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みことばはみがき No.79

   マタイ 18:5
   また、だれでもこのような子どもの一人を、
   わたしの名のゆえに受け入れる人は、
   わたしを受け入れるのです。 

 妻と息子が退院し、義母を迎えて新しい生活が始まりました。新生児を迎えて生活する恵みと苦労を同時に受けています。
 夜中にオムツとミルクで泣き始める子に起こされ、ミルクの支度を始めてからオムツを取替え、子どもをあやしつつミルクを温め、途中で寝ないように声をかけながら飲ませる。赤ちゃんを育てることのいたって当たり前の歩みがいのちを預かる喜びと責任を与えてくれます。

 牧会者として主に仕えたいと思い、なかなか進まない礼拝準備をいつやろうかと考えていると、まるで育児が牧会の妨げになっているかのような態度になってしまいます。

 しかし、本来は主に仕えることのうちの一つに赤ちゃんに仕えること、謙ってただ従うことの尊さが含まれていることを学んでいるのです。従うことで育つ子がいる。これが主とともに生きる者に必要な態度だとわかったとき、従うことで時間が奪われているという考えは消え、従うことで育つ楽しみに期待を持つことができました。何よりキリストが神に従ったからこそ、私は生かされ、養われていたからです。


謙ることで子は愛され
従うことで子は育まれていく

みことばはみがき No.78

   ルカ 15:24
   『この息子は、死んでいたのに生き返り、
    いなくなっていたのに見つかったのだから。』
   こうして彼らは祝宴を始めた。

 第2子である長男が誕生しました。前日に妻が入院を済ませ、娘と二人で、家で過ごす日々が続いています。出産予定日の朝、娘を預かり保育へ送り、いつでも呼び出しを受けられるように病院の近くのカフェで仕事をしていました。すると、連絡が入りました。緊急の患者が入り、予定よりも時間が遅くなるとのことでした。

 先に娘を迎えに行くことになったため、昼のうちに必要な買い物を済ませようと市内中心部へ向かい、駐車しようと敷地内に入ると満車だったため、切り返そうとバックしたとき、ガリッという音が鳴りました。やってしまった!!という感覚と娘を迎えに行かないといけない焦りと誰もいない駐車場で、抜け出したくなる誘惑は確かにありましたが、すぐに警察を呼び、対応を伺いました。

 現場処理を終え、相手方の連絡の取次ぎをお願いし、保険会社への連絡を終え、娘を迎え、病院に向かいました。そして無事に長男の顔を見、妻と話をすることができました。
 家に帰り、相手方に連絡がつき、「すいません」と語る私に、「そのままでいいですよ。修理もしません。安全運転でいきましょう」と話してくれたその声に、安堵の涙がこぼれました。


    赦しのことばによって負い目は救われ
    大きな喜びを喜ぶことを赦された

みことばはみがき No.77

   マタイ 13:21
   しかし自分の中に根がなく、しばらく続くだけで、
   みことばのために困難や迫害が起こると、
   すぐにつまずいてしまいます。

 妻の出産が近づき、出産をしない私がとても緊張しています。何を準備しなければいけないか、妻が出産後どのような状態で家に戻って来るのか、第一子の時には経験できなかったからこそ、何をどう手を付ければよいかと思い巡らしています。
 新しい家族を迎えるに当たり、部屋の模様替えや準備することなど、頭の中で考えていても、なかなかその時間を取れないことにモヤモヤが溜まってしまっています。

 しかし、落ちついて考えると、自分の計画が思い通りにいかないことよりも、自分ではどうすることもできない状況に対応する方が困難を覚えるのは当然です。そして、それは私だけでなく、娘も同じ状況であることを見落としていたのです。

 出産を控える母とあたふたしている父。その様子を見ながら、自分との時間が減っていることに違和感を覚えつつ、できるだけ楽しくしようとしても、寂しさや抑えきれない感情に涙する娘。小さい心の中で精いっぱい、この状況を受け入れようとしている姿に、申し訳なさを感じてしまいます。それでも、自分がどっしり構えないといけないと、決心を新たにその時を待ちたいと思います。


    困難の中で自分を見失ってしまうならば
    隣にいる者の困難も見えなくなってしまう

みことばはみがき No.76

   エペソ 4:13
   私たちはみな、神の御子に対する信仰と知識において一つとなり、
   一人の成熟した大人となって、
   キリストの満ち満ちた身丈にまで達するのです。

