会から集う日本人教会で洗礼を受けた青年時代。私は一つの教団の教会で育った信徒とは言えない、異邦人信仰者でした。
 その後、神に人生をささげて、牧師となるために帰国する際に、日本同盟基督教団は宣教のために教会が協力する教団であると聞いて加入すると、同じように他の教団から加入した教師たち、韓国などの外国から加入した教師たち、地元ではない地で牧会している教師たちがいることが分かりました。

 様々な形で信仰を持った人たちと手を取りあうことは課題が多いものです。しかし、その課題と向き合い、答えを出していくことで、本質を見つけることができ、受け皿も広がっていきます。

 福音を受け入れるために悩む会議となることは理想の姿だと御言葉から学びました。


    同じ答えだと確認することよりも
    同じ姿勢で答えを出すことに価値がある

みことばはみがき No.81

   2コリント 12:10
   ですから私は、キリストのゆえに、
   弱さ、侮辱、苦悩、迫害、困難を喜んでいます。
   というのは、私が弱いときにこそ、私は強いからです。

 北海道で宣教をされ、地元で病に倒れ、療養中であった宣教師が天に召されたとの一報が入りました。私たち家族は出会った時はすでに療養中であったため、直接言葉を交わす機会は与えられませんでしたが、地元へ帰る度に挨拶に行き、前回は礼拝奉仕の機会も与えられ、宣教師夫人とは親しく交流していました。
 移住した地で先生の弱さが用いられ、多くの人が先生を支えるために教会を訪れ、夫人が感謝と祈りを通して福音を伝えていらっしゃる姿に父もその信仰に大きな刺激を受けていました。

 しかし、この弱さは長い間続いていたわけではありません。倒れる前まで、熱心に御言葉を語り、教会を開拓し、多くの信徒を励まし、教育してこられました。
 その宣教に対する熱心さを、主は地上での終わりの時まで用いられていたのでしょう。これまで先生の愛とことばによって集められ来た人々が、この地元では病と弱さによって集められて来た人々が確かに存在するからです。

 牧会者であり宣教者として立てられた私は、どのような歩みになっても、終わりまで主に用いられたいと改めて願いました。


    主に用いられるからこそ強く
    自らの力は主の前では常に弱い

みことばはみがき No.80

   詩篇 23:2
   主は私を緑の牧場に伏させ
   いこいのみぎわに伴われます。

 息子を迎えて2週目。私は主に夜担当として、娘を寝かしつけてから息子の世話を朝まで行っています。

 調子が良ければ24時頃にミルクを与えて寝かすと、夜中に1度だけ起きてミルクとオムツの世話をし、再度寝たら朝という理想的な流れで私自身の睡眠も確保できます。
 しかしタイミングや息子の機嫌や体調が優れないと、泣き続ける子を抱いてあやしているうちに、1時間、2時間と時が進み、それにつられて睡眠時間も削られていきます。

 睡眠不足がたたり、娘から受けたカゼをもらってしまい、私も発熱してしまい、翌日はただただ休むことしかできませんでした。世話をする側からされる側になってしまい、なんとも申し訳ない気持ちになりました。

 どんなに気持ちや責任感を持っていてもそれだけで休まずに動いていると、いつかは倒れてしまいます。その境目を自分で見極める必要を感じました。そして、境目でSOSを出すのではなく、もっと手前で調節できるようにするのが大人だと気づきました。上手に頼り、上手に仕える者でありたいと思いました。


    相手に休息を与えるに自らが仕える
    感謝の声掛けだけでは休息は得られない