 松原湖バイブルキャンプ場での青年キャンプを行ってきました。関東の青年たちが数年ぶり1泊2日で集い、交わりました。私自身ははじめての奉仕でしたが、初めて会う青年とも交わることができ、東西のキャンプを通して青年たちの状況を知ることができました。

 青年たちの感想として多く寄せられたのは、分かち合いを通して、同じみことばをどのように受け止めるか、人それぞれの違いや同じであることを知れてよかったというものでした。
 説教者がみことばの説き明かしをしても、どのように受け止めるかはそれぞれに委ねられているため、聞き手である青年たちは、自分だけがこう思っているのではないか、受け入れられないのは間違っているのではないかという心配が生まれるのです。
 みことばをどう受け止めたかを分かち合う醍醐味はここにあります。説教の深まりや新しい視点だけでなく、立ち位置や受け取り方の確認ができ、安心したり、修正したりすることができるのです。

 この恵みを携えて教会に戻ってきた時、毎週行っている「プランター」の尊さを感じました。青年だけでなく、あらゆる人にとって分かち合いは信仰を養い、励ましとなっていたのです。


    一つのことばを多くに共有し
    多くの受け取りを一つに共有するのが教会

みことばはみがき No.75

   第1テサロニケ 3:8
   あなたがたが主にあって堅く立っているなら、
   今、私たちの心は生き返るからです。
                
 教団青年部主催の青年キャンプ「ともキャン」が長野県の松原湖バイブルキャンプにて休日の金曜と土曜の1泊2日で行われ、私も奉仕のために出席しました。
 当初は、次の日曜日に礼拝と講演会が予定され、妻の出産も近いことから、初めはあまり気が進みませんでした。しかし、賛美チームの依頼と連絡役となったことで、神学生時代まで過ごした教会の青年の仲間に依頼することができました。

 久しぶりに同じところに立って奉仕できることに期待し、気持ちが前向きになった私は、自分自身に現金な者だと感じつつも喜びで満たされました。

 加えて、岡山から参加することもあり、前日に東京に行くことになったため、11月に結婚する教会の友人と会い、近況を分かち合いつつ、互いの信仰の歩みをともにすることができました。

 そしてこの日、無事に教会に戻れたことにホッとしつつ、講演会の講師との交わりが与えられていることに期待をしています。

 何よりの驚きは、私の励ましとなったこのすべての人たちが同じ教会に属し、遣わされて会うことができたのです。


  信仰を通しての出会いは励ましを与え
  神をほめたたえる御業を示す

みことばはみがき No.74

   エペソ 4:16
   キリストによって、からだ全体は、あらゆる節々を支えとして組み合わされ、
   つなぎ合わされ、それぞれの部分がその分に応じて働くことにより成長して、
   愛のうちに建てられることになります。

 教会独立後、初めて交換講壇が行われました。交換講壇とは牧師が説教する講壇すなわち説教場所を交換することです。牧師である私にとっては自分の牧会する教会ではない場所で日曜日の朝の礼拝をし、説教すること、信徒にとっては別の教会の牧師が礼拝の説教を行うことになります。

 礼拝の準備を終え、担当者に委ねて教会から離れたとき、とても不思議な感覚を覚えました。あらゆることが心配で、まるで自分の子に対して感じた心配のようでした。
 しかし、結果的にその心配は杞憂でした。杞憂どころか想像以上の光景がありました。

 礼拝を終え、1時間後に教会に戻ってくると、ほとんど全員が教会に残って賛美の練習やお話をしていて、帰ってきた私に向かって「おかえりなさい。先生早いですね」と声をかけたのです。
 私は恥ずかしくなりました。別の牧師から何かを受ける者が交換講壇だと思っていましたが、離れることで知らなければならないものがあったのです。これは私の愚かさの象徴でした。


    つながりは気づきによって強められ
    離れることでその強さを知る

みことばはみがき No.73

   詩篇 134:1-2
   さあ 主をほめたたえよ。
   主のすべてのしもべたち
   夜ごとに主の家で仕える者たちよ。
   聖所に向かってあなたがたの手を上げ
   主をほめたたえよ。

 桜が丘キリスト教会の新たな集会、オープン礼拝が始まりました。宣教の原点として夕礼拝を行うことを祈りつつ目指し、毎週テーマを掲げて解説するメッセージと、比較的新しい賛美を中心に1時間弱の集会となるように準備しました。

 集会の司会も賛美の導きもメッセージも、すべてを牧師が担うことは、負担が大きいと感じるものですが、私にとっては、宣教者としての働きを整える訓練となっています。
 すべての出席者が礼拝者となれることを祈りながら前に立ち、幼いながらも楽しそうにいっしょに賛美する娘の姿がありました。それだけではありません。温かい表情で賛美する人、熱心にメッセージに聞き入る人、出席者の人数は決して多いとは言えませんが、まさに、すべての人々によって礼拝が構成され、神との交わりの場が整えられていました。

 この喜びをもっと多くの人と共有したい。もっと神との交わりを楽しみたい。もっと神に従う幸いを味わいたい。福音に仕える喜びは教会と礼拝の醍醐味だと再認識しました。


    神への情熱はみことばの知識に勝り
    神への感謝は働きの貢献に勝る

みことばはみがき No.72

   マタイ 19:21
   イエスは彼に言われた。
   「完全になりたいのなら、帰って、あなたの財産を売り払って
    貧しい人たちに与えなさい。
    そうすれば、あなたは天に宝を持つことになります。
    そのうえで、わたしに従って来なさい。」

 学校の夏休みの最終日と重なった日曜日の夕方、ジョイフルサマー礼拝と夕すずみ会が開催されました。
 十戒をテーマに子どもたちがジョイフルサマーホリデーで学んできたことを振り返るメッセージとなりました。今回の礼拝では子どもたちに加え、保護者もともに神の宝として磨かれる恵みと、磨かれるための掟として与えられた十戒の内容を学びました。
 「隣人の家を欲してはならない」で閉じられた十戒の最後の掟には、今、あなたに与えられたものは十分であること、親があなたのために選んで与えたものだということを学びました。

 礼拝後、花火を楽しみながら、花火をより楽しみたいがために一度に10本近くに火をつけて「明るさ」を見せつける子が現れると、それにつられて周りの子もそのようにし始めました。

 すると、そのうちの一人が握っていたたくさんの花火が、手元まで火が燃え移ってきました。「危ない!」と叫んでも、なかなか握ったものを手放すことができず、大人がその子の握っていた花火を振り落として事なきを得ました。


    楽しみに目がくらむと危険を見失い
    多くを持ちすぎると手放すのが困難になる

みことばはみがき No.71

   ローマ 8:28
   神を愛する人たち、すなわち、
   神のご計画にしたがって召された人たちのためには、
   すべてのことがともに働いて益となることを、
   私たちは知っています。

 妻の妊娠が後期となり、出産への備えが近づいてきました。第1子の際は里帰り出産であったため、臨月に近づく様子や出産後2か月までの子どもの育児に携わることがありませんでした。

 家族のいない家で仕事に従事するばかりであったことを思い出しつつ、今回は子どもの育児に関わりながらその時を迎えることに緊張感を持っています。
 妻が戻ってきて始まった父親としての育児とは違い、今回はだんだんと変化する妻と成長する子どもの姿を見ながら、「急」に生活を切り替えるのではなく、「徐々」に移っていくことの必要性を感じています。

 神との歩みを振り返ると、急に思えることも、実は徐々に備えられてきたことが多くあります。転換は劇的であっても、それまでの一つ一つの道が細い糸によって紡ぎ合わされていたことを知ることとなります。この道でなければ神を知ることはなかったと思い知らされ、すべてが神の御手の中にあることを悟ります。
 神の働きは休むことがありません。


    絶えず働かれる神の計画はいつでも最善
    その計画を知り、備えることは最善の応答

みことばはみがき No.70

   創世記 12:1
   主はアブラムに言われた。
   「あなたは、あなたの土地、
あなたの親族、あなたの父の家を離れて、
わたしが示す地へ行きなさい。」

 夏もだんだんと終わりに近づいています。プールで始まった教会の夏も、残すところ数回の子どもの集まりと夕方の礼拝、そして夕すずみ会として開催する花火だけとなりました。コロナ禍で実施を取り止めるものもあれば、何とかできないかと試行錯誤して実施に至るものもありました。

 教会の様々な行事を準備する時に、常に考えること。それは神のみこころに適っているか、仕える一人一人が信仰をもって取り組めるものかという点です。
 時には自分の思い通りにいかないことがあります。主のみこころと計画だとしても、必ずしも納得できないこともあります。

 それでも信仰によって、自分と違う道であっても、神が守ってくださる、神が祝福してくださると信じて、仕えることを求められることがあります。むしろ、信仰生活の醍醐味はここにあるのかもしれません。
 神に委ね、神の働きに期待して、自分の思いを手放し、仕える時、想像以上の恵みを味わうこともできるでしょう。


    想定内の働きに仕えた報酬は想定内
    想定外の働きに賭けて仕えた報酬は格別